ゲージュツ的しつけ

フェレットのしつけが書いたゲージツ的なしつけ術の数々。メール→fererere25@gmail.com

テレビみて一緒に笑いたい家族計画でした

 テレビでは人を殺したニュースが流れていて「よく簡単に人を殺せるよね」なんて言った父親が次の瞬間には岩盤浴の広告を見て少しだけ笑いを噴き出したりしていて、人が死んだことを嘆いた三秒後に笑う感覚が一般的なんだろーか、と思い、じゃあいつもぼくは繊細すぎるとか、何で言われんだろうなと悩んでみても、お腹が空くのでとりあえず茹でてるパスタのことを考えることにする。

 パスタは熱にかけられた鍋のなかで無限の円運動を繰り返し繰り返して、水の対流の中を回り続けている、これはまるで箱庭みたいだ、シミュレーションゲームみたいだ、と思いながら鍋のそこから湧き上がってくるグツグツとした泡。あわあわあわ、これらが上がってきては弾ける弾けるのを見ている。あと七分。テレビからマーチングバンドの音楽と、それに合わせて踊る男たちのCM。車のCM。

 退屈な生活、そんなフレーズを考えながら、七分間待つだけ、人が殺された、人を殺したニュースは毎日のように流れてくるけど、その合間に流されるCMだって人を殺しそうなくらい冗長だって思う。僕は実家に居る独身のフリーター男性として、どうしようもないとされる人間の一人として生きている。そのぼくがこうして社会やマジョリティに反感を覚えながら生きている。ここに対立軸がある。ぼくと一本線を挟んだ向かい側にあるものたち。

 タイマーが鳴った。ずいぶんと早い七分間だ。フライパンのなかにトマト。あとアサリ。貝を歯で挟んでつぶした時に流れ出てくる汁はおいしい、その食感は少しだけゴリとしていて水分を含んだようでもあって、何かいけないものを歯で挟んでしまったような気がして好きだ、貝の食感は、なにか取り返しのつかないものに触れた感じがある。

 パスタソースとパスタを混ぜる。フライパンの上に、鍋から直接パスタを入れる。男の料理だと、言ってしまえば何故だか雑なところやがさつなところが許される気がする、こういうのを自動思考と言うのだろう。自動的に愛、とか、絆とかね、そういう言葉を再生しては何か一体感が生まれるこの脳内。脳内のようにパスタは整然としていて首尾良くソースに絡まってくれる。

 仕事はどうするんだ、とか、父は決して言わない。ずいぶんとお金がかかっているはずなのにね、ぼくには。パスタを皿に入れて、リビングへ向かう。テレビの音が近づく。テレビが一番よく見える席で、父親がグラスにレモンと焼酎と炭酸水でレモンサワーを作ってる。テレビでは殺人的なCMが流れていてぼくは、少し多く茹ですぎたパスタを食べる時間を考える。そのあいだ、テレビを見なきゃいけない。ぼくは自分にかけられた金を考えて罪悪感を感じながら、父親と同じ空間を生きていかなきゃいけない。父親は寛容な人間だ。テレビをみて一緒に笑いたかったなあ笑えるくらいの寛容さが欲しかったなあと思いながら、トマトを噛み潰してみて、酸味。美味しいのだろうか、これは酸味。

変な味

 路地裏では雑居ビルの室外機がいっせいに動いているために、ゴウゴウとすごい音がする。彼はタバコを咥えながら、室外機の吐き出すなま暖かい空気のなかにいた。ここの空気のほうがタバコの煙より健康に悪そうだ。

 彼は朝方が好きだった。深夜ではない。夜が終わり、ホストクラブやキャバクラも客を街に放り出したあと、誰もがぼんやりとした頭で、あるいは殴られたり、怒鳴られたりした後の傷ついた頭で太陽の光をむかえた。あの光には解毒作用があると、昔の上司が言っていた。

 彼は雑居ビルの間から太陽が昇る直前の、紫色の空を眺めていた。そうして空を眺めていると、さまざまなことが信じがたいことのように思えた。HIVコロナウイルスのような伝染病があること、アメリカや中国のような国があること。アルメニアのような国があること。自分にも子供時代があったこと......。

 だけど、すこし考えてみればそんなに信じがたいことでもなかった。彼はだいたいしあわせな子供時代を送っていた。あまり覚えていないが、あのころはみんなが貧しくなかった。それから大人になって、仕事をした。いくつか成功もした。いろんな女たちとも知り合った。それも今では過去のことだ。今では仕事にも女にも見放され、六十を過ぎた浮浪者になってしまった。ポケットを探るとピースの箱、それからライターと、五百四十七円。

