ゲージュツ的しつけ

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ウェルベックのセックスと闘争と愛についてーーミシェル・ウェルベック『素粒子』を読んで

  ミシェル・ウェルベックの『素粒子』を読み終えた。

 良かったのだろうか。ウェルベックの小説を読むたびにそう自分へ問いかける。この小説は良かったのだろうか。この小説を読んで良かったのだろうか。この小説は自分にとって良い影響を与えたのだろうか。

 この世への諦めと皮肉に満ちた内容、きらめくような情景描写、淡々と進む生活と救い、そして破滅。読むたびに悲しくなる。なんで俺はわざわざこんなに悲しいものを読んでいるんだろうという気持ちになる。それでも読み進めてしまう。

 それは魅力があるからなのか、それとも「良い」からなのだろうか。

 彼の小説が魅力的かどうかはわからない。けれどぼくは彼の小説が持つ「真実」というか「実感」のようなものに強く惹かれてしまう。生きるぼくにとってのひりひりした実感。悲しくなりたくはない。けれどひりひりした実感に共感したい。

 ウェルベックの小説にはある種の真実が書かれている。競争はぼくらの生活の細かな隙間にも入り込んでいること。何をしても勝者と敗者が決まってしまうこと。勝者になるのは簡単じゃないこと。勝者にとっても人生は楽じゃないってこと。ウェルベックの小説は敗者の物語じゃない。下克上の物語でもない。そこに出てくる人物はそこそこ豊かで、そこそこ満たされていて、どうしようもなく何かを諦めている。

 『素粒子』を読んでぼくは愛について考えた。ぼくは『素粒子』を読んで、愛について考えるような人になってしまった。いままでは愛について考える人じゃなかった。愛について考える人のことをちょっと遠ざけていたところもある。

 愛なんてない!恋なんて嘘だ!だって俺の気持ちはラブソングじゃ間に合わないんだ!そう、志磨遼平である。

 ぼくは思春期を毛皮のマリーズと共に過ごしてしまったから「愛を超えるものじゃないと愛じゃないのでは...?」みたいな逆説の沼にずぶずぶ入り込んでいるのだ。ぼくにとって愛は語り得ないもののはずだった。なのにどうしてか愛について考えている。もっと言うと愛と体について。

 ウェルベックの小説のなかで大きく挙げられているトピックが性愛だ。主人公はセックスを求め、振られたりうまくいったりする。セックスをして幸せになる。

 セックスは幸せをもたらす。つかの間の幸せを。恋人たちはつかの間の幸せを何度も繰り返し、めくるめく性愛の渦に溺れていく。それは幸福だ。幸福な毎日だ。たとえ加齢によって男性機能が衰えていたって。自分を受け入れる体があり、自分が受け入れていいと思える体がある。そこには呼吸があり鼓動があり体温があり生命がある。

 『素粒子』に出てくる人物はみんなとても丁寧なセックスをする。それはたまにTwitterで文句を言われてる「胸と性器をさわって濡らせて勃たせて入れて出しておしまい」みたいなセックスではない。

 目を合わせて肌の温度や滑らかさを感じて相手の反応を感じて相手の体温や鼓動を感じて呼吸まで一体化するようなセックスだ。AV監督の代々木忠が理想とするような愛のセックス。相手との一体化を求めるフュージョンのセックス。ウェルベックの小説に出てくる人物はどんな状況でも目の前の相手を見続ける。ヒッピーの集まるキャンプやデートクラブや乱交パーティーの中でも目の前の恋人との一体化を求めている。

 バタイユは『エロティシズム』のなかで人間同士の非連続性を嘆いた。僕らは何を考えてもだれ一人として他の人の意識を変えることはできない。精神的に人間は断絶されている。孤立している。それどころか肉体的にも孤立している。隣で手をつないだ人間が傷ついたって自分が傷つくわけじゃない。いまセックスしている相手が死んだって自分が死ぬことはない。個体の間には決して交わることのない深淵が広がっており、人間は絶対的に孤独である。うろ覚えで超訳するとこんなことを言っている。

 『素粒子』のなかでいちばん印象に残ったシーンは、つまりいちばん愛を感じたシーンは、主人公のブリュノがセックスをした翌日にテントのなかで恋人と朝を迎えるシーンだ。朝チュンのシーン。

 二人はベッドのなかでなぜか自分の抱える問題や過去のトラウマについて話し合う。相手に傷ついた姿を晒し相手の傷ついた姿を見ることで決して交わらない深淵を少しずつ埋めようとしているみたいに。それは存在の非連続性を越えようという試みにも見えた。相手の傷を自分のものにして自分の傷を相手のものにすることで自分と相手の境界を無くしていく。それは相手の快感を自分の快感にしてしまう、セックスのもつ貪欲さの裏返しだ。

 セックスも、朝に行われる精神的な自傷行為も、人間の絶対的な孤独を解消するための試みだ。孤独の解消、それは決して叶うことのない望みだけど、それを分かりつつ、叶わないことに傷つきつつもお互いを受け入れ合う。ぼくにとってウェルベック朝チュンはそんな健気なシーンに見えた。

 その健気さを見てぼくは愛という言葉を思い出したのだ。相手を愛することは結局、自分の欲望を相手にぶつけるだけの身勝手な行為かもしれない。うまくいけば相手を理解した気になることだってできる。けれどそんなのは幻想だ。自分の世界のなかに相手を落としこんだに過ぎないからだ。

 しかし、それでもぼくらは相手を理解しようとする。自分と相手の間にある断絶をすこしでもを埋めようとする。それは愛の試みじゃないのかと思う。愛とは、自分の欲望を勝手なものと知りながらも、健気に孤独を埋めようとする試みのことなんじゃないか。相手への愛が自分への愛になる、自分への愛が相手への愛になる。絶対に知り得ない相手のすべてと絶対に語り得ない自分のすべてをお互いに抱えたまま勝手に理解し合う孤独な生物が二人。

 そんなロマンチックな世界をぼくは『素粒子』のなかに見た。愛らしきものの手触りが持つ暖かさや柔らかさは、ウェルベックの描く極限まで闘争領域が拡大した社会の灼けつくような実感や焦りと交互に現れながらひとつの巨大なうねりとなって物語を進めていく。ぼくは闘争の中に愛を見た。愛の中に闘争を見た。交わりそうで交わらない愛と闘争はこのどうしようもない世界を進めていく。


「男女はまぐわりおんなじ動作を数万回、繰り返し続ける」ーー向井秀徳『Water Front』より。

https://youtu.be/TELGHn9WaOg