ゲージュツ的しつけ

フェレットのしつけが書いたゲージツ的なしつけ術の数々。メール→fererere25@gmail.com

小島信夫の二十二歳、梶井基次郎の二十三歳。

 私たちはたとえば、カフカの日記を読んでおもしろいと思うのだが、その日記を書いたときのカフカは二十代前半だったりする。宮沢賢治の享年は三十七歳で、満二十七歳で出版した『春と修羅」を、その後に生まれた者たちは七十年八十年の生涯を通じて読んだりする。偉大な作家というのは出発点からすでに偉大なのだ。

 その「偉大」とは「異質」ということだと私は思う。「宮沢賢治は最初から完成されていたのだ」という言い方をする人がいるが、私はそうは思わない。「完成されていた」のではなくて「異質だった」のだ。 つまり、違ったものを持ち込んだのだ。文学というのは、絵や音楽のように物として見えたり聞こえたりするものではないから、それを真似たり消化したりするのが事のほか遅く、百年くらい経っても「異質」が「異質」のままなのだ。

(引用元:保坂和志『小説の誕生』新潮社)

 


 小島信夫は二十二歳で『裸木』とい小説を書いたのだが、彼が学生だったということを考えればこの作品は習作と位置付けられる。けれど実際にはすでに小島信夫という作家の「偉大さ」が「異質さ」として現れていた。ということを説明した文章だ。

 二十二歳という文字を見たとき、僕の頭のうしろ側はぼーっと熱くなり、瞳孔はすこし開いた。

 「偉大な人間が初めから偉大なのだとしたら...。偉大じゃない人間は初めから偉大じゃないことになる」

 などと言いながらベッドの上でぼくの筋肉は緊張して、唾液の量が減った。怒られたときみたいに、心拍数が上がった。初めて大声で怒鳴られたときのことを覚えているだろうか。ぼくは覚えている。あれはたぶん小学二年生のときで、廊下を走っていた時に「何やってるの!!」とかそんな感じで怒鳴られたのだった。

 サーッと体の内側が寒くなるような感覚がして、体の中心に向かって筋肉は緊張し、頭はギューっと収縮したような気がした。妙に冷静で、これから怒られること、今まで楽しかったこと、自分が何かに怯えていることがはっきりとわかる。そして今自分がひどく力がなく、情けない存在であることがはっきりとわかる。それは怒られる事よりもかなしい。

 血の気がひき、冷や汗をかいた。言葉にすればそれだけのことなのだけど、現実としての感覚はなかなか不思議で、それ以来ぼくはなにか失敗をしたり怒られたりすると、血の気がひき、冷や汗をかいてしまうようになった。

 「あれが恐怖ということなんだろうな」と、今なら言える。二十二歳のぼくなら、小学生の自分に対してわかったような口をきいたっていいだろう。いや、小学生のときにわかっていて、今わかっていないもの、それはつまり失ってしまったものなのだけど、そういうものもあるはずなので、簡単には言えないけど。

 何が言えるか言えないかはわからないけど、重大な問題がひとつあってそれだけはわかる。

 ぼくは二十二歳になってしまった。

 小島信夫が『裸木』を書いたのが二十二歳、梶井基次郎が『檸檬』を書いたのが二十三歳、村上龍が『限りなく透明に近いブルー』を書いたのが二十三歳。

 ぼくは二十二歳。

 書いた小説、ゼロ。コンクール受賞歴、入選一回。作った曲数、十曲くらい。数でどうこう言えるのはブログの記事数だけで、資産などない。

  「偉大な人間が初めから偉大なのだとしたら...。偉大じゃない人間は初めから偉大じゃないことになる」

 この言葉をつぶやいたとき、僕の身体の中ではさーっと血の気がひいていた。

 偉大さとは異質さである。

 しかしおそらく、異質であるかどうかは本人にはわからない。

 なので、ぼくが今、異質=偉大であるかどうかはぼくにはわからない。

 ただ、異質であることを狙って書いた文章は確実に異質ではない。相対的に異質であることを狙っている時点で「普通」のコードに縛られている。例えばいまぼくが、朝起きたら一枚のタオルになっていたけど意識だけは残ってる、みたいな小説を書いても、一般的な普通のコードと同一線上で比べて異質なだけで、そんなのは異質でもなんでもない。

 「というかカフカの焼き直しだ」

 と、気づいた僕は部屋の電気をつけた。

 頭の右側をかいて、体を起こす。足を抱えるようにして横向きに眠っていたので、足が固い気がする。伸ばす。外は暗い。スマホだけが明るかった部屋の全体が照らされて、雑然とした部屋があらわになり、恥ずかしかった。

 「どうしてぼくは恥ずかしいのだろうか」と、口にしてみたが、やはり言葉は空気をふるわせて音になる。

 「ぼくは二十二歳になってしまったが、まともに文章も書けない。小島信夫にしろ梶井基次郎にしろ村上龍にしろ、異質とか偉大とか以前にそもそも文章がうまいけど、ぼくは文章が下手で、人に伝わるように書く、なんていう基本的なこともできないってことは作家になりたいなら作家としての基礎体力すらないのじゃないか」

 と、心で思い描いていると外からバサバサと鳥が羽を開く音がした。

 「作家になんてなりたくない、ほんとうは、何もしたくない。それでいて、偉大であって異質でありたくて、モテたい。退屈はきらいだ。何も楽しくなんかない」

 言葉を音にすると、みぞおちのあたりが少しだけゆるまった。心を胸にあると感じたむかしの人は正しいのかもしれない。なにか悲しいことや上手くいかないことや苦しいことがあると、胸のあたりが緊張する。血の気が引くときに、頭がギューっと収縮していくように。

 いまのぼくにだって偉大な小説が書けるかもしれない。ポール・オースターのような?村上春樹のような?「笑っちゃうなあ」と口にした時のぼくは口の端っこに笑みを浮かべていたからまるで映画のワンショットみたいだった。

 「目を閉じて、何も考えないでいるしかない。苦しみはいつか去っていく。それはわかってるけど、いまある苦しみがつらいことが問題なんだよなぁ」と思いながら、酒を飲みたがる人の気持ちとは、自分が生成する言葉のしょうもなさや、限界に気付いた人なのではないかとも思った。

 自分の思考や衝動がなにか別のかたちに変化していくことの、たのしさ。この身体やこの思考様式、この、偉大ではない言葉の羅列をしてしまうぼく。

 酒を飲めば、そういったものから少しだけ離れることができる気がする。マインドフルネスだって同じことだ。こんなこと言うとイェール大学の研究者に怒られてしまうかもしれないけど。

 当たり前のことしか言えない、当たり前のことしかできない身体を持ち、二十二歳。コンプレックスに焼かれる。

 「退屈さや、つまらなさが不安に変わっていく」言葉にしたら、少しだけ胸がゆるまってくる。

ゆれる時間と文章

 「とにかく俺は若造で、物を知れば知るほど知らないことにぶつかる」

 ベッドで横になりながら呟いてみた。対象のいない言葉は空疎だがそれでも空気を震わせてちゃんと音になる。

 青と白のチェック柄のパジャマを着て、十四時三十分。自分以外の世界はいわゆる普通の回りかたをしているようで、アフリカでは夜か明け方で、鹿が飛び跳ねたりギザギザの広い葉っぱが風に吹かれてガサガサ音を立てるのを半分埋まったミーアキャットがみていたりする。ぼくの部屋の向かいにある自動車整備工場からは車のボディを磨くときのような金属がこすれる音がするけれど、実際にボディを磨いているのかはわからない。

 「自分の書きたいことを書きたいままに書くことのグロテスクさについて考えていたんだ」

 誰にいうでもなく発した言葉はきちんと音声になっていたから、ぼくは確かに喋っていたらしい。一人で部屋にいると、思ったことと喋ったことの境い目はほとんどないから、音声だけが頼りになる。

 昨日からつけっぱなしのパソコンの電源ボタンがわずかに光って、生きていることを主張しているみたいだと思って、生きているという比喩を「活動しているように見えるという意味で使っているなぁ」と、そこだけ口に出して、パソコンを放置して部屋を出た。

