ゲージュツ的しつけ

フェレットのしつけが書いたゲージツ的なしつけ術の数々。メール→fererere25@gmail.com

失われた未来と死んでいった文字について

 まず一行目に短文を置く。

 そして二行目で短文についての説明を始めたり、発展する未来のように、突然謎のセンテンスを入れたりする。

 文章の中における文字数はだんだんと増えていき、情報は厚みを増しながら最初の短文を補足していく。

 説明不足を取り返すかのように文章は細かさを増していき、時代背景や基礎知識が読者に与えられ、多少飛躍して文章着地していく。人間はすこしずつ変化していく文体に翻弄されているうちに先へ先へと文章を読んでしまう。それに抗うことはできない。

 見えない文章の隙間をうめていく。

 私たちに文章の隙間は見えない。私たちは文字を見ている。ディスプレイの空白を埋めていくように文字は次から次へと私たちの頭のなかに入っていき、浮かんでは消え、そしていつのまにかページは先へと進んでしまう。そこに私たちの意識が介在する余地はない。私たちは何も考えないでいい。あらゆる文章の可能性は空白のなかにあり、今読んでいる文字の先にある。文脈や行間の間には無限が広がっている。無限は目で追われるたびに文字になって固着されて、そして私たちの指は次のスクロールを始める。そうやって私たちは未来を失う。

 死んでいった未来の亡霊が都市を覆う。

 死んでいった未来の亡霊、それは文字の形をしている。文字とは私たちが見ている広告やネオン、案内、字幕、URL。それらすべてが資本の拡大のために用意され、資本という帰る場所を持つ。固定された未来が私たちの生活を覆い尽くしてしまった。

 渋谷のスクランブル交差点。夜。すべてのディスプレイが紫色の海を映し出す。音楽ははじまったーー。一定のリズムを刻むドラム、くぐもった音質。映像のなかに光る「pray for Nujabes」の文字。

 https://twitter.com/__casa/status/1232637787431555072?s=21

 Hip-HopアーティストのNujabesが亡くなったとき、ぼくは11歳で、音楽のことなんてまだ何も知らなかった。

 音楽のことなんてまだ何も。冬だった。寒い冬だった。半分しか丈のないズボンを履いて走り回る小学生たち。彼らは未来を知らない。彼らにとって資本が関わるとすれば遊戯王のカードかポテトチップスの袋くらいだった。

 その十年後、渋谷の街で、少年は涙を流すことになる。少年は、足を止めて『Lamp』を聴くことになる。少年は。

 ディスプレイに文字が躍る。

 死んだ文字が。

ウェルベックのセックスと闘争と愛についてーーミシェル・ウェルベック『素粒子』を読んで

  ミシェル・ウェルベックの『素粒子』を読み終えた。

 良かったのだろうか。ウェルベックの小説を読むたびにそう自分へ問いかける。この小説は良かったのだろうか。この小説を読んで良かったのだろうか。この小説は自分にとって良い影響を与えたのだろうか。

 この世への諦めと皮肉に満ちた内容、きらめくような情景描写、淡々と進む生活と救い、そして破滅。読むたびに悲しくなる。なんで俺はわざわざこんなに悲しいものを読んでいるんだろうという気持ちになる。それでも読み進めてしまう。

 それは魅力があるからなのか、それとも「良い」からなのだろうか。

 彼の小説が魅力的かどうかはわからない。けれどぼくは彼の小説が持つ「真実」というか「実感」のようなものに強く惹かれてしまう。生きるぼくにとってのひりひりした実感。悲しくなりたくはない。けれどひりひりした実感に共感したい。

 ウェルベックの小説にはある種の真実が書かれている。競争はぼくらの生活の細かな隙間にも入り込んでいること。何をしても勝者と敗者が決まってしまうこと。勝者になるのは簡単じゃないこと。勝者にとっても人生は楽じゃないってこと。ウェルベックの小説は敗者の物語じゃない。下克上の物語でもない。そこに出てくる人物はそこそこ豊かで、そこそこ満たされていて、どうしようもなく何かを諦めている。

 『素粒子』を読んでぼくは愛について考えた。ぼくは『素粒子』を読んで、愛について考えるような人になってしまった。いままでは愛について考える人じゃなかった。愛について考える人のことをちょっと遠ざけていたところもある。

 愛なんてない!恋なんて嘘だ!だって俺の気持ちはラブソングじゃ間に合わないんだ!そう、志磨遼平である。

 ぼくは思春期を毛皮のマリーズと共に過ごしてしまったから「愛を超えるものじゃないと愛じゃないのでは...?」みたいな逆説の沼にずぶずぶ入り込んでいるのだ。ぼくにとって愛は語り得ないもののはずだった。なのにどうしてか愛について考えている。もっと言うと愛と体について。

