ゲージュツ的しつけ

フェレットのしつけが書いたゲージツ的なしつけ術の数々。メール→fererere25@gmail.com

お芝居をほんとうにしちゃった人たち

 星野源新垣結衣が結婚した。

 この一文を中学生のころのぼくに見せたらなんて言うだろう。「まさか」とか、「面白いね、小説?」とか言うのかな。

 あの頃のぼくはラジオを聴きながら片道一時間三十分かかる中学校に通っていた。星野源といえばラジオから流れるセンスの良い曲をつくる人だったし、新垣結衣は、通称ガッキーかわいい人気の人、くらいの認識だった。

 総武線の窓から雨の降る東京を眺めながら聴いていたJ-waveのニュース番組で、星野源の『フィルム』がながれる。

 あの時間、あの14歳の梅雨の日ぼくはたしかに幸福だった。星野源のファンになって数年。ぼくは幸福だった。

 それから三年くらい経って、星野源がCMをやっていた吉野家で、着々と出てくる星野源の人気になぜか苦々しく思いつつ食べた牛丼も美味しかった。『SUN』は最高の楽曲だった。

 『逃げ恥』が始まった。『恋』もダンスも最高だった。テレビの向こう側でお芝居をする星野源新垣結衣。中学生のころ、ぼくの幸せの大きな部分を担っていた音楽家。こうして世間で大人気になったマルチタレント。

 ぼくは自分で曲をつくり、ギターを弾いて歌って、星野源の真似をしてるみたいだった。中学生のころからずっと、真似をしてる。それだけ。それから、音楽大学に入学した。

 

 音楽大学には天才がいる。中学、高校にも天才はいた。いずれにせよ彼らは決してつよい人じゃなかった。けれど彼らの音楽はつよい音楽だった。明確な自己と個性を持った音楽。明確な自己なんて、実際には存在しない。けれど音楽のうえではたしかにある。

 彼らは天才を演じているように思えた。天才のお芝居と、それを可能にするだけの能力。それがあるからただひとつの自己みたいなものを音楽化して打ち出せるのだと思う。この認識は嫉妬からのものかもしれない。けど、彼ら本人と話すと、やっぱり彼らは自分の音楽ほどには強くなかった。

  なりたい自分になってしまった彼らはきっと幸福なんだろか。うまくいけばいずれ、なりたい自分がそれまでの自分を追い越して、なりたい自分そのものになっていく。よわい自分を捨てて、いつの間にかお芝居がほんとうになっていくのだろう。

 お芝居をほんとうにできれば幸せだと、思う。だからなりたい自分になるためにはたぶん、いまの自分と矛盾していたってお芝居を始めるしかない。つよくて、安定していて、才能あふれる自分のお芝居。

 星野源新垣結衣の結婚は、お芝居をほんとうにしちゃった感じがしてすこし不思議な気持ちになった。二人は幸せなのか、お芝居をほんとうにできるから二人には才能があるのだろうか、とか考えて、いや、そんな事とは関係なく愛情があるから結婚したんだ。という当たり前の結論に至る。祝福しています。