 廊下をあるく、数秒の間で、しかし言葉は生まれた。

 ぐるぐる回る思考を止めるために自分の生み出す言葉の外側に出たいと思ってTwitterを開いた。「言葉は無限に現れてくるから。」

 『感情のままに喋っていいんですか?』

 『男性だからといって差別していいわけじゃない』

 「大学生の生活は守られるべきだな」と思った。Twitterの恐ろしいところは、ひとつの投稿をみた後、必ず自分の解釈や、言葉の生成があるところだ。

 「ひとつの投稿が140字で完結してしまうために、それを理解するためには自分の解釈を差し挟む必要がある」

 ぼくはそんなことを君に話そうと思いながら、洗濯機を横目で見る。君は多分どこかのお店でぼくの向かいに座りながら、

 「安易な回想を文章のなかに入れるのは果たしていいかわからないけど、想像力について話したね」

 とか言いながら緑色の液体を飲んでいるだろう。やけに長い羽のついたプロペラみたいな空調が天井をゆっくりぐるぐると回っているようなカフェで、店内は少し暗く、太陽光を取り入れているから不健康な感じはしないようなカフェでそう言うだろう。

夏がふたつ

 「わかって欲しいって気持ちが強くて、それであのこのことが嫌いになって」

 おれはタコのジョーを殴りながら聞いていた。リビングには壊れた自転車と、植木鉢と、電灯があって、電灯は灯りがつかないまま上空に放置されていたので部屋は真っ暗ななか、女が喋っている。

 「あの子は考えるのが嫌いな子で、一瞬たりとも考えるのに耐えられないみたいなのね」

 冷たい雨が外に降っていたが、窓も玄関も閉め切っているから関係ないことだ。俺の腕に押さえつけられてジョーは息も絶え絶えの様子でヌメヌメしている。奴のスミで俺の腕は真っ黒だけど、俺の腕はリズミカルに殴り続けるのをやめない。ねえ、どうして、そんなところにいるの?と、小さなころ言われた言葉が頭に反響する。

 頭のなかで俺は公園の石造りの滑り台の上にいて、空からは太陽が少し照っていて、雲が通り過ぎるような夏の午後の暑い盛りだった。オレンジ色で描かれそうなほどエネルギーに満ちた街中はゆらゆらと陽炎のなかで揺れまくっていて、俺は汗をだらだら書きながらまとわりついてくる水蒸気の匂いを嗅いでいた。水蒸気は少しだけ酸っぱい匂いがした。その女の子の脇の匂いはもう出始めていたころだったからかもしれない。光化学スモッグかもしれない。

 「光化学スモッグがよく出る街だったなぁ」と言うと、女は突然話すのをやめて体育座りになってしまったので、俺はヌメヌメ黒く光る腕をジョーに叩きつけながら滑り台のうえにすぐに戻ることができる。

 まだ小さな体で過ごしていた俺は滑り台の頂上で倒れていた。空に目を向けて、頭はもうなにも考えられないほどにグラグラして、喉は乾いた。いま思えば熱中症だったのだと思う。

 「ねえ、どうしてそんなところにいるの?」

 「おれもう家に帰りたいんだ」

 「道路の向こうを見てごらんよ、ゆらゆらしてて帰れるわけないよ」

 陽炎、という言葉を知らない俺たちは道路の向こうでアスファルトが揺れまくってるのを見て、帰れないことを悟った。悟ったからどんなに暑くたってぶっ倒れていたんだ。

 公園にはいくつもの遊具と、数人の子供がいて、それは非常に広いように思えた。シーソーの片側に男が乗っていて、彼が乗っている方向にシーソーは倒れっぱなしだったのが見えた。俺はどうしてここにいるのか考えようとしたけど、頭がぼんやり溶けていたので言葉にはならなかったがそれは幸せなことだった。その日は夕立ちが降って陽炎は消えて、俺は家に帰ろうと思えた。生温かい雨が降る公園に取り残されたのは俺と、自転車だったが、そいつは壊れていた。その自転車が、いま真っ暗な部屋の中にある壊れた自転車の由来かと言われると、もうわからないほどに時間が経ってしまった。

たったの三日もあれば世界は変わるけど、世界が変わったことにはだれひとり気づかない

 2020 7/6

 朝起きると、8:00くらいだったのを覚えている。昨日はたくさん歩き、たくさん食べてから催眠誘導を聞いて、解催眠を聞かずにそのまま寝ついたのでずいぶんと深く眠ることができた。睡眠時間は少ないもののすっきりと目覚めることができて、僕はどうやら運動、食事、睡眠、そして少しの趣味があれば基本的に快く生活ができるみたいだ。

 朝起きて、食事をしてから髪の毛を整える。youtubeで美容師がやっているセットの動画を見ながら髪の形を整えるけどうまくいかない。何気ない動作の端々がきっと大切なのだろうと思い、何度も巻き戻して見たけどどうやっても髪の毛が跳ねるか、クシャっとするか、ペタンと落ちてくるかの3パターンしかない。いい感じに立たせたいのになぁ、と思いながら諦めて家を出る。

 行きがけにウイイレをやる。この間立ち読みした『必ず食える1%の人になる方法』という本の最初のほうに、いくつかの質問と、それによって自分がいまどのあたりのボリューム層に分類されるかを示すフローチャートがあり、その最初の質問が「電車のなかでゲームをやる習慣がある」だった。ぼくはyesと答えるべきなのかもしれないのだけど、そのときは見栄を張って、誰への見栄かと言うと、ほかでもない自分に見栄を張ってnoと答えた。

 1%と言ったらすごい希少価値のように思えるけど、数で言えば百人に一人ということで、百人に一人というくらいの特殊性ならどうということはなく、おそらくどの人も全て百人に一人くらいの専門性や個性のようなものを持っている。書籍のタイトルの1%は比喩というか、大きさをあらわすイメージでしかないのだから、この指摘は当たらないのだけれど、思った。

 ガチャを引いた。課金をせずに引けるガチャというのは嬉しい。それで良いのが出たから、なおさら嬉しい。(実在の人物をもとにキャラクター化したものを良いとか悪いとか言うのは複雑だ。心苦しいわけじゃないけれど、複雑だ。)一時間半くらいは棒に振ったって良いのだ。人生は長い。しかし感情は短く過ぎ去るのだから、心地よいと感じるときにやったほうがいい。

 ぼくは『体癖』をみる限り、四種体癖というやつだ。体の左側に体重がかたより、内向的で細身。副交感神経が優位であり穏やかな印象で、感情でものごとを判断するが、感情が長くはつづかず、しかし消えるわけではないので、頻繁におなかを壊すことで溜まった感情を処理する、そのような人らしい。ひとことで言えば、感情で判断するのに感情が長く続かない特性だ。体癖論というのはどこまで正しいのかはわからない。論と言いつつ、偏見の集合体のようでもあり、ともすれば体型差別にもつながるのでポリティカルコレクトネスには反するのだけど、けっこう当たっているから面白い。占いのようなものなのか、科学と占いにどれだけの差があり、臨床的知識の集積は統計学的ではないからと言って無根拠だとは言えない...みたいなことをぐるぐると考える。

 科学は好きだ。ただ、科学的根拠がないからと言って無視するにはもったいない知識が世界には多い。本を読んでいるとそう思う。超能力者と村上龍が対談している本を読んだとき、科学的に解明できないけど、科学的に現象を捉えることはできるというような、たとえばテレパシーや手かざし医療みたいなことが紹介されていて面白かった。

 とにかく、ぼくはロジックでものを考えるときと、感情でものを考えるときの両方があるらしく、また、ロジックが働くのは感情的に飲み込めた場合に限るようだ。だから、好きなもの、できると思ったもの、興味のあるものを分析していくのは得意だけど、感情的に無理だと思ったり受け付けないものを分析することはできない。おそらく、第一印象を感情でなんとなく判断するから、文章を読むのが非常に遅い。好き嫌いを決めて、快不快を感じてから、好き、かつ快に分類されたものに対してだけロジックが働く。本来は、感情のひとだ。

 これは日記だった。日記だから一日のことを記そう。学校に行ってレッスンに行き、食事をしてからお金を下ろして振り込み、それから八時間くらい遊ぶ。

 ぼくは好きだと思った対象に対して時間をつかうのを惜しまない(嫌いなものには一秒たりとも時間を使いたくない)ので、本気で遊ぶし、八時間くらいは全然つかう。お腹もすく。帰ってくる。お風呂に入る。次の日がくる。いまは7/7七夕の0:01だ。

 七夕だ、と思う。

 考えたのはこのくらいだろうか。感情が満足することが大事らしい。ぼくは感情的な人間だ。実は、いままでは自分のことを非常にロジカルな人間だと思っていた。だから、本が読めないのは何故だろうなあと思っていたのだけど、感情が伴ってないからだ。面白いとか興味あるとか思わないと読めない。当たり前かもしれない。ぼくはいつだって、当たり前のことを再確認し続けている。ぼくはほんとはロジカルな人間じゃないのに、ロジックが好きになったからロジカルになった後天的ロジカル人間だから、先天的ロジカル人間には明晰さや丁寧さや一貫性という点で敵わない。