 ウェルベックの小説のなかで大きく挙げられているトピックが性愛だ。主人公はセックスを求め、振られたりうまくいったりする。セックスをして幸せになる。

 セックスは幸せをもたらす。つかの間の幸せを。恋人たちはつかの間の幸せを何度も繰り返し、めくるめく性愛の渦に溺れていく。それは幸福だ。幸福な毎日だ。たとえ加齢によって男性機能が衰えていたって。自分を受け入れる体があり、自分が受け入れていいと思える体がある。そこには呼吸があり鼓動があり体温があり生命がある。

 『素粒子』に出てくる人物はみんなとても丁寧なセックスをする。それはたまにTwitterで文句を言われてる「胸と性器をさわって濡らせて勃たせて入れて出しておしまい」みたいなセックスではない。

 目を合わせて肌の温度や滑らかさを感じて相手の反応を感じて相手の体温や鼓動を感じて呼吸まで一体化するようなセックスだ。AV監督の代々木忠が理想とするような愛のセックス。相手との一体化を求めるフュージョンのセックス。ウェルベックの小説に出てくる人物はどんな状況でも目の前の相手を見続ける。ヒッピーの集まるキャンプやデートクラブや乱交パーティーの中でも目の前の恋人との一体化を求めている。

 バタイユは『エロティシズム』のなかで人間同士の非連続性を嘆いた。僕らは何を考えてもだれ一人として他の人の意識を変えることはできない。精神的に人間は断絶されている。孤立している。それどころか肉体的にも孤立している。隣で手をつないだ人間が傷ついたって自分が傷つくわけじゃない。いまセックスしている相手が死んだって自分が死ぬことはない。個体の間には決して交わることのない深淵が広がっており、人間は絶対的に孤独である。うろ覚えで超訳するとこんなことを言っている。

 『素粒子』のなかでいちばん印象に残ったシーンは、つまりいちばん愛を感じたシーンは、主人公のブリュノがセックスをした翌日にテントのなかで恋人と朝を迎えるシーンだ。朝チュンのシーン。

 二人はベッドのなかでなぜか自分の抱える問題や過去のトラウマについて話し合う。相手に傷ついた姿を晒し相手の傷ついた姿を見ることで決して交わらない深淵を少しずつ埋めようとしているみたいに。それは存在の非連続性を越えようという試みにも見えた。相手の傷を自分のものにして自分の傷を相手のものにすることで自分と相手の境界を無くしていく。それは相手の快感を自分の快感にしてしまう、セックスのもつ貪欲さの裏返しだ。

 セックスも、朝に行われる精神的な自傷行為も、人間の絶対的な孤独を解消するための試みだ。孤独の解消、それは決して叶うことのない望みだけど、それを分かりつつ、叶わないことに傷つきつつもお互いを受け入れ合う。ぼくにとってウェルベック朝チュンはそんな健気なシーンに見えた。

 その健気さを見てぼくは愛という言葉を思い出したのだ。相手を愛することは結局、自分の欲望を相手にぶつけるだけの身勝手な行為かもしれない。うまくいけば相手を理解した気になることだってできる。けれどそんなのは幻想だ。自分の世界のなかに相手を落としこんだに過ぎないからだ。

 しかし、それでもぼくらは相手を理解しようとする。自分と相手の間にある断絶をすこしでもを埋めようとする。それは愛の試みじゃないのかと思う。愛とは、自分の欲望を勝手なものと知りながらも、健気に孤独を埋めようとする試みのことなんじゃないか。相手への愛が自分への愛になる、自分への愛が相手への愛になる。絶対に知り得ない相手のすべてと絶対に語り得ない自分のすべてをお互いに抱えたまま勝手に理解し合う孤独な生物が二人。

 そんなロマンチックな世界をぼくは『素粒子』のなかに見た。愛らしきものの手触りが持つ暖かさや柔らかさは、ウェルベックの描く極限まで闘争領域が拡大した社会の灼けつくような実感や焦りと交互に現れながらひとつの巨大なうねりとなって物語を進めていく。ぼくは闘争の中に愛を見た。愛の中に闘争を見た。交わりそうで交わらない愛と闘争はこのどうしようもない世界を進めていく。


「男女はまぐわりおんなじ動作を数万回、繰り返し続ける」ーー向井秀徳『Water Front』より。

https://youtu.be/TELGHn9WaOg

わかってない本好きのいい加減なトリップ

「まったくわからない」が、俺が本を読んでいるときの基本的な態度である。俺は頭が悪い。何が書いてあるかがわからない。文字は読める。何かが書いてあるのはわかる。

 たとえば、「二つの美学が存在する。鏡の受動的な美学と、プリズムの能動的な美学。前者に導かれて芸術は、環境もしくは個人の精神史の客観的な模写となる。後者に導かれて芸術は、みずからを救い、世界をその道具とし、空間と時間という牢獄から遠く隔たったところで、独自のヴィジョンを創出する。これが<ウルトラ>の美学である。その意思は創造にある。宇宙に思いもよらぬ切り子面を刻むことにある。」(引用元:J・L・ボルヘス著 鼓 直訳『伝奇集』岩波文庫)

