ゲージュツ的しつけ

フェレットのしつけが書いたゲージツ的なしつけ術の数々。メール→fererere25@gmail.com

社会の役に立てない

 電車のなかで、神さま、ぜんぶあなたのおかげです、って詩を聞いた。https://youtu.be/mBeNpz0nMPs 僕はその詩をすごくいいと思った。

 電車に乗るぼくたちは、絶対的に孤独である。何百人と集まって、一つの電車に閉じ込められて、誰とでも近くにいるのに、誰とも連続していない。

 神楽坂駅に着いた。神が、楽しむ。坂。神さま、ぼくがキスをしたら、ああ、下手くそ!なんて凡庸、なんて陳腐。スラスラと素晴らしい文章が書けたら、どんなに素晴らしいだろう。

 目の前の座席が空いたので座る。ぼくの手が止まって、書かれつつある文章が止まった。文章が止まった時、僕の世界に起きた沈黙を文字で記すために費やされたのはたった一個の、だった。

 あの娘に会うのに持っていくべきものは何だろう。金木犀の香水か、それともピンクの、一輪挿しの、根っこのないお花なのか。完全じゃないものの方が美しいと思う。だからどんなに不格好でも、傷ついてるものの方が綺麗だ。人間だってちょっと傷ついてる方が魅力的だ。ほんとうなら、傷口だって愛せないとセックスなんてできない。俺はなぜ生まれてきたんだろう。それは親がセックスしたからだ。

 しのぶれど音に出にけり我が恋は、と詠った詩人の切実さのかけらでも僕にあればよかった。そうすればすこしは、意地悪な自分を恥じないですむ。

 しのぶれど、色に出にけり、わが恋は。人に知られないように心に秘めてきたはずの恋心だったのに、ふとしたときに「顔に出ているよ」と言われてハッとする瞬間の詩だ。

 そんな風景、大学にも、子供のころの記憶にも、制服の裏側にもどこにもない。コウノトリのサブリミナル。誰かと子供を残したい、そんな気持ちはかすかにもない。なのにセックスをしたがるなんて僕はわがままだ。

 


  シャム双生児のように、思考の共有はないまま体が一体でいるのはどんな気持ちだろうか。きっとぼくらの名前は脳につけられた名前なんだろう。一つの体に二つの頭だったら、二つの名前がつけられる。腕が一本、足が一本多くても、名前は増えない。僕らの名前は脳に、自我に、つけられる名前ということだ。

 それはとても良いことだ。

 ぼくが、ぼくだと思ってるこのぼくは、集合体としての存在だ。それは分子の、原子の、あるいはもっと小さな微粒子の、集まりとしてのぼく。集合体なのに、どことも繋がれないぼく。それぞれの自我は結局のところ絶対的に孤独だ。電車のなかにいるすべての人と同じように。深く青く、透明な色をした綺麗な地獄のように。切り取られたひとつの詩のように。

 新宿で降りた。

現代的な筆の取り方のススメ

 無理やりからだを起こして、午前10時のぼくはデカダンスにもなれないままでいる。お腹がすくけど、何か書けそうな気がして、現代的に筆をとりました。ぼくはとても現代的だから、スマホでこれを書いてる。タバコの匂いもドラッグもトリップもない午前の世界は健康で健全すぎて不健康だから、死んだひとの声について書くことにする。

 もういない人の声がぼくに文章を書かせてくれてる。実はぼくは文章を書いてるんじゃなくて、もういない人の声を聞いて文字起こししてるだけなんだ。いま書いてるこれはぼくの中のぼく、もういない、一人の男性の声。五歳の自分が遺していった声に従って書いてる。

 いない人の声が聞こえるなんて言うと、サブカルクソ野郎からスピリチュアルクソ野郎に転向したのかと思われるかもしれないけど、本当なんだ。怪しいでしょ。はじめて読んでくれた人ははじめまして。びっくりしないで、これはイタコの真似事です、いや俺がイタコです。文章を書く人はみんなイタコなんです。実は、演技するひとも音楽を演奏するひともみんなイタコなんです。本当のこと言ったのが知られるとヒンシュクを買うから、みんなには内緒だよ。

 冗談はこのくらいにしよう。

 たぶん、頭のなかに声が聞こえるって経験をしたことがある人は沢山いると思う。ぼくは頭のなかに常に音楽が流れていて、それをなかなか止めることができないんだけど、そういう経験あるでしょ。何かひとつの音やフレーズが頭にこびりついて離れないこと。こういうのをイヤーワームと言うらしくて、脳の聴覚を司る部分が勝手にうごいているらしい。 

