ゲージュツ的しつけ

フェレットのしつけが書いたゲージツ的なしつけ術の数々。メール→fererere25@gmail.com

仏教とエクストリームスポーツと羽生善治。必殺技!無我の境地について

 https://twitter.com/masayachiba/status/1254266546706210816?s=21

人文的な書き物や文学において全てを説明しようとしている文章が軽く見られるのは、俺が俺がという自意識過剰で、エゴイスティックだからである。理数系の文章が全面的な明晰さを目指しても同じ帰結にならないのは、そこでの真理は主観的なものではなく、その明晰さは無我に他ならないからだ。

 哲学者、千葉雅也氏の昨日のツイート。

 どんなにすごい哲学者でも偉大なテキストでも、書いてる人が意識しない理論の飛躍とか、同じ言葉でも意味が違うとかそういうことがあるよねっていう文脈でこのツイートに至ったように僕は感じた。

 

保坂和志『遠い触覚』刊行記念トーク

 https://youtu.be/iR3nvG7TUXw

 今日、さっきこの動画を見て(聞いて)いて、その中で仏教の経典について話しているところがある。

 とある学者が、ある経典についての本を出した。その本の中に「この経典には〇〇という言葉が複数出てくるが、それは場所によってまったく逆の意味として解釈できる双方向的な意味を持つものだ」という記述が出てくるらしい。

 〇〇という言葉の意味が使う場所によってまったく違ってしまうということで、これは科学的にはめちゃくちゃ問題のあることのように一瞬思う。

 教科書に☆☆という言葉が出てきて、それの意味が場所によって違ったら理論としては成り立たないしわけわからないと思うから。

 一つながりの理論とか、考えの積み重ねで、テキストが成り立っている場合、一つの言葉は厳密に扱わなければいけないという感じがする。

 その経典でも〇〇という言葉の意味は、厳密に一つの説明がつくようでないと困ってしまうように思いがちなのだけど、書いてる人はたぶんそんなこと気にしていなくて、大事なのはその言葉そのものの意味ではなくて、その瞬間にその言葉が出てきたということなのだと思う。

 保坂和志は小説家の磯崎憲一郎との会話の中で「磯崎はそれって(保坂氏がよく言う)“小説の推進力”と同じ意味ですよね。とか、こないだそれ話してましたよね。とか言うんだけど、そういうことじゃなくて今その言葉使ってないし、その話の流れの中で言葉が出てきただけなんだよね」というようなことを話すらしい。

 これらの事柄と、冒頭のツイートが自分の中で何か関連がある気がして、それらが繋がって広がっていく気がする。すべては意味が近い。

  冒頭に引用したツイートでは、理数系の論文が全てを説明しようとしても軽く見られないのは、主観的な文章ではないからだ、そしてその明晰さは無我であると言われてる。

 理数系の文章が主観的な文章でないなら、人文的な、あえて言えば文系的な文章は主観的な文章だということになる。主観とエゴは切り離せない。切り離せないのだけど、切り離さないと書けないという矛盾めいたものがある。

 無我の境地っていうテニスの王子様の必殺技があった。

 今でいうゾーンってやつで、科学的にはフロー現象と言うらしい。超集中状態のこと。 アメリカのチクセントミハイさんって心理学者が研究していて、雪山の頂上からスキーで滑ったり、滝を下ったりするようなエクストリームスポーツの人たちはフローに入らないと死ぬから、わざと自分を追い込んででも集中するんだって。

 カフカは一晩でかけるところまで何十枚でも書いてしまう。短編なんかは夜から朝までかけて何時間も書き続けてついに書き終わってしまうらしい。

 しかも、書き始めるのは疲れている時の方が良いとも言っている。

 小説家がフローに入る技術について言いたいわけじゃないけど、こういうことがあって、これってつまり無我の境地なんだと思う。

 何か説明がつかないけどそうなる。書けるとかじゃなくて、書かなきゃいけないとかでもなくて、何か書く。それについて自分の考えの及ばない何か本能みたいなものが働いたり、超集中状態に入ったりする。それは説明がつかない。科学的に説明できても、それで説明がついたわけではない広がりみたいなのがあるとそうだと思った。

 羽生善治というとてつもなく強い将棋指しがいて、彼があまりにも強いから対局中の脳波を測ってみたらα波が出ていた、という話を、さっきの動画で保坂和志がしていた。

 α波というのは瞑想の時にでる波形らしい。だから羽生善治はじーっと考えていて、何か将棋について考えているのだけど、それは瞑想に近い。というか将棋を通して瞑想しているというか、そういう状態だということだ。