 と書かれている。意味がわからない。意味がわからないがなにかしら意味のあるようなことが書かれているようでもある。

 無理に解釈しようとすればできるかもしれない。つまりは美学について書かれていて、その美学の分類とそれぞれの効用や目指すところが書かれているのだろう。

 こんなふうにして一つの言葉を少しずつ見ていけば意味はわかるかもしれないけど言葉で構成された理解は実感を伴わなければ感情的に分かった、という感じもしないのだ。ただ言葉を言葉によって分解しただけというような感じがする。

 こうして書いてみると俺はまったく感情と感覚の人間であることがわかる。俺がわからないと思うものたちはたぶん理屈で書かれているのだろう。論理的に正しいから正しい論証である、ということだろう。それはまったく正しい。絶対に正しい。正しいけれどわからない。演繹的論証というやつだ。絶対に正しい論証。正しいのはわかるけどそれ以上はわからない。

 俺に理解できるのは感情だけだ。それも自分の感情だけだ。自分の感情に近いところの文字なら理解できるのだろうか、いや、たぶん理解できないのだろう。そもそも理解なんて存在するのだろうか。

 たとえばある小説の書評や解説を読んだとき、作者はこういった思想でこういった経歴でこういったことを書いている。ということはこういうことがいいたいのだ、と主張されていることがあるが、俺にはあまり納得できない。それは普段の言葉の使い方から抜け出てないのではないだろうか。国語のテストでやった、「作者の気持ちを考えよう」ゲームとあまり違いがないような気がしてしまう。

 俺は小説を理想化しているところがあるから、小説を書くということは普段の生活や世界で流通する言葉に何かしらの不満を感じているはずだ、と思っている。つまり普段の思考や言葉の使い方を超えたところに小説の言葉はあるのだ。それは現状の社会に対してもうひとつの社会を構築することだったり、現状の感覚にたいしてもうひとつの感覚を構築することだったり、現状の人生に対してもうひとつの人生を...といったように、小説は常にいまの何かを飛び越えるために書かれると思っている。

 だから作者の気持ちを考えてもしょうがないし、作者の個人史から解釈を読み解いてみてもしょうがないと思っている。解釈や気持ちなんていうのは「いまの何か」に根差したものだからだ。せっかくそこを飛び越えているものを、無理やり「いまの何か」に落とし込んでしまうような気がしてしまうのだ。無理矢理いうと、小説を読むことは小説を読んでいるその瞬間にしか達成されない。

 そんなふうに思いながらも書評を読んで面白いと思ったり、哲学書の解説を読んでなるほどと思っていたりするのだから俺という人間はとにかくいい加減なのだ。

 そして面白いと思いながらも、書評や解説書を読むと唖然とする。世の中には俺がまったくわからんと思いながら読んでいるものを理解して解釈して一定の文字にすることができるひとたちがいるのだ。これは歴然とした知力の差だ。

 そうしてまた、自分にはなんて理解力がないのだろう、と思いながら小説を読む。まったくわからん。しかしわからんなりに実感として変な気持ちになったり面白いと思ったりする。感覚や感情が動き、形而上的な世界に連れていかれたりする。しかしそれはまったくわからんまま、わからんなりの実感である。知力に裏付けられていないインチキのトリップだ。いいかげんなトリップだ。

 ジャンキーが化学式などわからないまま幸せな世界にトリップしているようなもので、小説世界で起きていることも筋もわからないままに言葉だけが駆動してイメージを紡いでいる。それは作家の意図を超えて、俺の頭で勝手に無分別に起こることだ。あまり品の良いことではないが、いいかげんでも気持ちよければ良いのだ、とも思う。そうすると、理解できる小説ではなく感覚に合う小説だけを読むことになる。割り切ってしまえばそれで幸福である。でも、わからんものをわかりたい気持ちもある。でもわからん。やっぱり、まったくわからない、でも、幸せになるときもある。

テレビみて一緒に笑いたい家族計画でした

 テレビでは人を殺したニュースが流れていて「よく簡単に人を殺せるよね」なんて言った父親が次の瞬間には岩盤浴の広告を見て少しだけ笑いを噴き出したりしていて、人が死んだことを嘆いた三秒後に笑う感覚が一般的なんだろーか、と思い、じゃあいつもぼくは繊細すぎるとか、何で言われんだろうなと悩んでみても、お腹が空くのでとりあえず茹でてるパスタのことを考えることにする。