 脳には認識するクセとか型みたいなのがあるって何かで読んだんだけど、ぼくはその中の「聴覚言語タイプ」みたいだ。「聴覚言語タイプ」はその名のとおり、聴覚と言語でものごとを認識するタイプ。だから言葉を書きつつ、読みつつ、音楽をやってる。

  だからかはわからないけど、ぼくの頭のなかではすべての文章が音声になる。黙ってじーっと文章を読んでるときも、実は頭のなかで超高速で音読をしている。

 その、文章を再生する声。ここにぼくはいろんな人の声を当てはめて読んでる。

 アイドルの声やラジオのパーソナリティの声、友達の声やむかしの自分の声や、おばあちゃんの声、もう会えないひとや通り過ぎて疎遠になってしまった人の声、イタリア人の声、インド人の声、これらはもうこの世に存在しない声、つまり死者たちの声です。読書によってぼくの頭のなかにインプットされたことばは、常にこうした死者たちの声と一緒に保存されていて、声を再生すると、むかし読んだ文章の断片が自分の文章として再構成されていくのです。

 ここまではなんとなくわかるかな、さらに、いちばん大事なのは、声それぞれに固有のボキャブラリーや文体や表現があるということ。インプットした物のエッセンスを組み合わせて書いてるというだけのことです。それをぼくは音声×ボキャブラリー×文体でやってる。

 退屈だった授業中に教室で回ってた手紙にぼくは何にも共感できなかったけど、それを楽しそうに受け取ってる人たちの没個性と、それから晴れたグラウンド美しい感じだけ覚えていて、先生はわたしに勉強を教えてくれるだけの存在だった、なんて言ってしまう自分の没個性だってまたグロテスクなくらい田舎の高校にピッタリだよ。

 とりあえずコンビニ弁当食べてパスタ茹でてわたし生活をくりかえしてるだけ、くりかえしてるだけの毎日で生きていていいのかな、どこにも居場所がない、なんてひとことで言ってしまえばおしまいで、どこにもいく気がないだけだっていわれるけどそんな暴力的な二元論じゃない世界を求めてる。愛してる音楽や愛してる本だけあればいい、そんなの嘘だ。愛の対象だって変わっていくわけで、わたしはすこしずつ変わっていくのにあの日変わらないでって言われてああ、退屈な授業中に手紙を回してたもんね、とか意地悪なこと考えちゃうくらいにみにくいアヒルの子であるところのぼくと、なるなら白鳥じゃなくてお姫様になりたい青色の深夜の空を見てぴーんと張り詰めた空気を感じる夜が好きじゃない人なんていないんじゃないかと思う。

 

 ぼくがイタコであることと、脳にどういう機能があるらしいとかいうあやふやな知識との間に関係があるわけではないんだろうけど、脳ってことばを持ち出すと説明がついたような気がするから、言ってしまいました。現代人の脳への信頼はすさまじいので、脳と言えばひとを簡単に騙せる気がします。ひとを騙す予定があるひとや、使いやすい根拠を探してるひとは是非、脳を使ってみて。そうじゃないひとは、気をつけて騙されないようにしよう。ヤクザな因果関係は世界にたくさん転がってるから。わたしは過去に不幸だったから今不幸なんだとか、ほんとうはどこまで正しいかわかんないんだけど、正しくないことを言うのが物語で、それが固有の声だから、たくさん正しくないことをいってキラキラした世界にしていこうと思うよ。正しくなくたっていいよ。言葉にすれば、そのひとつひとつが死者の声になって、また新しいものが世界に生まれるから。

わたしのかわいい地獄や苦しみをメンヘラなんて言葉に回収しないでほしい

 大丈夫だよそんなに心配しなくて。この世界はもっときっと優しいよ。

 電車のなかで赤ちゃんが泣いてハラハラする親を存在させてるせかいの事実が遠回りでぼくを大きく傷つけてるんだけどそれは、

 結局のところ自分の苦しみを人に投影しているだけで、誰かを救おうなんて思ってないし役に立とうなんて思わないよ。誰かの役に立つことや誰かの悩みを解決することが商売になるんだって情報商材に書いてたねありがとう。ぼくはその情報で救われなかったけど、きっと世界のどこかで誰かがなにかによって救われてる。円環のようになってる優しさのなかから少しはずれたぼくをグローバル化する社会なんて大きなものに勝手に巻き込まないで欲しいし、ぼくはぼくのために愛するひとに幸せでいてほしいよ。

