ゲージュツ的しつけ

フェレットのしつけが書いたゲージツ的なしつけ術の数々。メール→fererere25@gmail.com

終結しないこと、無意味さ。

 夕暮れとか、砂漠の始まりとか、どうしてもたどり着かないもの。決してたどり着かないところへ向かってずっと歩き続けているひとがいる。

 虹の根元へ行こうと思った理由を彼はこう話した。「行かないと鬱になって死んじゃうからです。」

 でも、虹の根本なんて無いんだよって言うと、無くても行かなきゃいけないと言う。科学的には、不毛だ。彼は不毛な一生をオーストラリアの砂漠の、赤茶けた砂の上に転がる一つの石のそばで終えた。

 オーストラリアの伝承では、その石の根本に蛇が眠っており、その蛇の力によって空に虹がかかるのだという。彼は虹の根元を見つけたのかもしれない。目的を達成して、死んだ。つまり彼にとっての生命とは一つの目的と、それに至るまでの遅延のことだった。そしてそれは動物性の否定で、人間であるということだろう。彼は長い放浪生活の中で、動物と人間の間を揺れ動いていた。

 動物性の否認という意味では、彼の旅、もしくは生命そのもの、追い求めるもの全てがそれを担っていた。しかし旅を続けるのは、人間性の否認でもある。時に、平原の虹の根元を探していたとき彼は森の中に入ってしまうことがあり、そうなるとしばらくは出られない。方位磁石もスマートフォンも持たないから。彼は自分の血を吸ったひるを右手の親指と人差し指で潰したとき、広がる赤い血を見ていたときのことを思い出し、それは衣服を着ていることを忘れさせるような感触だった。

 目的への永遠の遅延ということであれば、とあるジャズピアニストはもう三日間も即興を続けている。曲に終わりはない。永遠のアドリブが続き、ハーモニーは解決することはない。終結しないこと、無意味さ。解釈に到達せず、彼の生命は揺れ動くことでのみ揺れ動き、生きることによって生きているような、感覚。

 彼は多くの人を愛したし多くの人に愛された。子供はいなかった。妻もいなかった。正しいとか正しくないとかではなかった。承認欲求と手を切りつつ、人前での演奏を喜んだ。常に揺れ動いていたのだ。三日続くライブの音はマンションの窓から漏れ出し、苦情を言いに来た人がインターネットで拡散し、結果的に観客は数人いた。面白がっていたのだ。それは公開自殺のようなものだと思われていたのだ。ジャズピアニストはそんなことをつゆ知らず部屋の中で無限のアドリブに埋没してそのコードが解決しないように彼の生命もまた解決しないうちに死んでしまいそうになる。クラクラするのを楽しんでいる。それはひどく動物的な感覚だ。遅延の中だ。死ぬまでの暇つぶしとは、つまらないことだと思っていた。ジャズピアニストの両親は東京で印刷業を営んでいる。