 パスタは熱にかけられた鍋のなかで無限の円運動を繰り返し繰り返して、水の対流の中を回り続けている、これはまるで箱庭みたいだ、シミュレーションゲームみたいだ、と思いながら鍋のそこから湧き上がってくるグツグツとした泡。あわあわあわ、これらが上がってきては弾ける弾けるのを見ている。あと七分。テレビからマーチングバンドの音楽と、それに合わせて踊る男たちのCM。車のCM。

 退屈な生活、そんなフレーズを考えながら、七分間待つだけ、人が殺された、人を殺したニュースは毎日のように流れてくるけど、その合間に流されるCMだって人を殺しそうなくらい冗長だって思う。僕は実家に居る独身のフリーター男性として、どうしようもないとされる人間の一人として生きている。そのぼくがこうして社会やマジョリティに反感を覚えながら生きている。ここに対立軸がある。ぼくと一本線を挟んだ向かい側にあるものたち。

 タイマーが鳴った。ずいぶんと早い七分間だ。フライパンのなかにトマト。あとアサリ。貝を歯で挟んでつぶした時に流れ出てくる汁はおいしい、その食感は少しだけゴリとしていて水分を含んだようでもあって、何かいけないものを歯で挟んでしまったような気がして好きだ、貝の食感は、なにか取り返しのつかないものに触れた感じがある。

 パスタソースとパスタを混ぜる。フライパンの上に、鍋から直接パスタを入れる。男の料理だと、言ってしまえば何故だか雑なところやがさつなところが許される気がする、こういうのを自動思考と言うのだろう。自動的に愛、とか、絆とかね、そういう言葉を再生しては何か一体感が生まれるこの脳内。脳内のようにパスタは整然としていて首尾良くソースに絡まってくれる。

 仕事はどうするんだ、とか、父は決して言わない。ずいぶんとお金がかかっているはずなのにね、ぼくには。パスタを皿に入れて、リビングへ向かう。テレビの音が近づく。テレビが一番よく見える席で、父親がグラスにレモンと焼酎と炭酸水でレモンサワーを作ってる。テレビでは殺人的なCMが流れていてぼくは、少し多く茹ですぎたパスタを食べる時間を考える。そのあいだ、テレビを見なきゃいけない。ぼくは自分にかけられた金を考えて罪悪感を感じながら、父親と同じ空間を生きていかなきゃいけない。父親は寛容な人間だ。テレビをみて一緒に笑いたかったなあ笑えるくらいの寛容さが欲しかったなあと思いながら、トマトを噛み潰してみて、酸味。美味しいのだろうか、これは酸味。

変な味

 路地裏では雑居ビルの室外機がいっせいに動いているために、ゴウゴウとすごい音がする。彼はタバコを咥えながら、室外機の吐き出すなま暖かい空気のなかにいた。ここの空気のほうがタバコの煙より健康に悪そうだ。

 彼は朝方が好きだった。深夜ではない。夜が終わり、ホストクラブやキャバクラも客を街に放り出したあと、誰もがぼんやりとした頭で、あるいは殴られたり、怒鳴られたりした後の傷ついた頭で太陽の光をむかえた。あの光には解毒作用があると、昔の上司が言っていた。

 彼は雑居ビルの間から太陽が昇る直前の、紫色の空を眺めていた。そうして空を眺めていると、さまざまなことが信じがたいことのように思えた。HIVコロナウイルスのような伝染病があること、アメリカや中国のような国があること。アルメニアのような国があること。自分にも子供時代があったこと......。

 だけど、すこし考えてみればそんなに信じがたいことでもなかった。彼はだいたいしあわせな子供時代を送っていた。あまり覚えていないが、あのころはみんなが貧しくなかった。それから大人になって、仕事をした。いくつか成功もした。いろんな女たちとも知り合った。それも今では過去のことだ。今では仕事にも女にも見放され、六十を過ぎた浮浪者になってしまった。ポケットを探るとピースの箱、それからライターと、五百四十七円。

 老人は女たちとの思い出にふけってみた。やさしくしてくれた女たちがいた。そのほかは頭のネジがすこし緩んでいて、なにかと言えば声をあらげ、爪を立ててきた。新聞紙も冷蔵庫もテレビも電子レンジもベッドも、すべてが退屈だった。

 いつの間にか、背後に人がきていた。彼は話し声を聞いた。若いビジネスマン風の男が、電話をしている。筋肉質な引き締まった身体で、突き刺すような響きのあるしっかりとした声だった。老人はまだ気づいていなかった。

 「...ええ、では」

 そう言って男は電話を切った。男は、こんな朝っぱらから働かなきゃいけないことに悩みも疑問も感じていないようだった。それでも室外機の群れがなま暖かい空気を吐き出すこの空間は嫌いだったから、何としてでも速い脱出をしようと試みた。走ったのだ。若い身体の突然の駆動、それは暴走する機関車のように有り余ったエネルギーを持つ者に特有の、無自覚な暴力だった。意思のない純粋な暴力だった。老人は突然現れたスーツの男の足音に驚いた。恐怖した。持っていたタバコを落としてしまうほどだった。