 老人は女たちとの思い出にふけってみた。やさしくしてくれた女たちがいた。そのほかは頭のネジがすこし緩んでいて、なにかと言えば声をあらげ、爪を立ててきた。新聞紙も冷蔵庫もテレビも電子レンジもベッドも、すべてが退屈だった。

 いつの間にか、背後に人がきていた。彼は話し声を聞いた。若いビジネスマン風の男が、電話をしている。筋肉質な引き締まった身体で、突き刺すような響きのあるしっかりとした声だった。老人はまだ気づいていなかった。

 「...ええ、では」

 そう言って男は電話を切った。男は、こんな朝っぱらから働かなきゃいけないことに悩みも疑問も感じていないようだった。それでも室外機の群れがなま暖かい空気を吐き出すこの空間は嫌いだったから、何としてでも速い脱出をしようと試みた。走ったのだ。若い身体の突然の駆動、それは暴走する機関車のように有り余ったエネルギーを持つ者に特有の、無自覚な暴力だった。意思のない純粋な暴力だった。老人は突然現れたスーツの男の足音に驚いた。恐怖した。持っていたタバコを落としてしまうほどだった。

 「やい、この野郎、危ないじゃねえか」と老人は言った。

 スーツの男は、ピタリと足を止めて、振り向いた。若者の身体は大きい。雑居ビルの裏で、喧嘩を売るようなことを口走った。それは明らかに失敗だったが、老人はそう思っていなかった。

 「スミマセン」と若者は機械のようになめらかな声で話した。話しながら、老人のほうへ歩み寄ってきたので、老人は数歩後ずさった。

 「タバコ」

 「はい?」

 「タバコを落としたんだよ」

 「そうですか」と若者が言ったのを聞いて、老人は力のかぎり大きな声を出した。

 「お前がぶつかってきたからタバコを落としたんだよ!」

 若者は意味がわからなかった。若者はラグビーをやっていて、身体が大きいのが特徴だったが、今まで意識したことはなかった。身体が大きいのが当たり前の空間にいたからだ。仲間のなかでは敏捷性に優れたほうだった。だからぶつかるのは弱いほうだった。しかしこの老人は、枯れ木のように細くて、なんの力も感じない。若者は初めて自分の体の力を自覚した。この老木が、自分に何かを訴えている?

 「だからお前が弁償するんだよ」と、老人はかんだかい声を張り上げた。しかしその声は室外機のゴウゴウという音にかき消されるギリギリの音量だったから、若者は理解するのに時間を必要とした。

 「法律っていうのがあるだろ、暴行にはちゃんとしたサバキがあるんだよ」

 「...はい?」と若者は言った。意味がわからなかった。

 老人はかんだかい子供のような声の、背が極端に低い、大昔のSF映画に出てくる宇宙人みたいな格好だった。その宇宙人が、理不尽な要求をしてきている。その意味がわからなかった。変だし、嫌なジジイだ。傍にいて話してるだけでイライラしてくる。

 老人はニヤニヤ笑って「病院に入りたいから金くれよ、会社どこなんだよ」と、かんだかい声で聞いた。その時である、老人が若者の体の大きさに気づいたのは。

 「ぼくは...」と若者は言った。

 「ん?」老人は言った。

 「ぼくは、あなたとまったく違う人間なんです」若者は、そう言いながら老人に近づいた。

 「だから、なんだ」

 「あなたは、弱いし、力もない」若者は、老人と自分はまったく、何から何まで違う人間だと証明しないといけないような気持ちだった。とても残酷なことをしないと気がすまなかった。力なく柳のように痩せ細り、宇宙人のように喋るこの老人、ムカつく、嫌なやつ、彼を見ていると自分までとてつもなく惨めな存在に思えてくる。

 老人は後ずさった。純粋な暴力の前にはこの身体は無力だと知っていた。若者は近づいた。老人は今まさに目の前で起こる暴力に身構え、目をつぶった。間違えた、しかし明け方に死ぬのは悪くもない。

 大きな音がして、路地裏から若者が一人走って出てきた。その様は何かを成し遂げたようでもなく、とてもなめらかだった。朝方の街は駅に向かう人でたくさんだった。しばらくすると若者は雑踏のなかに混じっていった。もうどこから見ても、どれが彼だかわからなくなった。

 老人は足元に投げつけられたメビウスの青い箱から散らばったタバコを見ていた。老人は這いつくばって、その中からまだ綺麗な一本を拾った。空は夜明けも間近で、一番美しかった。タバコを口に咥えた。変な味はしない。変な味がしなければいい。老人は自分のなかにまだ生きる気持ちが残っていることを知った。病気にはなりたくない。変な味はしないから安心だ。老人はこれからも変な味には敏感でいようと思った。