 瞑想をすると無我の境地に至ることができる。らしい。それはたぶん自分を消すとか殺すとかそういうことじゃなくて、これは直感に過ぎないのだけど、エゴを殺すということでもない気がする。全てに期待しないみたいな、そんな風にしたらもはや人間ではない気がするから。

 だから無我の境地というのが何なのかは分からないけど、少なくとも羽生善治が考えている時と瞑想は近くて、瞑想が無我の境地につながっているらしい。

 スポーツにおけるゾーン、超集中状態も無我に近く、カフカもそうなっていたのじゃないかと睨んでいる。無我の文章は面白く、偉大なテキストはやっぱり無我っぽい感じがする。

 何ひとつとして断言はできないけど、ただ一つ断言できるのは、これらすべては繋がっている。そしてそれによって世界が広がっているということだ。

 音楽とエゴの関わりかたについて面白いブログ記事があった。

『エゴのない音楽がすき』

 https://teppeikondo.blogspot.com/2017/04/blog-post_10.html?m=1

 作者はアルバートクラリネット奏者の近藤哲平という方。

 音楽をやる人は二通りいて、自分を表現するために音楽を使っている人と、音楽に同化してエゴを消したいという人。

 後者の方が好きだという話。読みやすいし面白いのでぜひ読んでみてほしい。

 音楽と同化してエゴを消す。この時、この人の脳内にはα波が出ているんじゃないか。

 それは科学的にどうとかじゃなくて、瞑想みたいな。羽生善治が将棋の行き先について考える時と同じようなことが演奏家の中で起きているんじゃないかと思う。

 そういう演奏は聞いていて気分がいいし見ていても素晴らしい。

 そういうステージは奇跡みたいな感じになる。小山田壮平や志磨遼平、知久寿焼フレディ・マーキュリールチアーノ・パヴァロッティ宇多田ヒカル...。もう枚挙にいとまがないって感じだけど、最高の人たちはやっぱり無我という感じがする。

 時間があれなのでこの辺で終わります。同化して、エゴを消したいなと思います。音楽と同化して、文章と同化して、そしてそういう人を見ると、その人に同化して、聞いてる人や見てる人も無我〜って感じになるんだと思います。パフォーマーとしても素晴らしくなる。カフカって喋ったら、周りの人がついつい聞いちゃうような人だったんじゃないかなと思う。

実験動物の妄想についての1000文字レポート

 一人だけ取り残されたような気持ちがしている。時の流れは早く、それはぼくの思考よりずっと早い。ぼくの成長よりずっと早い。

 本を読んでいると、その本について色々解説とかが書いてあったりする。友人と話したり、ネットで検索すれば様々な感想が返ってくる。

 そこには、ぼくの読み取れなかった部分、ほんとうのことを言うと、ぼくには情景として理解すらできなかった部分の理解が書かれている。克明に、詳細に。

 それを読むと、世界でこれを理解できないのはぼくだけなんじゃないかという不安が生まれる。それだけの知性を自分が備えていないのではないかという不安。自分が世界に取り残されている不安。

 ぼくは時に、変な妄想をする。

 自分は実験動物のサルで、ほかの人間は宇宙人のように、とにかく自分より遥かに高い知性と能力を持っている。彼らは、この下等なサルを育てていくと何に興味を持ち、どの程度の知性を育むことができるのかを調べるためにぼくの周りで様々なことをする。

 テレビ番組を用意したり、本を用意したり、ポルノを用意したり。彼らはぼくを絶えず監視していて、実験ノートは溜まっていく...。世界は壮大な実験室である!みたいな。バカげた妄想だ。

 ここで大事なのは監視されているという部分ではない。

 自分が下等なサルで、ほかの人間は全てにおいて自分を上回っているという部分だ。取り残されてる感覚が、たぶんこの妄想にあらわれている。

 それと同時に、あくまでも自分は保護された存在であり、甘やかされているという感覚もある。自分では何もせず、周りが条件を整える。自分は観察され大切にされる価値がある存在だと、根底では、思い続けている。

 生存の条件を握られているということはほかの人間の考え次第で死ぬことにもなっている。これは妄想を基にした運命論みたいだ。死ぬ時は実験の終わり。

 ほかの人間には決して追いつけず、保護され、鑑賞され、バカにされ、笑われる。それに抗議しようにも、自分以外はすべてに於いて自分より秀でているのだから文句も言えない。