 「やい、この野郎、危ないじゃねえか」と老人は言った。

 スーツの男は、ピタリと足を止めて、振り向いた。若者の身体は大きい。雑居ビルの裏で、喧嘩を売るようなことを口走った。それは明らかに失敗だったが、老人はそう思っていなかった。

 「スミマセン」と若者は機械のようになめらかな声で話した。話しながら、老人のほうへ歩み寄ってきたので、老人は数歩後ずさった。

 「タバコ」

 「はい?」

 「タバコを落としたんだよ」

 「そうですか」と若者が言ったのを聞いて、老人は力のかぎり大きな声を出した。

 「お前がぶつかってきたからタバコを落としたんだよ!」

 若者は意味がわからなかった。若者はラグビーをやっていて、身体が大きいのが特徴だったが、今まで意識したことはなかった。身体が大きいのが当たり前の空間にいたからだ。仲間のなかでは敏捷性に優れたほうだった。だからぶつかるのは弱いほうだった。しかしこの老人は、枯れ木のように細くて、なんの力も感じない。若者は初めて自分の体の力を自覚した。この老木が、自分に何かを訴えている?

 「だからお前が弁償するんだよ」と、老人はかんだかい声を張り上げた。しかしその声は室外機のゴウゴウという音にかき消されるギリギリの音量だったから、若者は理解するのに時間を必要とした。

 「法律っていうのがあるだろ、暴行にはちゃんとしたサバキがあるんだよ」

 「...はい?」と若者は言った。意味がわからなかった。

 老人はかんだかい子供のような声の、背が極端に低い、大昔のSF映画に出てくる宇宙人みたいな格好だった。その宇宙人が、理不尽な要求をしてきている。その意味がわからなかった。変だし、嫌なジジイだ。傍にいて話してるだけでイライラしてくる。

 老人はニヤニヤ笑って「病院に入りたいから金くれよ、会社どこなんだよ」と、かんだかい声で聞いた。その時である、老人が若者の体の大きさに気づいたのは。

 「ぼくは...」と若者は言った。

 「ん?」老人は言った。

 「ぼくは、あなたとまったく違う人間なんです」若者は、そう言いながら老人に近づいた。

 「だから、なんだ」

 「あなたは、弱いし、力もない」若者は、老人と自分はまったく、何から何まで違う人間だと証明しないといけないような気持ちだった。とても残酷なことをしないと気がすまなかった。力なく柳のように痩せ細り、宇宙人のように喋るこの老人、ムカつく、嫌なやつ、彼を見ていると自分までとてつもなく惨めな存在に思えてくる。

 老人は後ずさった。純粋な暴力の前にはこの身体は無力だと知っていた。若者は近づいた。老人は今まさに目の前で起こる暴力に身構え、目をつぶった。間違えた、しかし明け方に死ぬのは悪くもない。

 大きな音がして、路地裏から若者が一人走って出てきた。その様は何かを成し遂げたようでもなく、とてもなめらかだった。朝方の街は駅に向かう人でたくさんだった。しばらくすると若者は雑踏のなかに混じっていった。もうどこから見ても、どれが彼だかわからなくなった。

 老人は足元に投げつけられたメビウスの青い箱から散らばったタバコを見ていた。老人は這いつくばって、その中からまだ綺麗な一本を拾った。空は夜明けも間近で、一番美しかった。タバコを口に咥えた。変な味はしない。変な味がしなければいい。老人は自分のなかにまだ生きる気持ちが残っていることを知った。病気にはなりたくない。変な味はしないから安心だ。老人はこれからも変な味には敏感でいようと思った。

秩序が崩壊していく!?ひまわりとたいようについて

 ひまわりが太陽に似ている。

 この世界には宇宙というのがあり、ぼくらがいる地球というのもそのなかに浮かんでる星と呼ばれる物質の集合体のひとつ、ということになっている。ぼくらが昔そうやって分類した。

 太陽もまた宇宙をただよう星のひとつらしい。そしてその太陽と、地球のなかのひとつの生命であるひまわりが似ている。

 太陽は宇宙をマクロに見なければ見えないし、ひまわりは地球をミクロに見なければ見えない。だから、ひまわりが太陽に似ているというのは、末端が全体に似ているということで、ひまわりと太陽は末端と全体の対立の極同士でシンメトリーに並んでる。