「書けてしまう人」である村上春樹の文章のつくり方。『納屋を焼く』を読んで。

 彼女とは知り合いの結婚パーティーで顔を合わせ、仲良くなった。三年前のことだ。僕と彼女はひとまわり近く歳が離れていた。彼女は二十歳で、僕は三十一歳だった。でもそれはべつにたいした問題ではなかった。僕はちょうどその頃頭を悩まさなければならないことが他にいっぱいあったし、正直なところ歳のことなんていちいち考えている暇もなかった。彼女はそもそも最初から歳のことなんて考えもしなかった。僕は結婚していたが、それも問題にならなかった。彼女は年齢とか家庭とか収入とかいったものは足のサイズや声の高低や爪の形なんかと同じで純粋に先天的なものだと思い込んでるようだった。要するに考えてどうにかなるという種類のものではないのだ。そう言われてみれば、それはまあそうだ。

 彼女はなんとかという有名な先生についてパントマイムの勉強をしながら、生活のために広告モデルの仕事をしていた。とはいっても彼女は面倒臭がって、エージェントからまわってくる仕事の話をしょっちゅう断っていたので、その収入は本当にささやかなものだった。収入の足りない部分は主に彼女の何人かのボーイ・フレンドたちの好意で補われているようだった。もちろんはっきりしたことはわからない。彼女のことばのはしばしから、たぶんそんな風なんじゃないかと想像してみただけだ。

 とは言っても僕は、彼女がお金のために男と寝るとか、そういうことを言っているわけではない。たぶんもっと、ずっと単純なことなのだ。そしてそれはあまり単純すぎるので、いろんな人間が自分のふだん抱いているぼんやりとした感情をいくつかの明確な形にーーたとえば「好意」とか「愛情」とか「あきらめ」とかいったものにーー反射的に、自分でもよくわからないうちに、転換させてしまうのだ。うまく説明できないけど、要するにそういうことだと思う。

 もちろんそんな作用がいつまでもいつまでも続くというものではない。そんなものが永遠に続くとしたら、宇宙のしくみそのものがひっくりかえってしまう。それが起こりうるのは、ある特定の場所で、ある特定の時期だけだ。それは「蜜柑むき」と同じことなのだ。

 「蜜柑むき」の話をしよう。

(村上春樹 著『螢・納屋を焼くその他短編』新潮文庫)

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 「書けてしまう人」というのはこの世界に存在する。とりあえずどんな形でも、形になってなくても、白紙に文章を生み出し続ける力がある人。そこにテーマがなくても、無限に言葉を固着させ続けることができる人間。それは紙の上に新しいシミを作ってるだけなんだけど、いろんな形のシミがあるから、見る人が見れば意味があるようにも見える。書けてしまうとは、その程度の才能だ。

 僕も、「書けてしまう人」の一人だ。黙って文章を書いていろと言われれば、一日に一万文字でも二万文字でも書ける。二万文字以上は、時間の都合で難しそうだけど。それでも、素晴らしいものが書けるわけじゃない。たくさん書けることと、良いものが書けることは、当たり前だけど関係がないから。村上春樹はたくさん、良いものが書けるみたいだ。それはきっと素晴らしいことだと思う。

 村上春樹は、「書けてしまう人」なんだろうとおもう。文章を見ればわかる。整理とか、構造とか、そういったものがないのだ。特に、彼の初期の作品にはない。秩序とか理路とかがーー彼なりのそれはもちろんあり、それがあるから小説になっているのだけどーー他の小説家と比べて、いや、さまざまなブログやツイッターの文章と比べても、ない。

 だから、パラグラフの最後が、「それはまあそうだ」とか「そんなふうに想像してみただけだ」みたいな、曖昧な言葉で終わってる。着地点を見つけてから書き出す人は、こんなふうには書かないだろう。「書けてしまう人」は、先を考えない人だ。だから、知性はあんまり働かせてない。

 「書けてしまう人」は自分の考えを書くのは得意だけど、ストーリーを展開させるのが苦手だったりする。先を考えていないから、物語を構築できないのだ。理論や物語を構築しないとまとまった文章は書けない。

 ではそんな人は文章をどんなふうに書くか、最初に引用した文章が、お手本になる。村上春樹の初期の短編『納屋を焼く』の冒頭部分だ。

 最初の段落が長い。「私」と「彼女」と、その関係性や考え方について書いているのだけど、話題が横滑りしていって、必要のない情報まで書いてる上に、収拾がつかなくなって、それはまあそうだ、で終わらせてる。これは文句じゃなくて、面白い文章だってことだ。