 こころのなかに住んでる「社会人くん」がぼくに一般論を投げつけてくるそのたびにぼくは少しずつ死んでいるんだけど、それは一般社会とも、そこに住んでる社会人とも関係のない人なんだ。

 「就職しないで生きていけるの?」とか「メンヘラだって思われたら恥ずかしいよ」とか。ぼくは結局じぶんのことを知ってほしいわかってもらいたいだけなんだその純粋でピュアで正直で素晴らしいものなんだよって無理矢理肯定してみるけど、本当はグロいこころをグロいままに愛していたい。

 なにかのことを好きすぎて殺したり死んだりしちゃうのはこころのなかではよくある事で、現実でもけっこうある事です。

 ぼくらはみんなちょっと病気でちょっとかわいいんだよ。そのことにいいも悪いもないけど、そのキュートさを、個別の地獄や苦しみをメンヘラってことばで片付けたくない。

 「病み系業界」とか「どこの層を狙ってるの?」とかそんな声も聞こえてきて、ぼくの頭はいま戦争してる。使い古された病みとか、アーバンギャルド大森靖子の二番煎じ三番煎じになるだけだなんて頭のなかでぼくがぼくに言ってるんだ。

 経済に全てを落とし込んでポジション取りしかしないなんて狂ってる。ぼくは結局自分のことを知って欲しいわかって欲しい、同じ苦しみや似た苦しみや面白いと思ってくれる人や愛してくれる人に愛を届けたい一人じゃないんだよって言いたい一人じゃないんだって思いたい。

 小学生のとき、「書く文章がすこしネガティブすぎるし淡々としすぎ」って言われてそれから文章書けなくなった時期があったんだけど、あの先生のことを恨んでいるような恨んでいないような気がしていて、正しくいえば恨んじゃいけないような気がしてる。

 今でも思い出す。今でも、不快だったらどうしようとか思う。それでも俺は俺の文章が世界でいちばん好きだからこれでいい。なんて言われたって辞められないからいいんです。こうして書いた文章がそのまま詩になるように生きていければそれでいいんです。なんて言うとすこしロマンチックすぎて恥ずかしくなるね。甘くてかわいい病気をお持ちの方がいたらぜひご一報ください。アンチも歓迎しております。

大丈夫、きっとうまくいくよの日記

 「それはあなたが不安障害だからです。」

 と言われた。わたしは「どうしてこんなに苦しいんでしょう?」と聞いたんだった。

 そうか、わたしは不安障害だから苦しいのか。と、納得する。わたしは答えを求めていた。問い続けることに疲れていたから。

 精神科の先生は若くて健康的で前髪がセンターパートで短髪の、スポーツをやってそうな男の人だったから、わたしはこの人はエリートだと思った。

 先生はパソコンをかちゃかちゃ叩きながら、「自分のやりたいこととやりたくないことを三つずつ書いてきてください。一週間後ですよ。」と言う。不安障害だから苦しい。その不安障害は、やりたいこととかやりたくないことを書き出すと治る。

 わたしは「はぁ...」と返事にならない返事をして、それからハッと気づいて先生の顔を見た。きちんと返事しないなんて、怒られるかもしれない。先生は健康的な顔をパソコンに向けながら、「よろしくお願いします」と、念押しだか挨拶だかわからないような言葉を発する。顔は怒ってなさそうだったから、少し安心して、わたしは椅子から立った。

 家へ帰るまでの道に、コンビニはいくつもある。その中のひとつに入って、バナナと野菜ジュースを買った。わたしは食欲のある人間だったから。それに、食べないと薬が飲めない。向精神薬というのをもらうのは初めてだった。薬局で薬をもらうとき、薬剤師さんが「不安を鎮めるお薬です。飲んでいるとお腹が痛くなるときがあるので、そう言った症状が出たらご連絡ください」と言ってくれた。心が弱いと思われていないだろうか、と思う。こんなことを思う時点で心が弱いのだ。笑顔でありがとうと言って薬局を出た。少し前の話だ。