 先天的とか後天的とか、どっちでも良いじゃんと言うひとはいるだろうけど、僕にとってはどっちでも良くない。とても大事なことなんだ。人によって大事なことは違う。それをふと、忘れそうになる。ロジックやファクトより、感情や印象や頻度が大事だと思う人がいる。どちらが絶対的に正しいというわけでもない。こんなこと、忘れても良いんだけど、どうしてか忘れないようにしている。

 


 2020 7/7

 今週、なにも予定がなく休めるのは水曜日だけなのだけど、課題が積み重なり、やりたくないことや、使いたくない時間を人のために割くことを、いつのまにかしてしまい、心は疲弊している。

 休むとは、疲弊した心を回復させる行為で、その休みは水曜日にしか来ないのだけど、水曜日が来たってきっと心は回復しない。だからぼくにはきっともう水曜日が来ない。

 来ない水曜日を追いかける。月、火、その次はいったいなんだったのかわからない。わからないけど、気づけば一日は過ぎ去っている。ぼくは自分で使えるはずの時間や、生きている実感のうちにある人生とか、そういうものを取り戻したい。それはすべて水曜日にあるらしいのだけど、水曜日はいったいどこにあるのだろうか。もしかしたら新宿と池袋にあるのかもしれない。さいきん、夜の街に人はいない。

  一昨日、東京の夜の通りを、公明党のポスターがひらひらと舞っていた。そのときも、ひとはほとんど見当たらなかった。一番ひとが多いのは、朝と夕方の電車です。

 なにが安全かはわからないし、なにが安心かもわからない。「これをしておけば安心ですよ」と言われたとおりに動くと、ぼくは心がざわざわしてきてしまう。基本的にいまのシステムはぼくにとって息苦しく生きづらいってことを、学校がはじまってたくさん思い出した。

 これは日記だった。日記だってことを忘れるけど、日記とは感情を記しておくものかもしれない。なにが起きたか、ということよりもどう思ったか、どう考えているかを優先するもの、なのかもしれない。

 今日は12:40に家を出なくてはいけないから、なんとか11:00ごろに起きた。非常に体が重かった。信じられないくらいに。シャワーを浴びる。暖かい水を体にうけると内側から筋肉がほどけていくような感じがして、自分の体がずいぶんと冷えていたことに気づく。冷えていると、やる気が出なくなるのだろうか。シャワーから出る。しかし重い。頭が重い。体はもっと重い。こういうときはマインドフルネスだ!と思い、ベッドで横になって瞑想をする。そのうちに寝てしまって、12:00にベッドから這い出す。学校に行かなきゃならない。

 嫌なことだらけだ。嫌なことだらけだから、烈火のように怒ることだってできる。でも、感情を発散させて、いったい何になる?明日の予定もわからない。一年後、生きてるかどうかもわからない。なのに、来年の予定が立てられるのだろうか。大学四年生とはそういう時期だ。神かなにかなんだろうか、みんな、なぜ世界がいつまでも同じようにまわると思うんだろう。

 学校に行き、授業を受け、帰る。ソーシャルディスタンスを保ったオペラの授業なんてできるわけがなく、ポーズのとりあいを学生も先生も繰り返す。歌うとき遠ざかっていても、指導するときに近くにきたら意味ないでしょ、先生。そんなこと、誰でも分かってる。形骸化したポーズなら、とらなければいいのに。そんなことは言わない。ぼくは空気の読める大人だから。

 「やらないでどうするの?」「なんとか再開させなきゃなんだから」みんな言う。動いてないと不安なんだろう。やらないでなんとかなる方法を考えた方が楽じゃない?立ち止まって休んでもいいんじゃない?そんなことは言わない。ぼくは空気の読める大人だから。

 帰る。セネカの『人生の短さについて』を読む。百円で買えたのが嘘みたいだ。良い本だ。みんな建前の共有ばかりで嫌になる。嫌なことは嫌だとなぜ言えないんだろう。ぼくは、なぜ言えないんだろう。

 議論がめんどくさいからだ。戦いが嫌だからだ。表明して、戦わなければ良いのだけど、それがなぜかできない。説得されたくない。聞く気なんて元からない。誰だってそうだ。聞く気がない同士が会話したって、喧嘩になるだけだ。だから、従順なフリををして従わなければいい。みんな、一時の自分の感情にしか興味がないから、言ったことが行われているかなんて、ほとんど関係ない。確かめない。いい社会だ。最近では、記録に残すことさえしなくていいらしいのだから、なんでもやってしまえばいい事になった。やったもん勝ちのシステムは、嫌いじゃない。あとは建前を捨てて、やったもん勝ちが正義だと正式にアナウンスすればいい。弱肉強食、良いじゃないか。いつでも参加しよう。自分から命を断つ覚悟だってしよう。

 その覚悟も、建前を捨てる気概もない人間はきっと、弱肉強食の世界で生き残ってはいきづらいだろう。虚飾、欺瞞、嘘がまかり通る世界なんて間違ってる!とほんとは言いたいんです。この辺りの記述は。

 セネカの文章を読んでいて驚くのが、

 最も大きい権力を持ち、高い位に登った人々の口から、暇を求め、暇を称え、暇は自分のどの仕合わせにもまさる、と言う声が思わず漏れるのを聞くことがあろう。彼らは往々にして、自分のいるあの高い頂から、もしも安全に降りられるならば降りようと願い求めるのだ。

(引用元:セネカ著 茂手木元蔵訳『人生の短さについて 他二編』岩波文庫)

 こういう表記だ。古代ローマの話とは思えない。2020年の世を生きるぼくが読んでも生々しく、リアリティをもって迫ってくる。紀元前の時代から、忙しさに埋没している人々はいたらしい。

 人生を支配できると考えるひとは、自分の人生の予定を立て、そのとおりに進んでいくことをよしとする。時にその予定を人生設計などと言ったりするけど、人生は設計できるものじゃない。

 赤い公園の『今更』という曲を思い出した。「生き急いでったやつらを祝福できるかな今更」。

 生き急ぎたくない。けれど、税制などを考えると、生き急がない人間に対してこの国やこの社会は風当たりが強い。就職すればとりあえずなんとかなる、というのは強くわかりやすいメリットだ。その事実が人々を就職に駆り立てる。ブラック企業が無くならないのもわかる。

 でもまあきっと、フリーターでもとりあえず生きていくことができる。なんとかなる。死ななければ。

 自信のある無しには関係ない。

 自分は現に存在する、自分で自分を消す気はない。存在するのだから、やすやすと消すわけにも行かない、無理に消そうとしたら大きなコストがかかる。

 以上の理由から、生きている限りなかなか死なないと結論づけられる。死ぬつもりがなく、生きていたいなら焦る必要はない。一部の人にとっては残念かもしれないけど、税金を払わなくたってひとは死なない。ご飯が食べられないと死ぬけどね。

 非国民は生きる、生きるから非国民なのだ。非国民が死に絶えたとき、新たな非国民集団が見つけ出されるだろう。そうして暴力は続き、人口は減っていき、人類は衰退する。

 これは日記です。

 日記とは寝る前に書くものだと、そう思っていた。一日をふりかえり書く文章である。と定義していたからだ。それでは、寝るとはなんだろう。眠りという現象は眠りとしか言えない。眠りはやってくるものだ。眠りは動物の身体に記された自動的な現象で、眠りの前に僕らは受動的ですらある。では、能動的に寝るとはどういうことか。

 日記を書く時間である、寝る前とはいつだろうか。それはきっと寝ると決めた瞬間から始まる。であれば能動的に寝る、と言う時、ぼくらは一日を閉じようとしている。できたこともできなかったことも呑み込みつつ、様々な理由で(疲れなど)一日をここで終わらせる覚悟を持っている。

 であれば、日記を書くことと一日を終わらせる覚悟を持つことは関係が深い。ぼくは一日を終わらせるために日記を書く、寝るために日記を書くのだと言うこともできる。日記を書いた瞬間から一日の終わりに向けて身体は動きだしている。ぼくは今日の18:00ごろに日記を書き始めた。そのときにはもう一日を終わらせたかったのだろう。

 ぼくに水曜日はこない。もはや日曜日は安息の日ではなくなってしまった。絶対の安心安全、大地母神のような、安息。そんなものは存在しない。全てが融解し、一つになる、カタルシス。そんなものは存在しない。どんなに心地の良いセックスだって、明日になって残るのは記憶と疲れだけだ。