 その後も、長い段落が続いていく。そしてある程度書いたら「たぶんそんな風なんじゃないかと想像してみただけだ」、「うまく説明できないけど、要するにそういうことだと思う」と、少し投げやりに終わらせる。そして、飽きるまで次の話題について書くのだ。煮詰まったら、終わらせる。何度も言うけど、文句を言ってるわけじゃない。「うまく説明できないけど」と言って文章を終わらせることは、とてつもなく誠実なことだ。彼が批判されるとしたら、その誠実さゆえなんだろう。

 そして脱線しながらも、ある程度彼女と自分の紹介が終わったら、唐突に「蜜柑むき」の話しが出てきて、話は展開されていく。

 「蜜柑むき」の話をしよう。

 という転換は素晴らしい。そして凄まじい。有無を言わせない迫力がある。こういう文章を書きたい。

 こうやって、先の見えないままに見えないことを力に変えて彼は書いてる。だからきっとその執筆過程は冒険になるんだろう。ある程度書いて、煮詰まったら唐突な転換が起こり、お話のなかに外部から何かが持ち込まれる。この後、「彼女」は北アフリカで出会った恋人を連れて「私」の前に現れるのだけど、それが外部から何かが持ち込まれる、ということだ。

 村上春樹の描く主人公は人格がないようにも思えるが、そんなことはない。かれらはただ見ているだけの存在なのだ。そして、ずっと考え、ずっと書き続けてる。だから行き詰まる。だから転換を要求する。世界は、その要求に応えて彼の外部から「お話」を持ってくる。そうやって世界は動いてる。

 村上春樹の描く主人公は世界の中心だから、少なくともその小説の、描かれている部分においては中心だから、何もしていない、無力な、人格のない人間に思えるんだろう。

 しかし彼は行き詰まる。行き詰まるから、世界は展開していくのだ。きっとそういう感じだ。僕らの生活や人生だって本当はたぶんそんな感じだ。何ひとつわからない、決まってないなかで外部から何かが持ち込まれ、奪われる。それで何かが変わったり、変わらなかったりする。だから幸せで、だから楽しい。村上春樹の小説は面白い。ぼくはいつだって、文章をポジティブに終わらせたい。

快楽から見放された男たち

 俺のライフワークとするテーマは「恋愛」「快感」「システム」「欲望」「物語」「精神病」の六つある。そこに付随して、戦争やセックスやコミュニケーションや宗教の問題がある。そして表現法法として、音楽や小説がある。

  俺は快楽を得たい。そのために制度の外へ行かなきゃならない。制度に絡め取られたままじゃ死ねない。

 昨日は完全に負けた。負けたと言うのは、制度に絡め取られたということだ。俺は人間には負けない。人間相手に勝ち負けはない。制度には負けてしまう。制度が人間を動かしてるのではないかと思うくらい、世の中の人間は制度的だ。システムと言い換えてもいい。規範と言い換えてもいい。快楽は、そこを飛び越えた瞬間にしか存在しない。快楽を得ない方向に話が進んでしまうというのは、制度への屈服なのだ。

 現代はシステムが人間を動かし、システムが人間を支配している。恋愛は、時折システムを超えることもあるが、結婚はシステムのなかで生きるということだ。

 家族というのもそうだ。抑圧や支配を受け入れることによって恩恵を得られる。

 システムの外に出られるものだけが尊いんだ。音楽はそうだ。物語もそうだ。宗教もそうだ。精神病もまたそのひとつだ。それらは、快楽と繋がってる。だから、音楽は快楽的じゃないと意味がない。下手くそな音楽家は最悪だ。アカデミックなのも面白くない。システムから逃れるためにある音楽が、システムを補強してしまっているからだ。

 システムは快楽を抑圧する。しかし、快楽は決してシステムに支配されない。大事だから何度でもいうけど、快楽的なものだけが、システムを飛び越えることができる。それは、女性は特によくわかってる。

 現代の多くの人間は快楽に見放されてしまっている。それどころか、快楽を得ようという欲望自体を持たないのかもしれない。

欲望が苦しみの原因であるのは確かだ。 ラーマーヤナにも、「宝石の満ちる大地、黄金、家畜、婦女があっても、一人の男を満たすのには及ばない」とある。

 古代インドでは、満たされることがない故に無欲は徳であるという思想が発達した。

 ゴータマ・ブッダは人間の渇愛はつねに不満を伴うということを悟った。

 不快なものを経験すると、その不快なものを取り除くことを渇愛し、快いものを経験すると、その快さが持続し、強まることを渇愛する。だから、心はいつも満足することを知らず、落ち着かない。