 きっと不安というのは一般論と物語の暴走なんだろう。「精神科に行く人間の心は弱い」という自分のなかの一般論がある。「心が弱い人間は蔑まれる、あるいは弱い立場におかれる」という一般論もある。だから、「人に精神科に行ったと知られると弱い立場に置かれる」という意識が形成される。だから、心が弱いと思われていないか不安になるのだ。理由はわかった。

 私の心が弱いというのは状態だ。一つの状態。それを知って相手が自分を蔑むことと、直接関係があるわけじゃない。でも、「心が弱い。だから人から蔑まれる」と言うとなんだか説明が済んだような気がする。だからという接続詞が、関係のない二つの事柄を結びつけてるに過ぎないのに時系列順に、因果関係があるかのように話すと、大体のことが説明された気になる。これが物語の効果なんだろう。気づいたってけっきょくは苦しいままだけどね。

 家に帰るには公園を通って行くのが一番近い。木陰のベンチでお兄さんが休んでいた。お兄さんは緑色の、運送会社の制服を着ている。コーヒーを右手に持って、左手でスマートフォンをポケットにしまった。

 むかし「あなたはなぜ上手くいかないか理由がわかれば大丈夫だよ。だってその上手くいかない理由を潰していけばいいんだから」と言われたのを思い出した。理由が分かったってどうしようもないことなんて、いくらでもあるのになあ。「不安障害だから苦しい」なら、「不安障害を治せばいい」という解決策が生まれる。でも、簡単じゃない。「生きているから苦しい」なら、「生きるのをやめる」が解決になるんだろうか。そんなことはない。理由なんて無数にあるし、人間が勝手に因果関係に落とし込めば、理由っぽくなるんだから、答えや理由を信じすぎてもしょうがない。

 じゃあ、何を頼りに生きていけばいいんだろう?

 この問いが、わたしにとって不安の根本なのかもしれない。気づいたらお兄さんはもういなかった。わたしは、労働もしないでこうして考えているうちに世界を見失って、目の前で起こることに集中できないでいる。そんなことに理由があるのか、理由がわかれば、改善できるのか。そうはどうしたって思えなかった。

 でも大丈夫、きっとうまくいくよ。

 きっとうまくいく。どこにもよりかかれない。答えや理由がない不条理がこの世界なら、希望も不条理だ、きっと。

 理由なく苦しいならたぶん、喜びにも理由なんかない。誰も答えをくれないし、自分でも理由を用意することはできない。だから大丈夫、きっとうまくいくよ。不条理に傷ついてしまうのがわたしなら、わたしは不条理にわたしを信じられる。世界が意味もなく苦しいなら、世界は意味もなく幸せに満ちている。

ゲージュツの稼ぎ方教えます

 音楽はなかなか仕事にならない。なぜかと言うと祭りだから。文化祭のバンドステージとかあったでしょ。あれ、絶対にプロと比べて全然下手なのにめっちゃ盛り上がる。お祭りだからです。というか、音楽は本来お祭りと共にあったのです。共同体の内部で行われる法とか言葉による支配の外にあり、別の支配の体系を作り出せるものだから、音楽をやる人間は昔から今まで首尾一貫して差別されるわけです。

 そして、音楽を秘密にして、秘術にして、つまりお金を払ってホールに人を閉じ込めて音楽を演奏する、音楽を聴く、そういうスタイルが一般化していったわけですが、それはなんかキツいわけです。ホールの椅子とか狭いしね。体重100キロの人とか絶対行きたくないと思う狭いから。体重100キロの大男がポップコーン片手に楽しめる。しかもそれが音楽とか空間の広がりに貢献するような音楽なら楽しい。具体的に言うと、音楽は基本的に外で、みんながいるところで無料でやるのがいいんです。もちろんおひねりはいただきます。それはいいんです。それは見えやすい流れだから。流れが大事です。

 今の社会は流れを無理やりせきとめることによってお金を発生させています。情報の流れをせきとめて、ここから先は有料会員登録してください。みたいなやり方。あの無料ですのバナーは関所なわけです。昔、箱根と江戸の間に関所があり、農民は江戸町内に入れなかったらしいです。つまり、江戸時代のやり方です。300年前のやり方を今ネット上でやっているわけで、それじゃあもう古いし、楽しくない。