 眠りは、安息じゃない。マインドフルネスも安息じゃない。どんなに疲れていたって、生きている限りは生きていくしかない。そう簡単には死なないし死ねない。人生は設計できるものじゃないから。ぼくは、死ぬまでは生き続けようと思う。生きるつもりで人生と相対していこうと思う。

 


 2020 7/8

 どんなに長い間彼らは銭の勘定をし、あるいは陰謀をめぐらし、恐怖を抱き、人の機嫌をとり、人から機嫌をとられ、あるいはどんなに長い時間を自分や他人の保証でふさぎ、あるいは今では義務とさえなっている酒宴でふさいでいるか。これらをいちいち考えてみるがよい。

(引用元:セネカ著 茂手木元蔵訳『人生の短さについて 他二編』岩波文庫)

 「今では義務とさえなっている酒宴」という言葉。古代ローマ時代から、酒宴は義務だった!これからも義務であり続けるだろう。会食により心をゆるめるぼくらは、会食により機嫌をとり、機嫌をとられ、好感情の名の下に自分の時間をどんどん失っていく。

 飲み会出たくない若者は昔からいたんだろうなぁ。人間は成長しない。少なくとも2000年間くらいじゃどうにもならないというのはわかった。今週は、皮肉な気分です。

 朝の9:00ごろに目が覚める。すっきりと目が覚めて、昨日まで感じていた体の重みがないことに気づく。今日はやすみのひ。薄々感づいてはいたけど、あの重みはストレス故のものだったのかもしれない。

 本を読み、10:30ごろに、しなくてはいけない電話をかける。そのストレスからか、文章をひとつ書き、食事をする。牛肉と野菜と米と味噌汁。

 13:00ごろにもう一度眠る。何も考えなくていい。だから眠る。ローザ・ルクセンブルクのような言葉を夢で聞くけど、どんなのだったか覚えていない。ずいぶんと長く夢に滞在していた気がするのだけど、15:30ごろに起きる。

 音楽を聴き、歌を歌う。ロッシーニプッチーニ 。声楽には一つの母音で音階を歌うアジリタというテクニックがあり、ひたすらやる。どうやら腹横筋と内転筋を使えばうまくいくみたいだ。

 https://youtu.be/SIfz8fNQw0U

 https://youtu.be/NBL4nleKGaQ

 高い声を出すときは身体を反ると出やすい。きちんとした反り方とそうでない反り方があるのだけど、その具合は個人差があり、また勉強する言語によっても、それぞれの師匠によっても差があるので、すぐにダメと言われる。ぼくの場合は反りすぎだと言われるけど、見栄えで歌を歌うわけじゃない。やっぱり音がいちばん大事なのではないかと思いながら今日もたくさん反る。

 二時間ほど歌を歌い、お風呂と食器を洗って羊羹とポテトチップスのり塩味を食べて、お風呂に入る。気づかないうちにかなり疲れていたみたいで、ベッドに戻るなり寝てしまい、23:00に起きて、日記を書いている。

 今日はかなり時系列順にかけた。特に考えたことがなかったからだろう。ストレスなく過ごせる日々は、記録してもしなくても同じかもしれない。それでも書く。日記とはいったい何なのだろうか。謎に迫るためにも書く。

 自分がせっかちであることに気づいた。生き急いでいる。お金が欲しい。認められたい。能力が欲しい。こういうのを欲とか、煩悩とか言うのだろうと思う。煩悩にあふれせっかちな人格を持っている。

 しかし、本当に自分がやりたいことは何かと考えると、たぶん、新しいものを作りたいのだと思う。新しく感動的で広がった世界を自分の手で掴みたい、というか、自分の創作物を通して考えたいというか、言葉にできないワクワクした感じがそこにある。

 新しいものを作るにはいままでのものを知っておく必要がある。だから、歴史を知らなくてはいけないし、過去の作品を、人間を、絶滅した動物を知らなくてはいけない。しかし人間はすべてを知ることはできない。新しいものや突出した人間が出てこないと言われて久しいけど、それは当たり前で、新たなことをするのに知るべき情報の量が増えすぎていて人間は追いつけない。

 知るべきことはある。しかし知ることはできない。知るためには長い長い時間が必要になるけど、ふつうに、つまりお金を稼ぎ、ものを買って食べて着て遊んで生きようとしたら、そんなに長い時間はない。人間には長い時間が残されていない。しかし、積み上げられ整理されたたくさんの情報は人間の長い時間を求める。

 このせっかち⇆長い時間という対比が、あるいはジレンマがあるためにぼくは新しいものを作ることができない。何をやっても中途半端に感じられてしまうために、新しいことができない。情報と向き合い、集中しているときにあるドライブ感や、快感を常に持って暮らしていきたいのだけど、そうすると社会的には死を余儀なくされる。

 マルクスは完璧を求めたために、ついには資本論を完成させずに死んでしまった。そう聞いた。マルクスの時代ですら、短い時間と長い時間の対比は存在し、そのジレンマに人々は悩まされていた。良い作品、素晴らしい作品を作るということは、情報が求めるだけの時間を与えてやることであり、作者は人間としての短い時間と、情報の求める長い時間との間のジレンマと戦うことになる。

 忍耐とか、時間を使うと言ってしまえばそれで終わるのだけど、事態はそんなに単純なことではなく、ただ耐えればいいということではない。集中し続ける必要がある。情報を集め、その全体を手中に収めた上でさまざまな形に文節化し、それを配置していく。口で言うのは非常に簡単だけど、これはほぼ無意識の思考の上に行われる作業であり、体力と精神力と時間を使う。その間いわゆる社会的な生産なんかしている暇はなく、集中力の続く限り、一見、狭く短い視野でみたら無意味にも見える作業に没頭していくことになる。作者の不幸は、それが一見無意味に思えることを知っていることだ。また、自分自身にもそれが一見無意味に見えてしまうことだ。この無意味であること、もしくは無意味に見えることを無駄だとしてしまう価値観そのものに問題があるのだけど、現在の社会に生きる僕らはこうした価値観を発揮せずにはいられない。社会は人間を物理的に拘束するけど、精神的な拘束は物理的なものよりさらに強い。

 具体的な行動としては、ながら行動をやめ、目の前のことに集中するということだ。これがなかなかできない。ほんとうにできない。しかしやってみるとそこには快感がある。そこに快感はあるが、何かが残るわけではない。作品とは快感やドライブ感の後に偶然残っているものじゃないかと思う。実際それが生み出される現場にあるのは作者の生きた運動だけだ。例えば何かを読む、見る、書く、歌う、考える、とにかく生きている。作者はそこで生きているだけで、集中していることがつまり生きていることで 、作品はその結果として作られるから、半ば自動的に残っているものだから、作者が作品のことをロジックでうまく説明できなかったりする。そういうことはよくある。

 作品を作る瞬間の運動が、それが真剣であればあるだけ、その時の快感の量は大きく、また苦しみや不安の量も大きく、しかし場合によっては素晴らしいものが出来上がる。そんな気がする。必死に、真剣に、高揚する。その感覚を作品は受け継ぎ、その感覚を人に与えるために、すぐれた作品は快感を与えるのだろう。

 優れた作品を作りたいし、時間が欲しい。作るというのはこの場合比喩的な使い方で、必死に、真剣に一瞬一瞬の時間を感じられるような時間がたくさん欲しいということだ。脳がボーッと熱くなって心がワクワクして体が自動で動いているような錯覚を得られるような必死で真剣な時間が感じられるような、そんな生きいる感じを少しでも多く感じたい。疲れるし、めんどくさいけど、感じたい。

 ぼくは本を読むことや文章を書くとき、楽器を演奏するときや歌うときにも、ふつうの社会的な人格を脱ぎ捨てた身体的な快感がともなう。その時はだいたい呼吸が荒くなり、深い呼吸と浅い呼吸を繰り返し、目は大きく見開き、時に身体が火照って、考え事は止まる。性的な興奮状態に近いため、人にはなかなか見せることができないが、そういう状態になった時が自分としてはいちばん楽しい。興奮と快感があり、非常に疲れる。

 簡単に言えば、ラリる。ラリることができる。本や映画や歌で。違法薬物を使ったときや、女性のフェロモンにあてられたときなんかと一緒のことが起きる。それが起きないと片手落ちなのだけど、なかなか起きてはくれない。そういう快感を忘れたり思い出したりしながら生きている。今は思い出したときなのでこうして書いている。こういうときはとにかく文章が次から次に生まれる。10分で千文字とか書ける。ただ、そうした興奮状態によって生み出されたものが排泄物とどう違うのかがわからない。作品は運動の落とし子という感じがする。残るのは運動があった時の興奮のパッケージであって運動や興奮や快感そのものではない。