 そしていつか死ぬ。無様に生き、哀れに死ぬ。ここまでが妄想だ。不安と不信に基づいている妄想だ。

 時の流れは早いという話だった。

 時の流れは早く、ぼくの進みは遅い。劣等感にさいなまれてバカげた妄想をすることもある。こういう時は、寝るのにかぎるから寝よう。良い夢がみたいです。

会話 人称の移動 融合(カメラとか因数分解とかによせての)

 鳥の羽がビルの間をななめに傾かせて通っていくのを見た。ふっくらとした体の年老いた鳩がぼくの足下で草を突っついている。何の気なしに言葉をつぶやく君の声をぼくは聞いた。正確には音を聞いた。音に意味が伴わなければ声じゃない気がする。ぼくは音の方だけ聞いて意味は聞いてなかった。

 「だから、対岸を見てって言ったの。私が川のこっち側と向こう側で微妙に光の当たりかたが違っているのに気付いて、それを彼は知ってるはずだったから。その微妙な違いを撮るのが写真家だって私は先生からこっぴどく言われていたのを、あなたも知っているでしょう?」

 ぼくは知らない。微妙な光の違いも、象徴と記号の違いも知らなかった。だからそう答えた。彼女は首から下げたカメラを持って、急に立ち止まる。パシャパシャと音がして鳩の時間が止まる。SDカードの中で。

 「パシャパシャなんて当たり前の擬音使わないでよ。待って、私が行くまで。」

彼女は早足でついてきた。ぼくは紳士じゃなかった。

「鳩の胸のところの毛の色が少しずつ紫だったり緑だったりするのを私は見つけて、いつかアシスタント付きのスタジオを持ったら鳩の羽を一枚だけもらってきて光の種類を試しながら何百枚と写真を撮ってやろうって話したの。先生は笑って、先生は厳格な人だけど厳しくないから私によく笑ってくれるの。それで、笑って、『光源を真面目に考えて見たことはあるか』って。それで例の光の話になって、その日はそれでおしまい。何もちゃんと技術なんか教えてくれないけど、まあそれでいいのよね。私は彼のアシスタントとして十分に仕事をしてるし。先生はたぶん、仕事のことなんて本当はどっちでも良くて、光とか時間とか、夜ご飯とかそういうことばっかり考えているから、写真がうまいのね。」

 君だってうまいじゃないか。とぼくはひどく一般的なことを言った。例えばオペラ歌手の歌が、誰がうまくて誰が下手かなんて分からないように。つまらないことを言った。

 「前衛芸術家の作品に優劣がつけづらいように。それでもはっきりとその差はある。例えば歌手だったら音とか、芸術家だったら色とかね。その微妙な違い、なんていうの?微分?一番小さくした数ってあるじゃない。」

最大公約数?

「そんな感じ。因数分解みたいな。その一番小さな構成要素が、結局のところ違いになって、見る人が見れば、聞く人が聞けば、それが優劣になる。見る人や聞く人が社会的立場ならそれが一般の評価になる。写真の場合それが光だって、たぶん先生は言いたいんだと思う。」

 ぼくもさっき音について考えていたんだ。それを思い出した。地球の公転周期みたいに、眠れない子供の夜泣きの間隔みたいに、何かが自分や世界を通して循環していて、会話とか思考とかもそういう循環に巻き込まれてしまう。彼女は写真を見比べて足を止めたから、ぼくは最大限の紳士性を発揮して、立ち止まって彼女の方を見た。光がなんとなく彼女を照らしていてそれは今までのどんな瞬間とも違っているようにみえた。

煙は

 便所からタバコの煙が灰色に上がって、チェーン店の大衆酒場の光に照らされて、また街灯の光に照らされて霧のように空へ飛んでいくのを僕はじっと見ていた。

 もう店内では吸えない。

 タバコは彼のものじゃなく、僕のものでもない。僕はタバコを吸わない。もらいものだ。彼はタバコの箱を手に持つと、神妙な顔つきでフィルムを剥がし、上部をパカッと開けて1本だけ取り出し、それも普段神経を使わないことに神経を使っているような、特段男らしい彼がやけに繊細に1本取り出すので、不思議な気持ちにもなった。