 せきとめるのは楽しくないです。息を止めたら死ぬし、血液だってサラサラな方がいい。流れを重視すると言うことは、決済をしないということです。お金があったってクレジットカードがなければネットでは買えないわけですから、資本主義的に考えても年齢とか信用とかでクレジットカードを作れない見込み客を捨ててしまってるわけです。バーチャルな空間はスピードが速いことが売りなのに、決済という一つの要素を追加しただけでネットの売りが半分から八割くらい損なわれてしまう。だから、情報は流す。できるだけ流す。

 じゃあいったい何でお金を稼げばいいのかと言えば、モノです。手元に残るもの、もしくは体験。どちらも、身体がないと意味がないものです。音楽なら、音源は今ストリーミングサービスで、めちゃくちゃ安いです。月1000円払えば何億の単位で曲が聞けます。もはや音源のデータの価値はそのくらいのものです。そうして結局印税も3分の1くらいになったり色々するらしいですが、握手会のチケットは飛ぶように売れます。これはコアなファンやオタク層が買うんじゃなくて、ちょっと好きとかそういうくらいの人でも買います。

 また、絵画は売れてます。クオリティの高さや雰囲気はネット上の画像でもわかるのですが、実際のモノとしての絵画の質感は原画にしかありません。複製芸術と一回性の芸術の違いはそこにあるわけです。その瞬間の手触りとか、自分と作品の関係性が変わって行く感じとかそういう体験は実際のモノがないとわかりません。だから売れます。

 つまり、複製できるものは容赦なく無料化の流れができていて、凄まじく低価格化しています。一方で複製できないモノには凄まじい額のお金が払われているわけです。

 もうお分かりだと思うのですが、さまざまなコンテンツがデータとモノ/体験に分離しているんです。そしてデータは、つまりほとんど同じものが複製できる媒体はどんどんお金が払われなくなり、モノや体験はどんどんお金が払われるようになる。そういう状態が起こってるのです。最近ではお金を払ったという体験のためにお金を払う人もいます。意味わかんないですよね。昔はパトロンと呼ばれた人たちですが、今はネットを使って一般の人がパトロンになってます。しかも全く怪しいこともアダルトなこともなく!

 テキストデータと、モノとしての本。音楽データと、祭りとしてのライブ。画像データと、一回性としての原画。この違いを把握しておけば、稼げます。ぼくらは楽しいことだけ求めてます。祭りやモノは楽しい。なぜならぼくらは生きてるから。身体サイコー!

幼児の記憶を書く

 書くことがないなどと思っていたのだけど、書けばいいんだ。幼い頃のことを。自分の幼児だった時を想わない詩人はいないと、『人間の建設』という本の中に書いてあった。ぼくは詩人じゃないから、幼児のことは特に思い出さなかったけど、古い記憶はある。

 いちばん古い記憶。おそらく二歳くらいの頃、テレビがついていて、両親が何かを言い合ってる。部屋のなかは明るい電気に照らされて、おそらく当時のことだから白い蛍光灯だろうと思う。白い蛍光灯は部屋を真っ白に染めるから、外が朝か夜かはわからない。母親が泣く、父親が大きな声を出す。お皿が割れる。ぼくは笑顔だった。笑うしかないから。

 幼児の記憶というのは、ぼくにはこれしかない。あとは、保育園のすべり台をすべり降りる女児の下に運悪く通りがかったがためにスカートを覗いたと難癖つけられて、親にまで報告されてしまったこと。小児喘息の診察に行った病院の脇にあった公園でブランコを漕いでいたら後ろ向きに転倒して頭を打って、その日二回目の診察に行ったこととか、細かいエピソードが二、三あるだけだ。

 こうして見るとぼくの幼い頃は良いことに恵まれなかったようにも見えるけれど、ぼく自身は多くの幼児がそうであるように無条件に幸せだった。自他の区別もなく、時間の区切りもはっきりしないからこそ味わえる永遠のような幸せ。食料は尽きないし、アニメやおもちゃの娯楽に取り囲まれて、生活は穏やかだった。2000年代前半の、のんびりとした豊かさのなかで育っている幸福な子供だった。

 書くことがないと言って始めた文章だったけど、テーマみたいなものはある。これだったら「幼児の頃の自分」というテーマだ。

 でも、文章はテーマに沿って書くものじゃない。こういうことを言うと、テーマに沿って作文をすることを強いられてきたぼくらは少し反発を覚えるのだけど、それ程ぼくらは、というかぼくはテーマ志向みたいだ。ただ、テーマ性みたいなこととは違うやり方を探すことが大事なんだとも思う。

