ゲージュツ的しつけ

フェレットのしつけが書いたゲージツ的なしつけ術の数々。メール→fererere25@gmail.com

ハグれモノ行進曲。

 日記を書いてみることにした。日記は毎日続いているし、毎日続きを記録することが長編を書く練習になるっていう文章を読んで、それはすごいと納得したから。

 2020 3/29

 曇りのち雪のち雨。昨日は17度くらいあった気温が今日は4度。雪が降った。明日は13度になるらしい。よくわからないけど空調を使えば家の気温は一定なので体調を崩さずに済むのではないかと思う。

 それにしても暖冬だって言ってやたらに早く桜が咲いて今ちょうど満開くらいなのに、突然ピンポイントで雪が降るなんておかしなこともあるものだ。

 桜が咲いてるのに雪が降っているこんなおかしな状況に家に引きこもっているのも仕方ないので桜と雪を見に行く。川沿いの公園には同じような花見客がいて、みんな決まってビニール傘だったのはなぜだろう。

 桜を観察する。雪と桜はどちらも綺麗だから合わさった景色はもちろん綺麗なのだが、桜は雪と共存するようにできていないだろうからかわいそうだと思った。

 見ると桜の花びらは下を向いている。雪の重みに耐えかねたような表情は痛々しさを感じさせる。蕾の上に水の滴が溜まっていて重そうだった。これはきっといつか雪だった滴だろうと思う。おかしなことになって一番の被害者は桜だなと思う。

 雪は動き続けていて、それは重力で動いているからなんか雪が生命というよりは地球の運動の一部なんだろうけどとにかくいつまでも動き続けていて変な感じがした。桜はずっと止まっていて彼らの身体の中では細胞が動き続けているのだろうけど、その動きが寒さで緩慢になるから止まって見えたのだろうか。桜並木が華やかだけど少し悲壮感あふれていて、奇妙な面白さがあった。そういうと桜には悪いが。僕は地球規模のエゴイストなのかもしれない。消費者として生きる。

 昼寝を四時間する。またやってしまったと思いつつほぼ確信犯である。やることがあるとストレスで起きてられるけどやることがないリラックスは眠りに向かってしまうなあ。

 起きてから坂口恭平の日記を読み、大岡昇平の『野火』を読む。めちゃくちゃ面白い。文章をひとつ書く。井上靖の小説を読んでいたのだがそれより全然面白い。比べるのは良くないのか、ここはあまり良くないとおもわなかった。純然たる独立者同士の絶対的な比較というのはあるのかもしれない。批評とはそういうものなのだろうか。

 昨日からギタープレイと銘打って即興で15分くらいアコースティックギターを弾いて歌ったりしている。これが面白い。意外と聴けるものが出来上がる。

 しかし、ガレージバンドでモニターしながらやった時は全然ダメだった。空間を伝わる音と電子的に処理された音の間には大きな隔たりがあるらしい。僕はアコースティックな人間なんだろうか。とにかく聞くのは空間を伝わった音でなくてはいけない。スピーカーの必要性を感じた。

 これからご飯を食べる。実家はありがたい。

 


2020 3/30

 曇り。寒かった。

 夜中じゅう起きていたため1日を通して眠い。十二時に学校へ行かなくてはいけないためにずっと起きていた。昼夜逆転の生活だから起きてるのは辛くない。

 学校へ行く。雪は大部分が溶けてしまい、桜も少し散ったが、大きく輪郭が変わったようには見えない。

 モノの輪郭は常にブレ続けると後に読むことになることを、この時点では知らない。

 電車に乗る。人はいないがそれなりにいるので驚いた。とはいえ僕だって外出中の身だから人のことは言えない。『野火』のつづきを読む。坂口恭平の日記を読む。電車に乗る一時間はテキストがあれば退屈しない。

 『ルロイ・アンダーソン管弦楽名曲集』を聞く。ラッパ吹きの休日が一番有名だけど、どれも子供がおもちゃ箱をひっくり返したようでいて、思慮深い音楽。

 学校に到着。久しぶりに友達と会う。面白い。電話と、実際に会うのではどうしてこんなに違うのだろうか 。空間について考える。

 家に帰り、インスタントの牛丼を食べる。16時。ようやく睡眠をとる。七時間ほど眠る。外出は疲れるという当たり前のことを知る。外に出なくていいという今の状況は、インドアにとっては嬉しい。僕は感じているだけの存在なのかもしれないが、ただのアンテナではなく、身体全体で、揺れ続ける物質を感じたい。今日は独立した言葉が書けない。

 朝は、人間関係、相手のことを考えること、愛することについて、そして神と偶然性について、生きることについて、それは『野火』から学んだ。昼は空間を通ること、実際に会うことの素晴らしさと、それが発生する理由について、人間関係についてパート2、帰り道で、物質の輪郭や音楽について、これは坂口恭平の日記から学んだ。学んだというか感じたという方が正しいかもしれない。それから睡眠して、日記を書いている。お風呂に入ったりしながら。今日考えたこと。あと、悩むことと考えることの違いとか。

 