 作者や本人にとってはその興奮や快感そのものの方が大事なんじゃないかと思ったりもする。それは読者としては寂しいことだと思うかもしれない。しかし、そんなことはない。受け手は受け手でありながら、その情報に触れたときの振る舞い方は自由であり、受け取り方も自由であり、つまり作品の受け手とは受けた瞬間にまた次の運動や興奮の主体になるからだ。主体の連鎖による興奮の連鎖が起こる。これは記録の二次的な作用だ。

 これは日記だ。今日ぼくは興奮している。日記として書いておこう。しかしそろそろ寝るだろう。寝なくてはいけない。この興奮を鎮める時間も必要だ。集中は興奮を生む。今の社会はなかなか人を集中させないようにできている。みんなきっと興奮したくないんだろう。みんな集中したり興奮したりするのが嫌いなんだろう。めんどくさいから。よくわかる。みんなせっかちだ。ぼくだってせっかちだ。しかし情報が長い時間を求めるのだから、情報と遊んであげよう。みんなが遊ばないならぼくだけが遊んでいよう。こんなに楽しいことはない。めんどくさいし、疲れるけどね。

大きな文字で書こう。「しちがつようかはやすみのひ」

 何を書くべきかはわからない。べき、なんてものはない。「そもそも書くという行為自体が必要のないことなんだから。」そう言いながらぼくはベッドから身体を持ち上げている。

 きみはもしかすると、「必要とかそういうことじゃないでしょ、書くってことは...。」と言いたいかもしれない。きみはぼくの部屋のドアを開けて、洗濯物を運んできてくれた。なぜここが二人称になっているのかは自分でもわからない。ぼくはありがとうと呟いて、洗濯物を手渡された。

 「必要のある文章を書こうと思ったら、役人になるしかない。」必要とはなんだろうか、と考えながらぼくはドア越しのきみに目をやると、ぼくの部屋の反対側にある洗面所の蛇口から水が少しこぼれているのが見えた。きみは、「社会のための必要性とか、自分のための必要性とかそういうのを考えないで書かれた文章が作家的なあり方じゃない?」と言うだろう。それは理想だと思う。ぼくは作家じゃないからわからないよ、と呟いて、ドアを閉める。

 バタン、と鳴ってドアは閉まり、部屋のなかは暗い。電気のスイッチはドアのすぐ右上にあって、押せば明るくなる。この文章で、なぜセリフの形で自分の考えを喋らせたんだろうと思う。きみはたぶんもう一度ドアを開けても出てこないだろう。朝だから、カーテンを開ければ部屋は明るくなる。カーテンの向こうから光が漏れ出していて、ぼくはそれを見ている。

 「『公文書』っていうバンドをやりたいなって思うんだ。」誰に言ったのだろうか、誰かに話した。電話だった気がする。あれは、大学の学生センターだったかもしれない。「でしたら、先日郵送いたしました書類に必要事項等をお書きになっていただいて、それからこちらの住所、わかりますか?」女の声が言う。オカキニナッテイタダイテ。これはいったいなんだろう。寓話でもない、小説でもない、ぼくは暗い部屋のなかで片手に持った電話に向かって、必要事項と疑問点を投げかける。「バンドの受理にいたしましては後日担当の寺本からお電話させていただきます。寺本は本日は終日自宅待機しておりまして...。」ぼくの電話相手は日本語があまり得意じゃないから、休みの日のことを自宅待機と言ってしまうのだろうか。

 この文章が千文字以上になったらブログに公開しようと思いながら、ベッドに横たわった。枕元には本がたくさん散らばっている。『知の編集工学』『知の編集術』『人生の短さについて』『小説の誕生』を、今おもに読んでいる。『小説の自由』シリーズは、二作目の『誕生』がいちばん読んでておもしろい。

https://www.amazon.co.jp/知の編集工学-朝日文庫-松岡-正剛/dp/4022613254

https://www.amazon.co.jp/知の編集術-講談社現代新書-松岡-正剛/dp/4061494856

https://www.amazon.co.jp/生の短さについて-他2篇-岩波文庫-セネカ/dp/4003360710

https://www.amazon.co.jp/小説の誕生-中公文庫-保坂-和志/dp/4122055229

 「複数のことを、自分の考えと切り離して相対化させようと思ったら、小説とか会話の形式をとるのがいちばんベタベタしなくて良いなぁ」と、ラインを打った。自分の考えがぐるぐる回っているときに、人と会話するのは、面倒だけど、必要だ。

 彼女はぼくの中学時代の友人で、高校時代の天使だ。顔が良く、すらりとした白い手足をしていて、近づくと薬品の匂いがした。彼女は「わかりやすいものが好きだけど、わかりやすいだけじゃダメだよね」と言っている。ツイッターを開くと『日本もWHOを脱退するべきだ』という趣旨の言葉をいいねしていた。この場合の罪は、いいね欄を覗いたぼくにある。「美しい人間のいいねはのぞきたくなるでしょ?」きみに向かって言うと、ドアの向こうからは洗濯機のガタガタという音だけが聞こえてくるだけだ。

水星は、みかづき町に擬態する

 2020 6/29


 何時に目が覚めたか覚えていない。昨日は眠れなくて、4:30ごろに寝ついたように記憶している。

 二限の後半にレッスンがあるので、9:00には駅に行かなくてはいけない。7:30に起きようとして、7:45に起きる。朝の15分は大きい。この大きいって言葉は比喩だけど、何が大きいんだろう。客観的には15分だけど、深夜の15分とはわけが違う。

 睡眠時間が三時間だったのでフラフラしながら駅まで歩く。太陽に照らされて、アスファルトにも照らされて、空気中には水分の量が多く、僕は汗をかきながら、蒸し焼きの気分で歩く。最後とはいえ、6月でこの暑さかあ、と少しうんざりする。うんざり。不思議な感覚だ。悲しみで寂しさでもなくうんざり。うんざりすると、暑さが増す。

 学校に着く。今日から通常授業が一部再開したので、今まで会ってなかったたくさんの友人に会う。人が多いところは苦手だ。人が多いとテンションが下がる。単純に疲れて、何もしたくなくなる。

 友人と話していて、俺のパーソナリティなんてどうでもいい、みたいなことを言った。

 レッスン。寝てなくたって声は出る。久しぶりにピアノと一緒に歌ってたのしかったです。

 ご飯を食べて、帰る。帰り際に図書館に寄って『世界のエリートがやっている最高の休息法』を借りる。本当はその場で読み切るつもりだったんだけど、眠すぎてダメだった。休息法を知りたい人が疲れていて勉強できない場合は、どうしたらいいんだろう。休息法を知りたい人のための休息法が必要。急速な休息法。ダジャレ。

 歩いて帰る。図書館からは徒歩30分くらいのはずが、気づいたら逆方向に歩いていて一時間くらいかかる。

 『世界のエリートがやっている最高の休息法』という本は、物語形式になっている。とてつもなく優秀な脳神経学者の卵である主人公が、挫折と疲れのなか、教授の教えもあり、マインドフルネスと出会う、というような話だ。マインドフルネス×脳科学という感じで、最初の部分を読んだだけでも面白かった。

 休息法の本を読んだところ、マインドフルネスはヴィパッサナー瞑想によく似ていることがわかった。ヴィパッサナー瞑想とは、止観瞑想とも言われる瞑想の方法で、インドの原始的な瞑想法のことだ。

 止観瞑想という名前の通り、止まっている自分を観る瞑想法で、例えばじっとしながら呼吸に集中したり、自分を引っ張る重力の力を感じたりする。

 じっと自分の内部感覚や、外部から与えられる刺激を観察していると、さまざまな力が自分に向けて発せられたり、自分が発したりしていることに気づく。太陽が自分を焼いて、アスファルトが空間を蒸していく。風が通り抜ける。潮の匂いがする。鳥が鳴いている。今、ここに集中する。すると、悩みが消えていく。