 渇愛とは、欲望のことだ。人間は必ず満たされない。だから、欲望は必ず叶えられない。何かを欲しても、どこかで必ず挫折するということだ。欲望は断念を求められる。断念は苦しい。

 欲望のレベルを下げるか、欲望そのものを消してしまえば苦しみは軽減されるだろう。それは快楽を諦めるということだ。快楽を求めるのは苦しい。それでも俺は快楽を諦めたくはない。

快楽を得るためには、制度から抜け出す必要がある。それはリスクを取るということだ。命をかけるとか、実存をかけるとか、生活をかけるとか。何でもいいけど何かをベットする必要がある。

 欲望するには覚悟が必要だ。リスクを払う覚悟、戦う覚悟、そして苦しみを得る覚悟だ。それを経て、快楽へとたどり着ける。制度のなかで生きるのは楽だが、快楽から見放されてしまう。

 千葉雅也は『メイキング・オブ・勉強の哲学』の第四章『欠如のページをめくること』のなかで、ラカンの不安論を紹介している。

 (ラカンによれば)何かが失われるから人は不安になるのではなく、何かに近づきすぎて「欠如がなくなる」から不安になる、というのです。

(中略)

 欠如があるということは、いま自分の置かれている状況の、さらにその先があることを意味しています。いま自分が置かれている状況であっぷあっぷなのではなくて、まだその先に余地がある。その余地に向けて、新たなことを継ぎ足したくなる。ラカン的には、それが「欲望」なのです。(中略)欠如がなくなるというのは、欲望できなくなることと同義であり、それが不安なのです。

(千葉雅也著 『メイキング・オブ・勉強の哲学』 文藝春秋)

 何かに近づき過ぎて欠如がなくなるから不安になる。では、欠如とは何か。近づき過ぎて失われるもの、それは距離だ。つまり欠如とは自分が置かれている状況と対象との距離だ。

 わかりやすく言えば、理想の自分と現状の自分との距離、と言い換えられるかもしれない。

 理想の自分と現状の自分との間に距離がないと、理想に辿り着くために何をしたらいいかがわからなくなってしまう。現状、即理想というような考えを持つ人は意外にも多い。

 そんな考えはありえないと言うかもしれない。なので例を出そう。何かをやっていて、うまく行かなくてすぐに辞めてしまった経験はないだろうか。あれは、現状と理想との間に距離が取れず、そのギャップによって心が折れてし待っている状態だ。現状の自分が理想的であるはずだ、という幻想を持っている状態。それをラカンは「不安」と言ったのだろう。

 現状と理想の間に距離が取れていれば、理想にたどり着くためにいろいろと試行錯誤をする。行動のプランが立てられる。それが「欲望」であり、余地に向けて新たなことを継ぎ足す、ということだろう。

 理想という喩えを用いたが、これは文章でも、音楽でも、食事でも、全てにおいて言えることだ。距離をとり、自分との間に生まれた空白を埋めようと、新たなことを継ぎ足していくこと。それが欲望するということだ。

 システムのなかにいる間は、余地がない。よって、欲望することができず、快楽を得ることもできない。だから、多くの男は快楽から見放されている。

 いま自分が置かれている状況の先がないのだ。それを知っているから、将来に希望も持てない。システムの存続だけを願うようになる。その成れの果てが、ヤフコメやTwitterに見られる地獄のようなクソリプ合戦だろう。

 あれこそ、快楽に見放された人間たちだ。システムの内部にある一般的な善悪の基準で他人を裁くことで、快楽を得ようとしている。しかしそれはシステムによって動かされているに過ぎないため、不満が残る。先がないのだ。欲望する余地が残っていない。

 そこから抜け出すためには、善悪の基準を抜け出したところに快感を見出すしかない。変態になれと言ってるわけじゃない。犯罪を犯せと言っているわけじゃない。自分の規範を少しだけ逸脱してみるのが快楽に繋がっていると言いたいだけだ。

 システムには、意味がない。快楽を得ようと思ったら、リスクを取ってシステムの外に出るしかないのだ。

このブログを読んでる人は死なないで欲しい

 このまま死んでもいいくらい幸せな夜も、死にたいと思った夜も、明けてしまえば次の日があって、生活は続いていく。そう簡単には死ねない。

 その事実がぼくを救ってる。死ぬのは良くないよ。どうして良くないかなんて、誰も知らないけど。

 今日死んでもいいって興奮を毎日続けるのは、胸が締め付けられて脳が混乱して、辛い。一人で静かにしているのは、楽だけど、退屈で死にたくなるね。昨日はバスに乗りました。たくさんの人が駅に向かっていました。みんなでいるのに、みんな笑っちゃうくらい一人だったね。