 女に触れるように、いや彼の場合女に対してもそんな丁寧な扱いはしないだろう。では、誰に?僕の頭には老いた母親に触れるように、という比喩が浮かんだ。甘えるようにタバコを吸うのだ。タバコを吸う男は皆。なんとなく、不機嫌をぶつけるようにして吸う。タバコを吸った瞬間に感じる一瞬の緩んだ表情を悟られまいと、とっさに口を一文字に結んで、安心なんてしていないぞと見せるようにより神妙な顔つきになる。その時の顔が泣き出す前の子供のようで、僕はおかしくなる。

 口寂しいものがタバコを愛好するようになると聞いたことがある。タバコを吸うと、男は自分の男性性を思い出すようだ。タバコを吸うと、どこか懐かしくなるみたいだ。僕は人の懐かしさを奪ったり、懐かしいと思うきっかけを奪ったりするのは悪いことだと思うから、タバコの規制には反対だった。幼い日に遊んだ公園を取り壊されるような気持ちがするのでは無いだろうか、それどころか、タバコが母親のメタファーだとすれば、母親と触れ合う機会を減らされた子供、あるいは孤児のような気持ちさせられるのでは無いか。これは非喫煙者の勝手な妄想に過ぎない。彼らはそんな、比喩とか関係なく自分が求めるから吸っているだけなのだと、その道理はわかっているつもりだと、そんな意味を込めて、タバコを吸う彼の目を見る。彼の目は退屈そうに見せているけど、やっぱり安心しきっていて、だからタバコの煙はあんなに穏やかに空へ向かって飛んでいくのだ。

生きてるみたいに

 文庫本をめくる左手の抱える紙の束が薄くなっていくにつれて僕は興奮していった。自分の喜びが目的の達成ーーしかも、物理的な目的、ただただ読み終えるというその一点のみに集中している事実が、なんとも悲しい。

 きっとこの文章の束を読んで何か得たり、何かが始まったりするのを期待しているからじゃないのかと思った。自分が何か変わる。そんなことあるはずはない。期待をしてはいけないと、みんなが言っている。みんながやっていることをするなと、みんなが言っている。人間がやっていないことなんてもはやあるのか、あるのだろうきっと。想像力だ。あとはすべて想像力。

 とにかく、本を読むことではなく、読み終えることが喜びだった。同じくらいの喜びは、本を手に入れたときに訪れる。僕にとって本の内容は肝心ではなく、興味を持つこと、手に触れること、時にはネットで検索すること、そしてお金を払うこと。それが目的で、あとは読み進めて、読み進める行為が達成されること。内容はプロセスの一環でしかなく、理解をしようと思って読むが、理解できた試しなんてない。

 いつだってそうだ。始まる前と、終わる瞬間が一番気分がいい。音楽だってそうだ。聴いている間の時間は、格好つけて言えば、聴いている間にのみ流れる。音はその瞬間だけで、それは文字でも同じことだ。限りない瞬間的な受容と取捨選択の微分。認識の微分。身体が生命を維持している中に一瞬ごとに現れるストレス。それ以上のものはない。格好つけて言えばそうだ。簡単に言えば、何ひとつ分かんないってことだ。理解力がない。

 始まる前、生まれる前、この細胞が分裂を開始する前、血と共にトイレに流されなかった幸運な一つの細胞が生まれる前、少女の母親、初潮前の、今この肉体につながるものがすべて存在しなかった時間。

 おそらくその間、いつからいつまでかはわからないその間は最高に幸福だっただろう。希望と未来しか存在しない瞬間。瞬間でありながら永遠でもあったはずの、その時、始まる前。本を購入する前のように、見知らぬ場所に行きたいと思った瞬間のように、ライブラリに登録する音楽を見つけたときのように幸福だろう。

 しかし、人生は始まり、今この瞬間の微分の永遠の積み重なりとして僕ができてしまい、何かを考えたり、感じたりすることによって最大の幸福は失われてしまった。あとはページをめくるように時間が過ぎるのに耐え忍ぶのみで、左手に抱える紙の束は、いわゆる寿命というやつだけど、どんどん薄くなっていくのを、期待と、若干の寂しさを持って感じていくだけだ。感じているだけの自分という、なんとなく客観的なような気がする視点が僕を安心させている。瞬間を感じるだけ。過去は過ぎ去り、未来は次々に現在へと置き換わっていく。そして紙の束が減る。