 極端なことを言えばテーマを設定して書けるならテーマだけ読んでれば良い。「狂おしいほど好きなことをやる才能が自分にないことの悲しさ」について書きたいなら、「狂おしいほど好きなことがあるんだけど才能がないからできない」とだけ書けば良い。簡単に言葉に出来てしまうことならわざわざ書く必要なんてないんじゃないだろうか。

 文章をわざわざ書くとはきっと言葉にならないことを言葉にしていく矛盾めいた作業なんだろう。そこには厳密さが求められる。りんごをりんごと書いてしまえば、りんごの三文字でしかないけど、色や形や匂いやその場にいるときの佇まいやりんごとの関わり方やそれら全て、いま目の前にある一つのりんごについて厳密に伝えようと思ったら、三文字よりも字数が必要だ。

 言葉はひどく曖昧なもので、曖昧だから人に通じるのだけど、その分だけ意味が正確に伝わらない。

 ぼくが自分の気持ちを「やるせない」と表現する。するとぼくの、本当は五文字に収まらないはずの感情がほかの「やるせない」と同一のものとして流通する。ぼくの複雑な感情の総体は誰かの「やるせない」フォルダのなかに入ってさまざまなモノや出来事や感情と関連づけられる。それらは似ているけど違う。しかし分類するほどでもないくらいの違いだ。結果的にそれらはすべて「やるせない」という一つの意味に回収されて、個別のディティールがはがれ落ちる。

 言葉は持つこうした作用はとっても便利だ。これがないと文章は読めないし書けない。表現だって成立しない。だから、この基本的な作用に乗っかった上で、ぼくはテーマに回収されないような、言葉で書けないような言葉を書きたいと思ってるんだろう。

 知性とは、複雑なものを複雑なままに捉える力だと誰かが定義していた。複雑なものを複雑なままに、という言葉にぼくはひどく共感した。ぼくが追い求めているのは知性なんだろうか。複雑なものを複雑なままに、素直に、誠実に、正直に表現したい。それができたらどんなに素晴らしいだろうと、素直に感じてる。

余剰思考のぷろろーぐ

 きっと言葉にしなかったからだろう。

 ぼくの疲れも、存在のくるしさみたいなのも。

 たとえば「いちごドア未満」という言葉をつくって、世界に放出したら。

 言葉は形を求めるかもしれない。

 宇宙の果てから流れついた、さみしい物体エックスみたいに。

 それは円筒形で、緑色で、金属質で、ピカピカ光る。ピクニックに持っていく。ベッドタイムを見守る。晩酌の相手をして、ランドセルのなかから、アヤカが嬉しそうに取り出す。

 ぼくは言葉にしなかったのだろう。

 言葉にしなかったいくつもの物体エックスが、身体を求めて世界をさまよってるから、きっと、くたくたになった、死にたくなった。

 

 レコードにジャケ買いという文化があって、本にもきっとある。装丁買いだろうか。想定外の言葉だった。あるいは、背表紙買い、タイトル買い。

 この間、『生きるよすがとしての神話』をタイトル買いした。

 


 無秩序に知識を仕入れると、ふとした瞬間にその知識が自分の意識に浮かんできたりする。

 だから、その瞬間聞いていて意味がないと思った知識でも、どうなるかは死ぬまでわからない。死ぬまでわからない(永遠に分からないかもしれない)というのがもどかしい。

 死ぬまでわからないのが怖い。だから、役に立たなそうなものや、結果がわかりにくいものを役に立たないと断じてしまう意見が多いんだろう。余剰思考や余剰エネルギーや余剰物資がない。過剰思考はたのしい。

 


 だからきっと、ぼくらは着ぐるみみたいに。いくつもの比喩を繰り返し洗って着てわたしみたいに、あなたらしくなる。

 こういうのは役に立つ側の言うことだなあと、書いてからきづいた。

 役に立つ情報は無数に、無限に生まれるので、役に立つの限界を求めるのはむなしい。ここは役に立たないメディア。

 世界の余剰物資を担い、進行をすこし停滞させる。世界のスピードから少しだけ逸れる。そのことで、誰かにとってこの世が居心地の良い世界になればいいなと思ってるかもしれないし、何も考えてないかもしれない。

 ぼくにとって居心地のいい場所が、きっと誰かにとって居心地のいい場所なんです。これは傲慢ではなく、自惚れでもなく、ひとことで言えば疲れたと言うために1000文字を費やす、大いなるムダの実践なのです。