 好きも嫌いも、できるもできないも、目を瞑ってじっと、何も考えないでいる時みたいに、全部なくなってしまえば、もう何も考えなくていい。上手でも下手でも、ヤバくてもヤバくなくても。透明でも、透明じゃなくても。言語による文節化を止めて事物をそのままに見る、と仏教者なら言うだろうか。

 結局俺は、老いさらばえる。若くて綺麗なまま死にたいと、美人の女子高生が言う。発展がもたらしたのは、僕らが動物園みたいに管理されて、なんだか体に合理的に、健康で正しく生きることを強いられた世界みたいだ。病院食は美味しくないって言う。入院は嫌だって言う。でも、健康は求める。自分の自由が拘束された感じになるのは嫌だよね。でも、社会みんなが病院化して、間接的な入院状態になるのは結構良いってことになってるみたい。こんな話、少し意地悪だね。

 ぼくはいまなんでも持ってる。顔はいいし体は動くしみんな若いってだけでチヤホヤしてくれて、歌だってうまいし女の子にもモテる。死んでもいいってくらい幸せな夜だってある。でも、結局は死なない。生活が続いてく。そしていつか死ぬ。死ぬ前には必ず老いる。持っているものを失い、自信をなくし、疎まれ、一人で死んでいく。たとえば凄まじい宗教者になって、みんなに涙を流されながら息絶えたって、一人で死んでいく。何人と一緒に死のうが、一人で死んでいく。後追い自殺をいくらされたって、一人で死んでいく。自分の墓に何百人もの奴隷を生き埋めにした昔の権力者たちはたぶん、寂しかったんだろうなあ。一人で死んでいくかどうか知りたかったんだろう。でも、一人だから楽しい。一人だから書ける。一人だから歌える。一人だから作れる。一人だから練習できる。一人だから幸せ。みんなといるのも幸せ。一人だからつらい。みんなといるのもつらい。

 幸せとか、つらいとか、一人とかみんなとか、上手とか下手とか、価値判断を全てなくしてしまえば、価値判断によっていくつも無限に広がってしまったぼくの世界は終わって、もう言葉も必要ない。

 幸せでも、幸せじゃなくても、僕らは意味もなく生きてる。意味があってもいいしなくてもいい。認められるのもいいし認められなくてもいい。ぼくはこのまま死んでしまいたいのかもしれない。けど、上手くいけば死なないままに明日が来る。明後日が来る。生活が続く。意味もなく生きる。

 意味がなくても、それでも死ねないことに感謝して、死なないままに生きていこう。意味もなく生きてればどこかで出会って、死んでもいいってくらい幸せな夜を一緒に過ごせるかもしれないよ。

 ぼくは、けっこう真剣に、これを読んでくれてる人に死んで欲しくない。ここまで読んでくれた人は、死にたい人が多いと思う。それぞれに理由があり、それぞれの苦しみがあるんだろう。地獄の共有は決してできない。死は尊いよ。言葉の上でも冒涜しちゃいけない。生は尊いよ。みんな知ってる。なのに、なぜか言葉のうえでも、行動でも、冒涜され続けてる。だから尊い死を選ぶのもわかる。  

 けど、これは俺のエゴだけど死なないで欲しい。幸せでも、幸せじゃなくても、このブログに来る人は意味がなくても生きていて欲しい。ロマンチックに言えば、時折ぼくらは交わって、幸せな時間を過ごせる。

 

サニーデイ・サービス『透明でも透明じゃなくても』

https://youtu.be/5JkGsQ5BKTE

 

書けないぼくは、文章のワークフローを作ろうと思う。(書くためのおすすめ文献・ブログ・ツール)

( ※おすすめ文献などは下のほうにあるので、そこが知りたい人はスクロールしてみてください。)

 最近、文章を書くためのワークフローを構築している。スローガンは「読み方から書き方へ」だ。

 ワークフローとは何かというと、読書をして得た知識を組み合わせたり、ときにはまっさらな状態からひとつの文章を作り上げるためのシステムのことだ。

 自分の書きたいことを見つけて整理し、ひとつの原稿にしてどこかに投稿する。この一連のサイクルのことをワークフローと呼んでる。作り方を意識しないと、文章のクオリティ高めたりを安定させたりできない。

