ゲージュツ的しつけ

フェレットのしつけが書いたゲージツ的なしつけ術の数々。メール→fererere25@gmail.com

失われた未来と死んでいった文字について

 まず一行目に短文を置く。

 そして二行目で短文についての説明を始めたり、発展する未来のように、突然謎のセンテンスを入れたりする。

 文章の中における文字数はだんだんと増えていき、情報は厚みを増しながら最初の短文を補足していく。

 説明不足を取り返すかのように文章は細かさを増していき、時代背景や基礎知識が読者に与えられ、多少飛躍して文章着地していく。人間はすこしずつ変化していく文体に翻弄されているうちに先へ先へと文章を読んでしまう。それに抗うことはできない。

 見えない文章の隙間をうめていく。

 私たちに文章の隙間は見えない。私たちは文字を見ている。ディスプレイの空白を埋めていくように文字は次から次へと私たちの頭のなかに入っていき、浮かんでは消え、そしていつのまにかページは先へと進んでしまう。そこに私たちの意識が介在する余地はない。私たちは何も考えないでいい。あらゆる文章の可能性は空白のなかにあり、今読んでいる文字の先にある。文脈や行間の間には無限が広がっている。無限は目で追われるたびに文字になって固着されて、そして私たちの指は次のスクロールを始める。そうやって私たちは未来を失う。

 死んでいった未来の亡霊が都市を覆う。

 死んでいった未来の亡霊、それは文字の形をしている。文字とは私たちが見ている広告やネオン、案内、字幕、URL。それらすべてが資本の拡大のために用意され、資本という帰る場所を持つ。固定された未来が私たちの生活を覆い尽くしてしまった。

 渋谷のスクランブル交差点。夜。すべてのディスプレイが紫色の海を映し出す。音楽ははじまったーー。一定のリズムを刻むドラム、くぐもった音質。映像のなかに光る「pray for Nujabes」の文字。

 https://twitter.com/__casa/status/1232637787431555072?s=21

 Hip-HopアーティストのNujabesが亡くなったとき、ぼくは11歳で、音楽のことなんてまだ何も知らなかった。

 音楽のことなんてまだ何も。冬だった。寒い冬だった。半分しか丈のないズボンを履いて走り回る小学生たち。彼らは未来を知らない。彼らにとって資本が関わるとすれば遊戯王のカードかポテトチップスの袋くらいだった。

 その十年後、渋谷の街で、少年は涙を流すことになる。少年は、足を止めて『Lamp』を聴くことになる。少年は。

 ディスプレイに文字が躍る。

 死んだ文字が。