 左手の紙の束の重みを感じることができないのもまた不幸なことだと思う。そして幸福なことだ。余命宣告とうつ病の関係を見たことがある。余命宣告を受けた人は三ヶ月以内にうつ病にかかるケースが大変多い。未来を知ると鬱になる。なのに未来を考えるのが、大人ということになっている。いや、こんな文句は言ってもしょうがないし、そもそも言う対象なんていない。

 終わる瞬間はきっと幸福だろう。終わるにつれてきっと興奮してくるだろう。なんであれ達成だ。読むことも聞くこともストレスだ。きっと生きることもストレスだ。感じているのは誰かわからないけど、誰かにとってストレスだ。いつか終わる。達成される。達成感を感じることはあるのか。死ぬことで、何かを得ることができるのか、生きていることは何かを得ることになるのか、いったい何を得るのだろうか。いったい何を失うのだろうか。生きてるみたいに本を読んだり音楽を聞いたり、文章を書いたり歌ったりしたい。生きているみたいに、生きている限りは結果的に必ずそうなる。すべての行動のロールモデルは生きていることだ。

終結しないこと、無意味さ。

 夕暮れとか、砂漠の始まりとか、どうしてもたどり着かないもの。決してたどり着かないところへ向かってずっと歩き続けているひとがいる。

 虹の根元へ行こうと思った理由を彼はこう話した。「行かないと鬱になって死んじゃうからです。」

 でも、虹の根本なんて無いんだよって言うと、無くても行かなきゃいけないと言う。科学的には、不毛だ。彼は不毛な一生をオーストラリアの砂漠の、赤茶けた砂の上に転がる一つの石のそばで終えた。

 オーストラリアの伝承では、その石の根本に蛇が眠っており、その蛇の力によって空に虹がかかるのだという。彼は虹の根元を見つけたのかもしれない。目的を達成して、死んだ。つまり彼にとっての生命とは一つの目的と、それに至るまでの遅延のことだった。そしてそれは動物性の否定で、人間であるということだろう。彼は長い放浪生活の中で、動物と人間の間を揺れ動いていた。

 動物性の否認という意味では、彼の旅、もしくは生命そのもの、追い求めるもの全てがそれを担っていた。しかし旅を続けるのは、人間性の否認でもある。時に、平原の虹の根元を探していたとき彼は森の中に入ってしまうことがあり、そうなるとしばらくは出られない。方位磁石もスマートフォンも持たないから。彼は自分の血を吸ったひるを右手の親指と人差し指で潰したとき、広がる赤い血を見ていたときのことを思い出し、それは衣服を着ていることを忘れさせるような感触だった。

 目的への永遠の遅延ということであれば、とあるジャズピアニストはもう三日間も即興を続けている。曲に終わりはない。永遠のアドリブが続き、ハーモニーは解決することはない。終結しないこと、無意味さ。解釈に到達せず、彼の生命は揺れ動くことでのみ揺れ動き、生きることによって生きているような、感覚。

 彼は多くの人を愛したし多くの人に愛された。子供はいなかった。妻もいなかった。正しいとか正しくないとかではなかった。承認欲求と手を切りつつ、人前での演奏を喜んだ。常に揺れ動いていたのだ。三日続くライブの音はマンションの窓から漏れ出し、苦情を言いに来た人がインターネットで拡散し、結果的に観客は数人いた。面白がっていたのだ。それは公開自殺のようなものだと思われていたのだ。ジャズピアニストはそんなことをつゆ知らず部屋の中で無限のアドリブに埋没してそのコードが解決しないように彼の生命もまた解決しないうちに死んでしまいそうになる。クラクラするのを楽しんでいる。それはひどく動物的な感覚だ。遅延の中だ。死ぬまでの暇つぶしとは、つまらないことだと思っていた。ジャズピアニストの両親は東京で印刷業を営んでいる。

おうだんほどう

 駅の階段を降りて、目の前に大きな通りがある。横断歩道は5メートルくらいの横幅があって、ずらーっと人が一列になっているから、昼の時間の駅前は混むのだと分かった。

 今日はよく晴れていた。僕はイメージを膨らませながら歩いた。人々が何かざわめきを発していた。電車が音を立てて到着して、あと数秒で発射するだろう。車は止まる。止まる時にも音が鳴る。信号が青になって、「青になりました。気をつけてお通りください。」と、女の声でアナウンスが入る。たとえば地球が終わるとか、そこまで大袈裟じゃなくても、感染症か何かで人が居なくなった街で、この女の声は鳴り続けるんだろうか。今日みたいに晴れた日の、誰もいない横断歩道で鳴り響く「気をつけてお通りください。」の声を想像した。ずぼらな役人がスイッチを切り忘れて、電力を無駄に使いながら、その供給が止まるまで定期的に続く警告の声。それはもはや生命のようだと思った。行為に意味が伴わなくなった途端に、生命のような気がするから、不思議だ。生命は意味がないのかな、とか思った。横断歩道を渡り切った。電車は発車して、次の電車が止まっていた。