 人間は老いると幼くなる、というのを聞いたことがあって、実際にキレる若者も、キレる老人も両方みたことがある僕からするとそれはなんだか納得がいくような気もする。

 千葉雅也の実家で、幼い姪が眠くなっているのに、眠いことを認めたくなくて怒る、しかし目はトロンとしてきて体の動きは緩慢になり、ついに眠ってしまう、というようなことがあったってツイートを見た。

 それはアルツハイマーの祖母とシンメトリカルな心のあり方だ、と千葉雅也は言う。自分が自分でなくなることの恐怖、自我が確立していく段階が幼少期だとすれば、老年期に入ると人間の自我は散逸していくんじゃないか。だとしたら、それはなんだかとってもロマンティックだ。

 ぼくは理系を高校一年生でやめてしまってそれ以来理科を勉強していないから、その程度の理解で述べると、世界にはエントロピーの増大則というのがあるらしい。エントロピーとは乱雑さを量的に測る指標のことだ。つまるところこの世界のエントロピーは常に増大し続けるのだという。つまり、この世界はどんどん乱雑になる。秩序は崩壊し、物質は離散し、とびちる。

 ぼくは高校一年生までは理科を勉強していたから、原子や分子といった単位で物質がつながっていたり、電気的にプラスマイナスで結合したりすることはなんとなく知ってる。それはエントロピーの増大と逆の方向で、秩序を形成してる。

 死とはなにか、と考えたとき、物質のエントロピーが増大して、秩序が保てずカオスになった状態と言えるんじゃないだろうか。

 有機物は死ぬと分解されて土の肥やしになったり別の生物の一部になる。太陽などの恒星は進化の終わり迎えると、超新星と呼ばれる、大規模な爆発を起こす。ギリシャ神話だって最後には戦争が起こって世界がめちゃくちゃになってから人類の歴史が始まるし、シヴァ神は破壊をする神であるから創造も司ることになった。なにが言いたいかっていうと、生物とか星とか世界の終わりの時はすべてのものがめちゃくちゃに散逸していく、つまりエントロピーが増大していくということだ。

 人間は死ぬときに自我が散逸していくんじゃないか、というような話をした。そこから聞きかじりの熱力学の話をしたんだけど、つまりこれは全体と部分がつながっているということで、部分たる自我が全体(のような)宇宙に散逸していく姿のロマティックなイメージに心奪われて、つい書いてしまった。星も人間も世界も花も死ぬときに散逸していく、のかもしれない。これはまるでひまわりが太陽に似ているように、人間は世界に似ている、と言えるかもね!

人生オシャカサマ

 不器用なのは罪かもしれないけれど、不器用にしか生きられない人もいる。わたしみたいにね。怒っている女の子につい「怒ってるの...?」なんて伏し目がちに聞いて、それがきっかけで(それ以前にも彼女のなかには色々な感情があったのだろうが)ラインの返信がなくなっていくこと、よくある。

 「わたしこないだ、あの子と光一が一緒にいるのみちゃって」

 「べつに一緒にいるのはいいよ、だって友達だから、でも、何回も見るしずっと一緒にいるみたいだから」

 「ねえ、聞いてる?わたしすごいイライラしちゃったんだ」

 マンションに備え付けられたベランダからわたしは外を見ながら、携帯が振動するのをみてる。狭いベランダには洗濯物を吊す緑色の棒が一本あって、その向こう側に壁があって、その向こう側では雨が降っているから、夏なのに気温は低い。風が吹けば、水が体にぶつかって冷たい。冷たいし、服だって濡れて体にくっついてくる。

 両親は寝てる。同じ部屋で、別々の布団で。夜だから、わたしは起きてる。雨に濡れて肌にくっついてきた服がまるで鬱陶しい友人のようだ、なんて比喩を考えて薄ら寒いほど単調なわたし、そんな風に思ったら、すこしは文学的な内省になるんだろうか、なんて考えてる、子供っぽい。

 あの子は丸顔で、ハンドバックを右側にしかかけられなくて、感情的でかわいい。腰が細いから、抱きやすいのだと光一が言っていた。あの子は光一の彼女だったから、わたしは学校で光一からよくその話を聞いていて、腰が細いのはそれだけで良いことなんだと思った。それからは毎晩筋トレはしなかったけど、テレビに映る女のひとの腰を見るようになった。

 二十代は胸に目がいって、三十代は腰に目がいって、四十代になるとお尻が好きになるらしいとどこかで聞いたから、わたしは十代男性として少し大人びることができたのだろうか。わたし、という一人称がなんとなく示唆的で、わたしが男である、とここで明かしたとき、わたしの思考、という体で書かれてるこのモノローグに特別な意味が生じる。わたし、と、十代男性。このギャップを埋めるために、たとえばわたしはゲイで、光一に恋をしているんだとか、過去のトラウマか何かで男性性に嫌悪感を持っているんだ、とか。そんな意味が生まれるんじゃないかと思った。思ったとき、携帯が鳴って、ここで携帯が鳴るのだって、ご都合主義っぽいなぁとか思いながら「光一と一緒にいて大丈夫なのかな...」などと光る携帯を見て、わたしは肌に吸い付く服を脱いで、上半身裸でベランダに立った。腰は随分と成長したなぁ。いつの間にやら、体は男、大人、これがたとえば二万年も前だったらわたしは戦いに出るんだと思って、そんなこと考えるってことはやっぱり男性性のようなものに疑問というかわだかまりのようなものがあるのかもしれない。わたしには特にトラウマなんてない。