 『世界のエリートがやっている休息法』は、この、悩みが消えていくメカニズムが脳科学によって解説されている。

 多くの人が知りたいのはここだろう。「そんなことやってホントに悩みが消えるの?」消えます。消えるというか、意識しなくなります。

 しかし、落ち着くのが果たして幸福なのかというのは、考えなくてはいけないかもしれない。人間の脳は、感情的にギャップがあると快感を感じるようになっているらしい。

 さめざめ泣いたり、手玉に取られたり、かと思えば喜ばされたり、振り回されることが楽しいみたいだ。小悪魔女子がモテるのはそういうことらしい。小悪魔女子ですら脳科学で説明がつく時代というのは、とってもわかりやすいし助かるのだけど、手品のタネをバラされた感じもある。これだけクリティカルでわかりやすい情報が多い世界だから、知識量がモノを言うようになってしまったんだろう。

 落ち着いてしまえば、感情が振り回されることもなくなる。論理的思考はできるようになるし、決断力も上がるけど、快感の量は減る。仕方のないことだ。悲しみがあれば喜びもある。悲しみがなくなれば喜びもなくなる。

 瞑想は、歩きながらでもできる。歩いてるときに感じることに集中すればいい。呼吸、太陽の光、足がアスファルトを蹴っている感覚、汗が吹き出る瞬間の感覚。それらを感じていると、起こっていることと感情がリンクしなくなる。

 例えば、今日はとても暑かったのだけど、暑いという感覚に集中すると、暑いことと、イヤだという感覚の二つが切り離されて、暑くてもイヤだと思わなくなる。それどころか、体に当たる風にも敏感になって気分が少し良くなったりする。いいことが多い。疲れたときにやると、目が覚めたり、疲れを感じなくなったりする。結果的に、無限に歩くことができる。

 そんな風にして歩いていたら、夕方に近いこともあって、犬を散歩させている人をよく見かけた。犬を見ていたら、飼い主さんに「触りますか?」と声をかけられる。二人から声をかけられた。二匹触った。チワワとプードル。

 僕は知らない人と話すとき、異常に愛想が良い。お店のひととか、道端のひととか、居酒屋のひととか。それは、相手に良く見られたいからだ。僕のパーソナリティが明るかったりオープンな訳じゃない。

 しかし、動機は問わず、笑顔で対応したり、進んで話を聞いたり、親切な行動を取るひとは明るくオープンなパーソナリティである、ということになる。

 であれば、人格とは、どう見られたいかの集積なのではないか、という仮説を立てて、歩きながら考えていた。

 僕は知らないひとと話すとき、明るい自分を演じている。それは非常に自然な演技だから、演技だとは思われない。自分でも演技だとは思っていない。あとで思い返すと、ああ、あのとき演技をしていたな、と思うだけだ。

 つまり、演技には、相手にどう思われたいかが反映される。それはほぼ自動的に起こる心の機能で、であれば演技は何をするかではなくどう見られるかが大事になってくる。

 お芝居をするなら、人間関係の中で自分の役が人にどう見られたいと思っているかを考えれば、そこから逆算してパーソナリティが浮かび上がってくるのではないかと思った。

 パーソナリティとは、どう見られたいかの集積である、という命題を立てた。

 16:00ごろに帰る。フルーツを食べると眠くなったので6時間くらい寝る。そして今これを書いている。一日は長い。書くのも長い。明日は日記を書いてるのだろうか。とりあえず眠ろう。今日も、こうして見ると色々なことを考えたものだなあ。

 


 2020 6/30

 朝、10:30ごろに起きる。いや、起きるというか、目が覚めるが、身体が起き上がらない。持ち上がらない。ぐだぐだとまばたきを繰り返し、11:00を迎える。頭が重く、何もする気が起きない...。こういう時は大抵の場合低気圧が原因ということにしているから(自分の中で決めてる。言い訳のために)気圧を調べる。今日は低気圧らしいと知って救われる。

 今日は12:40には家を出なくてはいけないので、なんとかベッドから這い出して、シャワーを浴びる。体は冷えていたみたいで、シャワーの熱が染み込む感じがする。じんじんと。頭に熱いシャワーを浴びると良いみたいだ。重さが少しだけ和らぐ。

 学校に行く。行く途中の1時間半で何をしたか全然覚えていなくて、怖い。時間が消失したみたいだ。移動時間の記憶は消えやすいから、こまる。移動時間が長いから、こまる。

 一日に三時間消失していることになる。でも、帰りの記憶はある。ドラマを見ていたから。

 しかし今はまだ学校についてないから、その記憶はその時の僕にはない。学校に着く。

 授業を一つ受ける。オペラ演習。歌えることが面白い。実際に歌うことが面白い。対面というのはやっぱり大変だけど価値がある。固有のものがある。とはいえ対面絶対主義みたいなことじゃなくて、レコードにもライブにもインスタライブにもそれぞれの固有のものがあり、その中の一つとして対面があるというだけだ。

 帰ろうとするが、歌い足りず、練習室へ行く。まだ提出してない書類のことを考えると、教務課に行きづらい。俺が悪い。

 帰る。ドラマを見る。家に着く。ドラマを見る。お風呂に入る。ドラマを見る。

 家に帰ってからも、あんまり何をしたでもなく、次の日が来てしまった。次の日なんてこなければいいのに、なんて思わなくなったから、暇は良いことだ。

 こうして日記を書いていると、日記という文学の形態について考える。カフカの日記、ミシェル・レリス日記、チェ・ゲバラ日記、ダライ・ラマの日記。これらの日記が読みたい。日記に正しい形はないけど、例えば非常に描写的に書く人もいるだろうし、僕のこれはまったくもって描写ではなく言葉の自動的な駆動に任せると言った感じで、読んでいて面白いのだろうか。

 自信がないのは人に好かれないけど、思ってしまったものはしょうがない。公開する前提で書いているのがおかしいのか。

 自分が読んだらきっと面白いだろう。俺が面白いと思うものはみんなにとって面白くないらしい。孤独であることに痛みを感じる。そういうタイプだ。心理学的にいえば。心理学的にいえば。心理学的にいえば。心理学かあ。メスを入れて勝手に名前がつけられていくみたいだ。「20200630、心、孤独を恐れる。」みたいなラベルを貼られて標本にされて、俺は科学的な記号になる。人間は記号じゃない。所有もできない筈だ。わかり得ない部分が大切だ。わかり得ない部分は、分かろうとするから現れる。分かろうとすることは大切だ。でも、でも、でも、でも、でも、、、でもなんだろう。科学に対して、素朴に、たぶん、素朴に、そんなことで分かった気になるな!と言いたい自分がいるのを無視することができないんだ、ぼくは。

 


 2020 7/1

 七月になってしまった。起き上がったのは11時。しかし眠い、というか重い。故に眠る。12:50に起きる。

 時系列的にはおかしいけど、いま電車のなかに、通勤電車にむしろ乗りたいっていうことをひたすら主張する男が耳障りな特徴的な声で喋っているのが聞こえる。スキマスイッチのボーカルのような声で、人によっては好きな声だろうと思う。僕は苦手だ。スキマスイッチは好きだ。

 主張している人の声はわかる。特徴的だ。話を聞いてる人の方が余裕があり落ち着いてるように見える。つまり、話を聞く側と話す側では立場的な変化が、その瞬間に起こるということだ。言わぬが花。それはある一つの真理であるようにも思う。

 人に話すのは相手の感情に寄り添うことが大事だ。相手が気分良く受け入れられる打診の仕方なら、失敗することは少ない。

 文章もきっと同じで、心理的に受け入れやすいパターンというのがあるんだろう。だから、そういう書き方を覚えたい。というか、どうにかして試行錯誤して身につけたい。

 起きてからシャワーを浴び、ご飯を食べ歌の練習をする。歌えば複数の問題は解決する。歌うことで健康になれる人間でよかったなぁ。

 だらだら過ごす。16:00ごろに一眠りして、17:00前に起きる。17:20に家を出ないと。間に合わない。

 友人と食事を食べる。この時期に新宿へ行った。無用心だと思う。友人も無用心だと思っていたらしい。様子と会話ですこしわかる。では、なぜ無用心をあえてやってしまうのだろう。合わないほうがいい、会うにしても、別の場所がいい。しかし、お互い無用心だとわかりながら無用心を進んで求めてしまう。死の欲動というやつだろうか。あえて、新宿に行く。新宿には相変わらず、ひとが多かった。

 中華料理を食べる。美味しい。いろいろな話をする。ぼくは、いろいろなことに気づく。例えば、ぼくは自分の感情ではなく他人の感情に、もっと言うと他人から自分へ向けられる感情に反応していること。