 僕は横断歩道の目の前のセブンイレブンを左に行って、吉野家とパチンコ屋の間の路地に入った。ふと、これは夢の中だと、思った。もしこれが誰かが見ている夢の中なら、ある瞬間、その人の耳もとで大声が鳴るとかしたら、僕の意識はふっと消えてその人の現実が始まるのだから、それなら僕が仕事をしていないこととか、生活費を下げようとかそう言うことは全て無くなるのだから、目覚める瞬間が来たらそれはそれでいいなと本気で思った。

 僕は路地を入って行った。路地は両側にハンコ製造工場とか印刷会社とかの看板が並ぶ通りで、コンクリートに囲まれている。地面がアスファルトで両側がコンクリートだから、僕に残された自然な空間はもはや空しかなく、空はこんな風に追い込まれた僕から見たら、そしてこの気軽な身分の僕から見てもひどく能天気に真っ青で、雲がぷかぷかというか押し流されているのが見えて、あんな巨大な水蒸気の塊を押し出すだけの風の力はなんだかえらいと思ったし、そこで風力発電をすれば凄まじいエネルギーを得られるのではないだろうかと妄想した。でも自然はそのままでいてほしいとも思う。ナイアガラの滝で水力発電を始めたりしたらなんだか感動できない。しかし感動するとかしないとかも人間の勝手で、発電をするのも人間の勝手で、滝は滝であって、どっちにしろ人間の都合に付き合わされて勝手な意味を付与されているのだから、どちらにせよ何も変わらないのだろう。滝によって恩恵を得るなら滝にとって一番良いようにするべきだと思った。都会の大通りの音や電車の音は滝のようだった気がする。そうじゃなかった気もする。

 路地の中からは色々な音がした。いや、ざわめきというか、音だ。何か低音でじーーーーっと鳴り続ける音、足音、カラスの鳴き声。「兄ちゃん、ちょっと、」振り向いた。

 「ちょっと、こんにちは。あのさあ、」僕はさーっと冷たくなる思いがした。こんなところで話しかける奴なんて危ない奴に決まっているから僕は早足で通り過ぎようとすると「おいこら、まてよ!」などと叫ぶのでたまらず駆け出した。相手は爺さんだった。爺さんだから追いつけないだろう。実際に、追いかけてはこない。僕はほっとして、しかしこういう風に新たな出会いを無下にしているかぎり、自分は成功しないのではないかと思った。成功する人間は新たな出会いを拒まないと、この間立ち読みしたビジネス書に書いてあったから。

 いや、そんなことを思ったのは落ち着いてからだ。しばらくこの道は通りたくない。あの爺さんが張っているかもしれない。刑事ドラマの見過ぎかもしれない。僕は、この夢を見ている人が早く目を覚ませばいいと思った。死にたい。死にたい...?

 死にたいのかな、と思った。いや、そんなはずはない。走って疲れて喉が乾いたので公園の自販機でミックスジュースを買った。死にたい人間は飲み物を買わないだろう。いや、そんなことはないのか。大岡昇平の『不慮記』には、死ぬ前に渇きを癒したいと考えるフィリピン戦線の兵士が出てくる。たとえ死ぬと確信しても渇きとはそれほどに満たさなくてはいけないのだろうかと、不思議になる。不思議だけどその矛盾が生きることだと思ったから僕はそのあたりの場面が気に入った。小説を読むのは好きだった。あの爺さんみたいに怒鳴ってはこない。

 どちらにせよ死にたいとシリアスに考えているわけじゃない。逃げたいのだと思う。僕は、仕事がないから何かから逃げたいのだと思う。生活水準が下がったって人と比べなければ幸せだ。幸せだと思うことは低コストで叶えられる。いっそのこと、生活費の安い海外に移住しようかと思った。平日の日射しが強い春のジメジメした公園で、「海外 移住 安い」と検索する、そんな自分の姿を小学生のとき、想像したことがない。