 


 「因果論でぼくらは考えるんだ」って、波野が言った。波野はいっつもおしゃべりで、背が高くて首が太い。目をぎょろつかせていつもみたいに難しいことを言ってる。

 「仏教ってあるだろ、」うん。「あれは、世界は全部苦しみだって考えるんだ」。それって、原罪みたいなこと?

「ううん、いや、なんか、似てるのかもしれないけどさ、とにかく、世界は全部苦しみで、苦しみには原因があるってオシャカサマが考えたんだよな」。オシャカサマ。

 オシャカになるって言い回しを思い出した。オシャカになるぞって、怖い言葉。

 波野は学校でわたしの隣の席に二回なって、二回目のときに仲良くなった。波野は宿題をやってくるけど、自分のルールに沿わない宿題、たとえばプリントを写すだけとか、そういう作業感があるのはやってこないから、わたしが即席で波野の宿題を手伝ってあげて、それで仲良くなった。

 波野は勉強ができるから、天パとクリクリの目をつけた頭をよく振る仕草をしながらわたしに色んな難しい話をしてくれた。文化とか宗教とか。文系だった。女っ気はないようで、わたしの携帯が震えると、それは大体あの子からのラインなんだけど、机が大きく振動して音を増幅して、なんとなくわたしは居心地が悪くなる。考えすぎだし、見下してる。窓から風が入ってくる。波野の天パがはためいて、「だから、原因があって結果があるって日本人は考えるんだよ。因果論。」うん。「若いお母さんとかそうだろ?何かあったら、『どうしてこんなことしたの!?』って怒る。」そうだね。

 


 波野とわたしは、その日学校をやすんだ。その日はなんてことない平日で、特別なことといえば、まず空が真っ青で綺麗に晴れ渡っていたこと、アゲハチョウかなんかが飛んでいたのを、ベランダから見ていて、夏が来て、晴れていると心地いいなと思ったこと。それから、海に行きたいと思ったこと。そして、波野も同じことを思っていたこと。

 波野はいつも、自転車で学校に来る。わたしはラインで、「自転車に乗らずに駅に来い」とだけ伝えて、カバンの中から教科書をぜんぶ抜いて、空いたスペースに二人分の私服を入れて駅へ飛び出した。飛び出すのなんて久しぶりだった。学校に行くときは、飛び出したりしない。けれど、海に行くときに人はやっぱり飛び出すのだろう。飛び出さなきゃいけない。晴れている日なら尚更。

 波野と駅で出会って、トイレで制服を着替えて、それからなんとなく、高揚しながら波野が「海に行こうか」って言った。発案はわたしだけど、こういうことは不満にならない。

 


 電車は終点の、海がある、海しかないらしい駅に着くまでの間に、どんどん人が減っていった。波野は、「本を読むときは、なるべく感心しながら読む方がいいんだ」とか「尊敬を忘れるとぼくら集中できなくなるんだ」とか言いながら外を見ていた。わたしもずっと外を見ていたから、波野のおしゃべりはあんまり聞いてなかったけど、「でも尊敬できない人の本はどうすればいいの?」とだけは聞いた。波野はクリクリの、あるいはギョロギョロの目をいっかい瞬いて、それから上を向いて、口をぽかんと開ける、しばらくして「読まない...しかないと思う」と、慎重に言葉を選びながら、言った。

 


 駅の改札を出ると、アスファルトは太陽の光を存分に吸い込んで凄まじい照り返しをわたしたちに浴びせてくる。バスロータリーの時刻表を見ると、一時間に二本だけ。海の匂いがする。けれど道路はふつうの道路だった。ヤシの木はない。

 「...あぁ」と、波野が呻いた。「どうしたの?」と聞くと、黙って携帯を取り出す。『母』の一文字と、鳴り止まない振動。電話だ。無断欠席、高校生、たった一日の逃避行。それだけでも罪になる。わたしは「ファミリーマート行こう」とだけ言った。携帯は鳴り続けてる。駅の近くのコンビニは、「フリーダムマート」だった。Fのマーク。わたしの携帯は鳴らない。昨日、両親は寝ていたなあと思う。ベランダから、なんとなく寝ているのを感じた。

 


