ゲージュツ的しつけ

フェレットのしつけが書いたゲージツ的なしつけ術の数々。メール→fererere25@gmail.com

生きてるみたいに

 文庫本をめくる左手の抱える紙の束が薄くなっていくにつれて僕は興奮していった。自分の喜びが目的の達成ーーしかも、物理的な目的、ただただ読み終えるというその一点のみに集中している事実が、なんとも悲しい。

 きっとこの文章の束を読んで何か得たり、何かが始まったりするのを期待しているからじゃないのかと思った。自分が何か変わる。そんなことあるはずはない。期待をしてはいけないと、みんなが言っている。みんながやっていることをするなと、みんなが言っている。人間がやっていないことなんてもはやあるのか、あるのだろうきっと。想像力だ。あとはすべて想像力。

 とにかく、本を読むことではなく、読み終えることが喜びだった。同じくらいの喜びは、本を手に入れたときに訪れる。僕にとって本の内容は肝心ではなく、興味を持つこと、手に触れること、時にはネットで検索すること、そしてお金を払うこと。それが目的で、あとは読み進めて、読み進める行為が達成されること。内容はプロセスの一環でしかなく、理解をしようと思って読むが、理解できた試しなんてない。

 いつだってそうだ。始まる前と、終わる瞬間が一番気分がいい。音楽だってそうだ。聴いている間の時間は、格好つけて言えば、聴いている間にのみ流れる。音はその瞬間だけで、それは文字でも同じことだ。限りない瞬間的な受容と取捨選択の微分。認識の微分。身体が生命を維持している中に一瞬ごとに現れるストレス。それ以上のものはない。格好つけて言えばそうだ。簡単に言えば、何ひとつ分かんないってことだ。理解力がない。

 始まる前、生まれる前、この細胞が分裂を開始する前、血と共にトイレに流されなかった幸運な一つの細胞が生まれる前、少女の母親、初潮前の、今この肉体につながるものがすべて存在しなかった時間。

 おそらくその間、いつからいつまでかはわからないその間は最高に幸福だっただろう。希望と未来しか存在しない瞬間。瞬間でありながら永遠でもあったはずの、その時、始まる前。本を購入する前のように、見知らぬ場所に行きたいと思った瞬間のように、ライブラリに登録する音楽を見つけたときのように幸福だろう。

 しかし、人生は始まり、今この瞬間の微分の永遠の積み重なりとして僕ができてしまい、何かを考えたり、感じたりすることによって最大の幸福は失われてしまった。あとはページをめくるように時間が過ぎるのに耐え忍ぶのみで、左手に抱える紙の束は、いわゆる寿命というやつだけど、どんどん薄くなっていくのを、期待と、若干の寂しさを持って感じていくだけだ。感じているだけの自分という、なんとなく客観的なような気がする視点が僕を安心させている。瞬間を感じるだけ。過去は過ぎ去り、未来は次々に現在へと置き換わっていく。そして紙の束が減る。

 左手の紙の束の重みを感じることができないのもまた不幸なことだと思う。そして幸福なことだ。余命宣告とうつ病の関係を見たことがある。余命宣告を受けた人は三ヶ月以内にうつ病にかかるケースが大変多い。未来を知ると鬱になる。なのに未来を考えるのが、大人ということになっている。いや、こんな文句は言ってもしょうがないし、そもそも言う対象なんていない。

 終わる瞬間はきっと幸福だろう。終わるにつれてきっと興奮してくるだろう。なんであれ達成だ。読むことも聞くこともストレスだ。きっと生きることもストレスだ。感じているのは誰かわからないけど、誰かにとってストレスだ。いつか終わる。達成される。達成感を感じることはあるのか。死ぬことで、何かを得ることができるのか、生きていることは何かを得ることになるのか、いったい何を得るのだろうか。いったい何を失うのだろうか。生きてるみたいに本を読んだり音楽を聞いたり、文章を書いたり歌ったりしたい。生きているみたいに、生きている限りは結果的に必ずそうなる。すべての行動のロールモデルは生きていることだ。