 ぼくは文章の書き方をよく知らない。小学生の時に児童文学にハマって、はじめて自分で物語のようなものを書いた。そのときに「小説の書き方」みたいな本を読んで、プロットというものがあることを知ったんだけど、ぼくはなぜかプロットを作ることができなかった。結局最初からずらーっと書いたのだけど、しんどいし文章はめちゃくちゃになるし、大変な作業だったことを覚えている。推敲もろくにしないで賞に応募した。一次予選で落ちたらしいと、後で知った。

 これが僕のワークフローとの出会いだった。挫折から始まったのだ。プロットを作れず、推敲ができない。つまり、物語が構築できない。しばらく経って、それは文章に限った話じゃないことを知ることになる。ぼくは予定を立てられず、反省のできない子供だった。約束もなかなか覚えていられなかったし、それで友達を傷つけたこともある。自分が傷ついたこともある。小学四年生のとき精神科に連れて行かれて、発達障害だと診断された。

 中学校に行ってからは、プロットを書かず推敲もしない特攻隊スタイルで国語の授業を乗り切った。幸い文量を書くことだけはできたので、成績は良かったのだけど、長い文章を書く課題になると途端に書けなくなり、提出しなかったこともある。いや、提出できなかったのだ。書けなかったから。

 大学に入りブログを始めてから、いくつか小説のようなものを書いてみる試みはしたけど、途中でどうやって進めたらいいか全く分からなくなってしまい、放り出して終わりにしてしまうことがほとんどだった。結局、特攻隊スタイルでは、原稿用紙3〜5枚分で限界が来る。

 その限界を越えるためには、敬遠していたプロット作成と推敲をやってみなきゃいけない。ぼくは、自分の書けなさを認めたくなかった。でも結局、書けてない。書けてない...。と悩んで三ヶ月くらいブログもほとんど更新しなくなった。苦しみのなかにいたのだ。何かを書こうと思う人間は絶対に苦しむし、自分や、書いたものを否定してしまう。どうしてこんなにできないんだろうと。それなのに書き続ける、急かされるように、掻き立てられるように。

 ぼくたちはそういう、不思議でかなしい生き物なのだ。

 苦しみを減らしたい。僕はこの三ヶ月間、精神病と仏教の本を読んでいた。無意識のうちに苦しみから逃れようとしていたのだろう。ゴータマ・ブッダによれば、この世のものごとは全て何かの集合によって起こってる。ぼくの体だって細胞の、原子の、素粒子の集合体だ。それらは刻一刻変化し続ける。だから、統合された、たったひとつの自分なんて存在しない。この世のなかに永遠不滅のものはない。これがみんな大好きな、無常ということだ。

 だから自分が書けないとかそんなことに執着して苦しんでもしょうがないのだ。理屈はわかる。でも、ぼくはそれでも書きたいし、執着は捨てられなかった。簡単には悟れない。なら、たとえ満たされないと分かっていても、自分の苦しみを減らしていかなきゃいけない。上手に、ではなくまずはできる限り苦しまないで書けるようになろうと思ったのだ。幸運なことに、そのための探究は意外とたのしい。

 だから、苦しまないためにワークフローを構築したい。最初に、スローガンは「読み方から書き方へ」だと書いたけど、もうひとつあった。「苦しまないで書く」。そのためのシステム構築だ。

 いま参考にしているのは、読書猿(https://mobile.twitter.com/kurubushi_rm)さんのブログ。このひとのブログに、『書くための道具箱』というカテゴリがあって、そこには執筆のための方法論がいくつも載っている。そのひとつが「フレームド・ノンストップ・ライティング」だ。〈書くべきこと〉と〈書けること〉を先に吐き出して、それをフレームにあとは書けるだけ暴れ書くというやり方だ。

 詳しくはブログの記事を参考にしてください。この記事に限らず、ブログ全体が執筆に悩んでいる多くのひとの助けになるはずです。https://readingmonkey.blog.fc2.com/blog-entry-783.html

 さらに参考にしているのが千葉雅也氏の『メイキング・オブ・勉強の哲学』(https://www.amazon.co.jp/メイキング・オブ・勉強の哲学-千葉-雅也/dp/4163907874)だ。

 哲学者千葉雅也氏によるビジネス書のような一般書のような思想書、方法論の名著『勉強の哲学』を書いたときのワークフローがどうなっていたかを一から説明してくれている本だ。

 こういう「メタ出版」的な本ってあまりないから最初は面白いなーくらいで読んでいて、あまりピンときてはいなかったのだけど、作り方を意識しているいま読むと参考にできる部分が多い。というかほとんどそのままパクれる。