 ものごとの共通点と違いが気になること。

 外出自粛に我慢が必要な場合があること。

 自分の好きなものを人に伝える方法で悩んでいる人が多いこと。

 保護されたくないこと。放って置かれたくもないこと。

 気づいた。

 駅から家まで雨の中を歩いている。

 恋人はいま不安らしい。なんとかしてあげたいと思う。

 俺は、受け入れる人になるんだろう。

 自分が一番求めている母性を、自分が一番発揮する。

 受容。

 客体。

 客体として生きる。憧れられるところの人間。

 憎まれる人間。愛される人間。誰よりも嫌われる人間。受け入れよう。好きなものを俺に入れてくれ。

 なりたいあなたになってあげよう。そうしてぼくは全てを手に入れるんだと思う。

 中学二年生みたいで恥ずかしいな。

 


 2020 (7/3) 7/2

 いま、7/3の14:00ちょうど、学校への電車の中でこれを書いている。昨日は眠くて眠くて、とはいえ夜の二時に寝たのだけど、それから今日の12:00まで寝た。これは、本来なら今日の日記に書くことだ。

 全然眠れなかった。5時間くらいしか眠れず、11:00には家を出なくてはいけなかったので頑張って布団の外へ出る。晴れ。

 昨日までの雨が乾かないうちに空はもう透き通ると言った感じの青空で、体は焼かれる。焼かれる感じだ。下からアスファルトに照らされる。ホットサンド状態だ。

 『休息法』の本にある歩行マインドフルネス的なことをやると、暑さと感情がリンクしなくなるので、不快感はなくなる。便利だ。果たして禅のメソッドを便利と言ってしまって良いのかはわからない。(禅をメソッドと言ってしまって良いのかもわからない。)

 昼からピアノと合わせをする。合わせができるようになったのは嬉しい。しかしうまくはいかない。うまくいかないなりに頑張ろうと思う。それは、いつもそう思う。

 できないからやる。挫折するからやる。いつもそうだ。自分に出来損ないだって感覚を感じているから、少しでも欠損が埋められるように頑張る。それでも天才にかなわないこともある。できることもある。そういうもんだろう。

 挫折感のようなものを感じる。昼食を食べ、恋人とサイクリングに出かける。自転車を借りられるサービスが最近、やけに充実していて、東京都内ならどこの自治体もやってる。川沿いを走る。いい気分だ。

 帰宅。寝る。何もしなかった。風呂に入った。しかし記憶がない。寝た記憶しかない。疲れていたらしい。これを書いている今でも、その疲労感は残ってる。

 


 2020 7/4

 起きる。11時。寝る。起きる。12:30。

 睡眠時間がまたおかしくなっているけど、これもきっと周期的なものだろうと思う。本を読み、食事をする。

 体癖論の勉強をしようと、昨日考えていたんだった。明日は都知事選の投票日。でも、今日投票しに行こうと思う。

 母親と話をして、それから期日前投票と本の調達に出かける。

 投票するためのカードのようなやつ、住民の情報が書いているアレ、名前を知らないアレには、投票所が小学校だと書いてあったから、小学校に行ったけど何もやっていない。おかしい。グルグル回る、一周回ったけど投票をやっている気配がない。時間が過ぎたか?

 もう一回投票用紙を見る。確かにここだ。この時はわかっていなかったけど、本当は区役所だった。

 期日前投票を終えて、区役所を出る。図書館へ向かう。最近、細かく順序立てて書くのが面倒くさい。最近、いろいろなことが面倒くさい。

 図書館では、整体の本と心理学の本を読む。どちらも体癖論に関わるやつだ。ツールが欲しい。人間を理解するためのツールが。MBTI、ストレスタイプ、そして体癖。この三つで相手を理解し、コールドリーディングをしつつニーズを探っていくことができるようになれば、後は相手の自己重要感と、相手から見た自分の重要感を上げていけば人間関係はうまくいく。理論上は。

 図書館で読んだ二冊はあまり役に立ちそうになかった。やっぱり原典に当たらなくちゃならない。自転車を走らせ、書店まで行く。

 野口晴哉著『体癖』を買う。700円くらい。野口晴哉の著作を読むのはこれで四冊目だ。気づかないうちに何故か読んでいる。自分の行くところに現れるのだから仕方がない。読んでいく。

 また、『体癖』という本には第二巻が存在するらしい。なので、借りに行く。第一巻は貸出中だったけど、第二巻まで読む人は少ないらしい。まだ読んでいない。読む予定だ。

 家に帰る。食事をする。歌う。お風呂に入る。ウイイレをやる。そんな感じ。そうして気づけば次の日が来ている。一日が短く感じるのは、起きるのが遅いからだ。夜がぼくの主な活動時間になる。マインドフルネスの本を読む。寝る前に10分くらいやる習慣にしちゃおうかな。続くかな。

 


 2020 7/5

 友人と東京を歩く日。歩きながらいろいろなことを話した。民主主義や、文学や、カラーコーンについて。美しいものを見た。夕焼けや焼けることについて話した。数時間前のことだ。

 東京都知事選についても話した。話さざるを得なかった。理性について話した。感情とか、人間を分ける三分法について話した。

 記憶はあるが整理が追いつかない。本はあるけど読むのが追いつかないみたいだ。本を多冊読む話をした。多冊の響きに他殺を感じた。いまも感じる。読むのは殺すのに似ている。嘘だ。そんなこと思ってない。しかし、殺すためには明らかにする必要がある。相手の居場所や、弱点について。読み、明らかにすることは殺すことの第一歩になるかもしれない。

 空目した言葉について話した。線路のそばを歩いた。美しいものを見た。

 今は歩いている。線路の下を歩いて、家に帰っている。日記とは本来ねるまえに書くものだろうから、これは日記のフォーマットに従ってないかもしれない。いいこともあったしわるいこともあった。悪いことばかりではない。生きていると面白いことがある。一日の間でもいくつかある。悪いことばかりじゃないって話をした。児玉まりあとスペシャルについて話した。

共感と暴力と、小説の会話

 「なんで川?」

 「海だとちょっとかっこよすぎるでしょ。かっこよすぎて、かっこわるすぎでしょ」

 「どっちにしても水なんだ」

 「いや、そういうわけでも」


 という会話が出てきて、うまい。というか、しっかりしている。最近、若い人同士の会話を多用する小説が多いけれど、ほとんど誰もこのレベルに達していない。たぶん。

 「なんで川なの?」

「うーん、海だとちょっとかっこよすぎるっていうか」

 「かっこよすぎ?」

 「かっこよすぎると、かっこわるくなるじゃない」

 「かっこわるくねえ...」

 という感じで、同じ単語が二度三度とやりとりされて、

 「どっちにしろ水なんだ」

 という“転”が出てこない。つまり、一つのイメージのまわりを二人が回っていて、本当のところは二人ではなくて作者一人がそこにいるだけということなのだが、この小説の会話では二人が違うものを見たりイメージしたりしていることが明快に示される。

(引用元:保坂和志著『小説の自由』 中公文庫)

 最初の会話は佐藤弘の『全ては優しさの中へ消えていく』の中に出てくる会話だ。あとの方の「悪い例」はきっと保坂和志の考えた改編だろう。

 「悪い例」を読んで私は、この会話はまるで下手なカウンセリングのような会話だと思った。

 カウンセリングの技術のなかに、相手が言ったことを繰り返すテクニックがある。

 正しい名前は知らない。きっと何か英語で名前がついてるはずだ。でも僕はよく知らないから”繰り返すテクニック“としか言えていない。

 聞き手は、相手の言ったことを繰り返す。すると、話し手は「そう、それでね〜」といったふうに話を続けやすくなる。

 こういうテクニックだ。このテクニックを知った僕はここ数日間、いろんな人を相手にやってみた。「そんなにうまく行くものかな〜」といった気持ちだ。いつも半信半疑で会話を始める。

 すると、おおむね問題なく話が進む。おお、と思う。その間にも相手は話してくれる。うまく行かないこともあるけど、話し手は違和感を感じても、続きを促されると話してしまうものらしい。

 このテクニックを応用して、昨日、一連の会話を書いた。書いたというか、仮想的に聞き手を想像して、自分で思考を深めていったというかそういう感じだったのだけど、今こうして保坂和志が書いた「悪い例」を見ると、自分が書いた会話によく似ているなあと思う。

 保坂和志は、「悪い例」を”本当のところは二人ではなくて作者一人がそこにいるだけということ“だと言う。

 安易に納得していいかわからないけど、納得した。ここで安易に納得していいかわからない、と書いたのは、わたしは安易に納得するような思慮の浅い人間ではないということをアピールするための防衛的な言葉の使い方だ。