 「フリーダムマート」の中は涼しくて、照明がすこしだけ茶色い。「ビーチボールなんてあるんだ」って波野が言っていて、海が近いことを予感させる品揃えだなと思う。

 「どうして海の近くのコンビニにはトランプが売ってるんだろう?」と聞きながら振り向くと、波野は携帯の電源を切っていた。それから、上を向いて、口をぽかんと開けて、「...」沈黙。考えてる、また、難しいことを。わたしはメロンパンとサイダーと小さなアメリカンドックを買った。426円。波野はすこし遅れて、レジに入って、千円札を出してる。彼の右手には赤い紙の箱だけがあった。500円のトランプ。「え、トランプ買ったの?」と、笑いながら言うと、波野はわたしよりニヤニヤして「わからないならやるしかない」とだけ呟いた。こいつは浮かれてる。波野はもう一度レジに入って、カップ麺を買った。このとき二人で、わざわざレシートを捨てた。証拠隠滅。

 


 「わかってるの?人生オシャカになるんだよ?あなたは学校に行くのが仕事なのよ?」と三連続で、昔、疑問文を投げかけられた。この疑問文は、形だけで回答を求めてないからわたしは「うん」と「ハイ」を駆使して不毛な会話を切り抜けた覚えがある。不登校児になりたかった時期。不登校のきょう、思い出した。

 わたしたちはバスロータリーの向こうに伸びる大通り(都会の大通りと比べると中通りくらいの大きさ)を歩き始め、路地を二回曲がって、一本の長いまっすぐな道路に出た。両脇にはガストや紳士服店があって、景色は家の近くとたいして変わらない。ただ、潮の匂いだけが、海の存在をほのめかしていたから、わたしたちは歩くことができる。

 「因果論。」と呟いた。原因があるから結果があるって、知ってる。学校に行かないからわたしの人生はオシャカサマ。波野は、「因果論。」というわたしの言葉に反応して頭をこっちに向けた。すこし嬉しそう。誰だって自分のすることや言うことに興味を持ってもらえたら嬉しい。

 「...あっ」と、波野がまた呻いた。でも、希望のこもった呻き方だったからわたしはすこし高い声で「どうしたの?」と聞き返したら、波野は真っ直ぐ右手を伸ばして、人差し指で道路の向こうを指した。「...壁?」「ちがう、堤防だよ。」堤防か。しかし波野は楽しそうだったから、わたしもなんとなく楽しい。堤防の先には海がある。堤防があるから海がある、なら、因果論だ。「ううん、それは物理学だよ」と、波野が言った。波野はなんだって知ってる。

 携帯が鳴った。「ねえ、大丈夫?」「先生心配してるよ?」「わたし、光一と話していいのかなぁ...?」疑問文が三つ。あの子、わたしのことを少しだけ好きなのかもしれない。と思った。わたしはあの子のことが少しだけ好きなんだと思う。大丈夫?と言われると嬉しい。誰だって自分に興味を持ってもらえたら嬉しい。波野は少しだけ早足で歩いてる。アスファルトの照り返しはいよいよつよく、空の真ん中に太陽が昇る。「ぁついのは、太陽光の角度の問題なんだ」とクレッシェンドした声がすこしだけ遠くから聞こえるから「お前文系だろ」とわたしが言うと、波野はニヤリと笑って、カバンから水を取り出して飲んだ。何がおかしいんだろう。楽しそうだから、いいけど。

 


 海は、思ったとおりに青くて広い。思ったよりきたない。堤防の上には潮の香りが満ちていて、太陽の光はわたしたちをギラギラと焼いて、少しだけ肌が焼けるのが嫌だった。波野はわたしの前を歩いて、砂浜に降りる階段を探してる。

 シャツの袖をまくって、少しだけ筋肉質な黒っぽい腕が見える。シャツの袖のボタンのところで折り返された袖が嫌にセクシーに見えて、わたしは頭をふるった。汗がまとわりついて、濡れた服が肌にくっつく。波野は急に止まって、丈夫な首を後ろに捻って「ここから降りられ、そうだ」とぶつ切りに話して、下に行ってしまった。カバンの中のサイダーはもうぬるいと思った。ラインに返信してない。両親からの電話はない。ねえ、興味を持って、心配して、先生、ああもう、光一、わたしは「おーい!」と波野を呼んで「俺たち、オシャカだなあ!」と叫んだ。波野は、ポカンと口を開けて空の方を見てから、少し黙って、「トランプやろうぜ」と言葉少なに、笑顔で言う。遠くから全身を見ると、波野の腰は細い。急に元気になったわたしはサイダーを飲み切ると、ペットボトルを下に投げて、「後で拾う!」と言い訳しながら砂浜に降りる。階段の残り数段をジャンプしたとき、アスファルトがわたしたちを照らしていて、これで人生オシャカになるなら、決して、ぜんぜん、悪くないなぁって思う。