 ぼくはそもそも文章の書き方を知らないので、世に出る文章がどういうプロセスを経て出来上がってるのかということも、当然知らなかった。この本はそこから書いてあって魅力的だ。

 千葉雅也氏はアイデア出し→ドラフト(下書き)→推敲というプロセスで執筆をしているらしい。

 彼はその過程ごとに明確にツールを使い分けていて、なかでも「workflowy」(https://workflowy.com)というアウトライナーを非常に重要視するようになったらしい。(スマホのアプリで無料で使えるのでぜひ試してみてほしい。)

 アウトラインというと、僕が挫折したプロット作成のように、ガチガチに型を決めて逸れないように書くためのツールだ、という認識があったのだけど、実際に使ってみるとそんなことはなく、むしろアウトライナーがあるからこそ自由に書ける範囲が大きく広がった。

 『アウトライナー実践入門』『書くための名前のない技術 case3 千葉雅也さん』https://www.amazon.co.jp/書くための名前のない技術-case-3-千葉雅也さん-Tak-ebook/dp/B084D688J1)の二冊を読めば、具体的にどうアウトライナーを執筆につなげていく道筋が見えるはずだ。『メイキング・オブ・勉強の哲学』と合わせておすすめしたい。

 これらを参考に、とりあえず書く、を突破するためのワークフローを構築していきたいと思っている。いくつか試してみて、納得がいったり、効果があると思った方法はブログに書いていこうと思います。長いこと読んでくれてありがとう。おやすみなさい。

 

p.s
アウトライナー座談会』の第二回が非常に実践的で分かりやすかったので追加しておきます。(https://ji-sedai.jp/series/outliner/02.html)執筆に困ってる人や方法論を探してる人はぜひ読んでみてね。

社会の役に立てない

 電車のなかで、神さま、ぜんぶあなたのおかげです、って詩を聞いた。https://youtu.be/mBeNpz0nMPs 僕はその詩をすごくいいと思った。

 電車に乗るぼくたちは、絶対的に孤独である。何百人と集まって、一つの電車に閉じ込められて、誰とでも近くにいるのに、誰とも連続していない。

 神楽坂駅に着いた。神が、楽しむ。坂。神さま、ぼくがキスをしたら、ああ、下手くそ!なんて凡庸、なんて陳腐。スラスラと素晴らしい文章が書けたら、どんなに素晴らしいだろう。

 目の前の座席が空いたので座る。ぼくの手が止まって、書かれつつある文章が止まった。文章が止まった時、僕の世界に起きた沈黙を文字で記すために費やされたのはたった一個の、だった。

 あの娘に会うのに持っていくべきものは何だろう。金木犀の香水か、それともピンクの、一輪挿しの、根っこのないお花なのか。完全じゃないものの方が美しいと思う。だからどんなに不格好でも、傷ついてるものの方が綺麗だ。人間だってちょっと傷ついてる方が魅力的だ。ほんとうなら、傷口だって愛せないとセックスなんてできない。俺はなぜ生まれてきたんだろう。それは親がセックスしたからだ。

 しのぶれど音に出にけり我が恋は、と詠った詩人の切実さのかけらでも僕にあればよかった。そうすればすこしは、意地悪な自分を恥じないですむ。

 しのぶれど、色に出にけり、わが恋は。人に知られないように心に秘めてきたはずの恋心だったのに、ふとしたときに「顔に出ているよ」と言われてハッとする瞬間の詩だ。

 そんな風景、大学にも、子供のころの記憶にも、制服の裏側にもどこにもない。コウノトリのサブリミナル。誰かと子供を残したい、そんな気持ちはかすかにもない。なのにセックスをしたがるなんて僕はわがままだ。

 


  シャム双生児のように、思考の共有はないまま体が一体でいるのはどんな気持ちだろうか。きっとぼくらの名前は脳につけられた名前なんだろう。一つの体に二つの頭だったら、二つの名前がつけられる。腕が一本、足が一本多くても、名前は増えない。僕らの名前は脳に、自我に、つけられる名前ということだ。

 それはとても良いことだ。

 ぼくが、ぼくだと思ってるこのぼくは、集合体としての存在だ。それは分子の、原子の、あるいはもっと小さな微粒子の、集まりとしてのぼく。集合体なのに、どことも繋がれないぼく。それぞれの自我は結局のところ絶対的に孤独だ。電車のなかにいるすべての人と同じように。深く青く、透明な色をした綺麗な地獄のように。切り取られたひとつの詩のように。

 新宿で降りた。