 「私は納得したけれど、安易に納得したわけではなく、これから納得を翻意にする可能性もあるが一時的に納得という体裁を取っているだけです。」

 というポーズだろうと思う。無思考のバカだと思われるのが嫌だったのだろう。しかし予防線を貼るのもみっともない気がする。僕は納得したんだ。確かに納得した。とはいえ書いてしまったものは撤回できないから、続ける。

 安易に納得していいかわからないけど、なるほど納得した。

 「悪い例」の聞き手(?)の話し方は、相手に共感して、相手の言葉を繰り返している状態であり、自分の感覚とか意見とかそういうものがない。

 昨日の会話で私が仮想的に作り上げた聞き手のような無個性な人格だ。それは話し手の言葉を繰り返す機械のようであり、受容や共感以外のアクションを持たない。聞き手がこうした態度のとき、会話の実感のようなものは話し手の中か或いは作者の中にしか存在しない。

 聞き手に人格がない。そこにある世界を感じているのは話し手だけになってしまう。話し手と聞き手が一心同体になってしまうような、そういう感じだ。

 このあとで詳しく話すけれど、話し手と聞き手が一心同体になっているような文章は、保坂和志の言うとおり、しっかりしていない。

 同じように、話し手と一心同体になってしまうカウンセラーはあんまりいいカウンセラーではない。「自分と相手は違う人間であり、違う考えを持っている」という事実を無視してしまっているからだ。

  「相手のことは相手のこと」という態度のことを、カウンセリングの言葉では自他を切り離す、とか、自他を区別する、と言うらしい。


 例えば、相談者が突然「男なんて嘘つきばかりだ!」と言ってきたとしよう。

 これに対して、「なんだと!」と怒ってしまったらカウンセラーにはなれない。逆に「全くもってその通りだ!男なんて嘘しか言わないんだ!」となってしまうのもダメだ。

 前者は相手の怒りを自分に向けられた攻撃だと解釈しているし、後者は相手の怒りを自分のものにしている。

 どちらも、相手のことは相手のことであり、自分のこととは違っている、という態度を取れていない。

 会社から帰ってきたとたん、あなたの奥さまが、隣の奥さんがいかにたいへんか、わがままか、を話しだしました。

 「今日も自分の家の生ゴミを、うちの家のほうに掃き出していたのよ。うちで出したゴミをそっと開けて調べているし、私の悪口を近所で言いふらしているし.......」と、とどまるところを知りません。そんなとき、玄関のチャイムが鳴り、うわさをしていた隣の奥さんが入ってきました。

 「明日、いっしょにデパートのバーゲンに行かない?」という誘いです。あなたは、奥さまがあれだけ悪口を言っていたのだから当然断ると思っていると、なんと奥さまはニコニコして「行くわ」と言うのです。それでいながら、隣の奥さんが帰ったらすぐにまた悪口がつづきます。こんなとき?あなたは冷静に奥さまの話を続けて聞けますか?

(引用元:東山紘久著『プロカウンセラーの聞く技術』 創元社)

 僕だったら無理だ。「そんなに嫌いなら行かなきゃいいじゃん」とか、「結局行くんなら悪口言わなければいいのに...」とか言ってしまいそうです。言わなくても確実に思うだろう。

 これは僕だけではないと思う。多くの人がそうだと思っている。

 逆に、自分がそんなふうに複雑な状況の愚痴を言ってるときはだいたい「そんなに嫌ならやめればいいじゃないか」とか「それでもやるって言うなら文句を言ってないで手を動かせ」とか言われてしまう。

 「嫌ならやめろ」理論だ。むかし流行った「嫌なら見るな」という言葉を思い出した。「そんなに嫌なら日本を出て行け」とか。お分かりのとおり、これらは全て暴力的だ。これを言う人は「相手のことは相手のこと」という構えを取れず、「相手のことは自分のこと」であり、もっと言うと「対立する相手を自分の思い通りにしたい」という感情が見える。

 さて、「相手のことは相手のこと」と考えられるようになりますと、この会話はずいぶん変わってきます。あなたが会社から帰って来たとたんに、奥さまが隣の奥さんの悪口を言いだしたとしましょう。

 奥さまの話を素直に聞いていると、隣の奥さんはたいへんな人であることがわかります。ここで「妻の話は妻のこと」が生きてくるのです。

 もしこの指標が生きていないと、奥さまの話を聞いてあなた自身が隣の奥さんに腹を立ててしまいます。あなたは間接者であったはずなのに、いつのまにか腹立ちの主体に変化しているというわけです。

 しかし、奥さまの腹立ちに共感してあげる必要はありますが、あなたが腹を立てるいわれはないのです。(中略)これではあなたは妻と自分の自他の区別が、あまりついていないことになります。

 “あなたは間接者であったはずなのに、いつのまにか腹立ちの主体に変化しているというわけです。”

 この一文が僕の言いたいことです。

 聞き手が話し手に一体化しすぎると、感情の主体が入れ替わってしまう現象が起こるみたいだ。

 保坂和志が示した「悪い例」のような会話や、昨日の僕が書いた「下手なカウンセラーの聞き方」みたいな会話は、二人の人間がいたらそれぞれ違う人間であり、お互いのことはお互いのことである、という客観的な事実が保たれない。

 保坂和志の言うところの”転”が出てこない会話になってしまう。“転”とは、違いとか、別の視点とか、新たな考えとか、話し手と聞き手の間に違う現実があることに根差している。

 “転”のある会話は、会話の中にお互いの主観が混じる。違った視点や考えが導入される。のだと思う。僕は保坂和志に納得してしまったので、それは、僕なりの言葉のシステムみたいなものの中に勝手に取り込んでしまったということなので、こういう風に結論づけてしまうしかない。

 会話で“転”を作り出すことができる、保坂和志に言わせると「うまい」作家の一人が村上龍だと思った。

 「おい、向こうで保健所にいたって本当か?」

 ヘロインを包むアルミ箱を開きながら僕はオキナワに聞いた。

 「ああ、オヤジにな、入れられたんだ。アメちゃんの保健所だよ、俺がぱくられたのはMPだったからさ、まず米軍の施設で直してからあ、こっちに送り返されることになったわけだな、リュウ、やっぱりアメリカって国は進んでるよ、俺ホントにそう思ったぜ。」

 ドアーズのレコードジャケットを見ていたレイ子が横から口をはさむ。

 「ねえリュウ、毎日モルヒネ打ってもらえるんだってよ、いいと思わない?レイ子もアメちゃんの保健所入りたいなあ」

(引用元:村上龍著 『限りなく透明に近いブルー講談社文庫)

 こういう会話は、かっこいい。憧れる。“転”がある。

 このレイ子の会話が“転”だと思った。こういう当てはめ行為に意味があるかわからないけど、やってみる。

 レイ子はオキナワの話を繰り返していない。オキナワはこの会話の中では一度も「毎日モルヒネ打ってもらえる」なんて言ってない。

 これはレイ子の中から出てきた言葉だ。オキナワの話を聞きながら、レイ子の中で思考が回り、記憶とか感情が言葉になった。それを口に出した。そういう感じがする。

人が数人いたら、一つの言葉に対する人数分のイメージがある。今のところ、人間同士で完全なイメージの共有できない。共有できないから、違うことを言ったりわからないことを言ったりする。それが“転”になるんじゃないか。あるリアリティをもつんじゃないか。と思う。

  村上龍は、何かの作品のなかで「結局、人が他人に影響を与えるなんて不可能なんだ」というようなことを言っていた。これは、ちょっと悲観的にも見えるけれど、自他の区別をするということにつながる。つながらないという人もいるかもしれない。けれど僕はつながると思う。

 一つのイメージを二人が共有することは、まだできない。同じスマホの画面を見ている恋人同士だって、違う印象を抱く。

 だから、カウンセリングちっくな会話は一つの嘘なのかもしれない。共感とは、優しい嘘か、自他の区別がない暴力のどちらかなのかもしれない。いや、そんなことはない。しかし、安易な共感や納得に僕がこだわるのは、そういった何か不穏なものを感じているからだとも思う。

 人間は結局自分で治るしかない。心が辛いときは、吐き出し、自己治癒力で治る。それには他人が必要だ。だから、村上龍には反するけど、自他の区別を持った上で話を聞くことができれば、相手に影響を及ぼしたり、自分に影響を及ぼす助けになれるかもしれない。

 そういうのを本当の意味で、共感と呼ぶのかもしれない。ここでいう本当とは、理想的な、という意味だ。

 かもしれないトークで終わってしまったけど、共感は押し付けや暴力じゃない形で存在できる、そんな感じがする。この感じは、なんだかいい感じだ。