ゲージュツ的しつけ

フェレットのしつけが書いたゲージツ的なしつけ術の数々。メール→fererere25@gmail.com

仏教とエクストリームスポーツと羽生善治。必殺技!無我の境地について

 https://twitter.com/masayachiba/status/1254266546706210816?s=21

人文的な書き物や文学において全てを説明しようとしている文章が軽く見られるのは、俺が俺がという自意識過剰で、エゴイスティックだからである。理数系の文章が全面的な明晰さを目指しても同じ帰結にならないのは、そこでの真理は主観的なものではなく、その明晰さは無我に他ならないからだ。

 哲学者、千葉雅也氏の昨日のツイート。

 どんなにすごい哲学者でも偉大なテキストでも、書いてる人が意識しない理論の飛躍とか、同じ言葉でも意味が違うとかそういうことがあるよねっていう文脈でこのツイートに至ったように僕は感じた。

 

保坂和志『遠い触覚』刊行記念トーク

 https://youtu.be/iR3nvG7TUXw

 今日、さっきこの動画を見て(聞いて)いて、その中で仏教の経典について話しているところがある。

 とある学者が、ある経典についての本を出した。その本の中に「この経典には〇〇という言葉が複数出てくるが、それは場所によってまったく逆の意味として解釈できる双方向的な意味を持つものだ」という記述が出てくるらしい。

 〇〇という言葉の意味が使う場所によってまったく違ってしまうということで、これは科学的にはめちゃくちゃ問題のあることのように一瞬思う。

 教科書に☆☆という言葉が出てきて、それの意味が場所によって違ったら理論としては成り立たないしわけわからないと思うから。

 一つながりの理論とか、考えの積み重ねで、テキストが成り立っている場合、一つの言葉は厳密に扱わなければいけないという感じがする。

 その経典でも〇〇という言葉の意味は、厳密に一つの説明がつくようでないと困ってしまうように思いがちなのだけど、書いてる人はたぶんそんなこと気にしていなくて、大事なのはその言葉そのものの意味ではなくて、その瞬間にその言葉が出てきたということなのだと思う。

 保坂和志は小説家の磯崎憲一郎との会話の中で「磯崎はそれって(保坂氏がよく言う)“小説の推進力”と同じ意味ですよね。とか、こないだそれ話してましたよね。とか言うんだけど、そういうことじゃなくて今その言葉使ってないし、その話の流れの中で言葉が出てきただけなんだよね」というようなことを話すらしい。

 これらの事柄と、冒頭のツイートが自分の中で何か関連がある気がして、それらが繋がって広がっていく気がする。すべては意味が近い。

  冒頭に引用したツイートでは、理数系の論文が全てを説明しようとしても軽く見られないのは、主観的な文章ではないからだ、そしてその明晰さは無我であると言われてる。

 理数系の文章が主観的な文章でないなら、人文的な、あえて言えば文系的な文章は主観的な文章だということになる。主観とエゴは切り離せない。切り離せないのだけど、切り離さないと書けないという矛盾めいたものがある。

 無我の境地っていうテニスの王子様の必殺技があった。

 今でいうゾーンってやつで、科学的にはフロー現象と言うらしい。超集中状態のこと。 アメリカのチクセントミハイさんって心理学者が研究していて、雪山の頂上からスキーで滑ったり、滝を下ったりするようなエクストリームスポーツの人たちはフローに入らないと死ぬから、わざと自分を追い込んででも集中するんだって。

 カフカは一晩でかけるところまで何十枚でも書いてしまう。短編なんかは夜から朝までかけて何時間も書き続けてついに書き終わってしまうらしい。

 しかも、書き始めるのは疲れている時の方が良いとも言っている。

 小説家がフローに入る技術について言いたいわけじゃないけど、こういうことがあって、これってつまり無我の境地なんだと思う。

 何か説明がつかないけどそうなる。書けるとかじゃなくて、書かなきゃいけないとかでもなくて、何か書く。それについて自分の考えの及ばない何か本能みたいなものが働いたり、超集中状態に入ったりする。それは説明がつかない。科学的に説明できても、それで説明がついたわけではない広がりみたいなのがあるとそうだと思った。

 羽生善治というとてつもなく強い将棋指しがいて、彼があまりにも強いから対局中の脳波を測ってみたらα波が出ていた、という話を、さっきの動画で保坂和志がしていた。

 α波というのは瞑想の時にでる波形らしい。だから羽生善治はじーっと考えていて、何か将棋について考えているのだけど、それは瞑想に近い。というか将棋を通して瞑想しているというか、そういう状態だということだ。

 瞑想をすると無我の境地に至ることができる。らしい。それはたぶん自分を消すとか殺すとかそういうことじゃなくて、これは直感に過ぎないのだけど、エゴを殺すということでもない気がする。全てに期待しないみたいな、そんな風にしたらもはや人間ではない気がするから。

 だから無我の境地というのが何なのかは分からないけど、少なくとも羽生善治が考えている時と瞑想は近くて、瞑想が無我の境地につながっているらしい。

 スポーツにおけるゾーン、超集中状態も無我に近く、カフカもそうなっていたのじゃないかと睨んでいる。無我の文章は面白く、偉大なテキストはやっぱり無我っぽい感じがする。

 何ひとつとして断言はできないけど、ただ一つ断言できるのは、これらすべては繋がっている。そしてそれによって世界が広がっているということだ。

 音楽とエゴの関わりかたについて面白いブログ記事があった。

『エゴのない音楽がすき』

 https://teppeikondo.blogspot.com/2017/04/blog-post_10.html?m=1

 作者はアルバートクラリネット奏者の近藤哲平という方。

 音楽をやる人は二通りいて、自分を表現するために音楽を使っている人と、音楽に同化してエゴを消したいという人。

 後者の方が好きだという話。読みやすいし面白いのでぜひ読んでみてほしい。

 音楽と同化してエゴを消す。この時、この人の脳内にはα波が出ているんじゃないか。

 それは科学的にどうとかじゃなくて、瞑想みたいな。羽生善治が将棋の行き先について考える時と同じようなことが演奏家の中で起きているんじゃないかと思う。

 そういう演奏は聞いていて気分がいいし見ていても素晴らしい。

 そういうステージは奇跡みたいな感じになる。小山田壮平や志磨遼平、知久寿焼フレディ・マーキュリールチアーノ・パヴァロッティ宇多田ヒカル...。もう枚挙にいとまがないって感じだけど、最高の人たちはやっぱり無我という感じがする。

 時間があれなのでこの辺で終わります。同化して、エゴを消したいなと思います。音楽と同化して、文章と同化して、そしてそういう人を見ると、その人に同化して、聞いてる人や見てる人も無我〜って感じになるんだと思います。パフォーマーとしても素晴らしくなる。カフカって喋ったら、周りの人がついつい聞いちゃうような人だったんじゃないかなと思う。