2020 3/31

起きる。10:30。眠い。成績発表の日だったので見てみる。最近はネットで成績が見られて便利だな。しかし成績なんて本当は見たくないから、この便利さが必ずしも良いというわけでもない。

 発表されたものは見なくてはいけないから見る。期待していたよりも良くない。悲しくなる。なぜ成績なんてものが存在して、その数字で一喜一憂するのだろうと真剣に考える。

 そもそも成績の数字やアルファベットは僕とはほとんど関係がない。勝手に付与されるひとつの性質で、その記号が俺を表しているわけでは決してない。

 人間は動き続け変化し続けるからうまく扱うことができないので、数字で処理してしまうのが一番やりやすいから成績をつけるのだとは思う。数字を付与できる力のことを権力というのかもしれない。「名前をつけてやる」というタイトルを思い出した。もっと色々考えた気もするけど忘れた。とにかく僕はこの成績というものや、それに一喜一憂する意味がわからなかった。そんなことでやる気を得たり失ったりするのは間違っている。それは一体どうしてなんだろう。どうして心は動くのだろうか。動くのだから良いのだろうか。

 11:45。ご飯を食べる。『野火』の続きを読み、眠くなったから寝る。とても興奮する場面だった。興奮して一瞬で覚醒して一瞬で眠くなる。生命、銃、物体についての部分だった。この本は小説の見た目をしているけど小説だとは思えない。もっと思想とかそういう類の本に見える。ニーチェが物語の形で思想を語ったように。僕は作者と登場人物をあまりに一致させて考えすぎているような気がする。文章を一つ書いたような気がする。

 16:30。起きる。食器と風呂を洗い、風呂を沸かす。その間に楽譜を読む。昨日友人が教えてくれたやり方を試してみて、効果がすぐに出たから驚いた。なんでもやってみなくてはいけない。怠惰な生活の中でも何かが残ればまだ自分を許せる気がする。

 風呂に入る。頼んでいた本が二冊届く。『思考都市』と『急に売れ始めるにはワケがある』という本。経路が違う。

 『思考都市』は想像通り素晴らしい本だ。装丁がかわいい。僕はこの本を音楽を聴くように読みたい。それは初めての曲を聴くように、もしくは初めての道を歩くように、見る、聴くだけではなく感じること。グルーブを全身で増幅するように読みたい。僕は興奮したいし震えたい。貪欲だ。

 『急に売れ始めるにはワケがある』という本は社会心理学の本で、バズることについて、その話題が広がっていく経路やタイミングについて書かれた本だという。今はあまり読みたいと思う本ではなかったけど1ページ目をみて驚いた。

『【ティッピング・ポイント】THE TIPPING POINT

あるアイディアや流行もしくは社会的行動が 、敷居を超えて一気に流れ出し 、野火のように広がる劇的瞬間のこと。』(引用元:マルコム・グラッドウェル著 高橋 啓訳『急に売れ始めるにはワケがある』ソフトバンク文庫)

 野火という言葉が出てきたから驚いた。

 今このタイミングで、『野火』を読んでる時ににこの本が届いたのは全くの偶然だが、必然という感じもする。巡り合わせは本当に存在する。物理学でそろそろ証明されるだろう。情緒も何もないタイトルだけど読んでみようと思う。そもそも英語版のタイトルは“The Tipping point”でありこんなタイトルじゃない。情緒を伴わない改変をした方が売れるのだろうか。そういうデータがあるのだろうか。

 原題を探すついでにこの本について入ってきた情報。この本はあらゆる「感染」(おそらく情動的感染、ミメーシスのこと。)の原因を説明しているらしい。これもタイムリーだ。バズるとか口コミとかは結果であって原因ではない。僕はこのタイトルが気に入らない。これでは原書がかわいそうだ。『ティッピング・ポイント』じゃあ売れないだろうけど...。むしろアメリカではそのタイトルで売れたのだから、日本とアメリカではタイトルの付け方と売れ行きの関係は違いがあるのか疑問を持った。二冊ともとても面白そうな本だ。嬉しい。楽しみだ。

 


2020 4/1

 雨。眠れないので『野火』の続きを読み切る。信仰や、自然さを追求した果てには狂気しかないのだろうかと心配になった。

 僕はこの小説に書いてあることの方が現実といわれてるもの、もしくはシステムよりも真実のように思えた。それは錯覚のはずだけど、錯覚には思えない。

 CANの“Ege Bamyasi“を聞く。

朝に寝付く。6時から15時まで9時間睡眠。

 やることもないので本を読む。読書と勉強の日々。これが続けばいいと願う。

 キース・ジャレット”The Köln Concert “。最高だ。即興ピアノのコンサート。途中で自分も、演奏者も何をやってるのか分からなくなる。そういう瞬間が音楽に関わっていて一番幸せだ。とても聞きやすくメロディックなのであらゆる人にお勧めできる作品。

 楽譜を読む。一日に二時間くらいならできる。やることも続くし、やる気も続く。1000時間やればそれなりになるらしい。1日に二時間なら一年で720時間だ。一年でそれなりになれるなら、そのくらいの習慣をつけるのは苦しくないだろう。

 『思考都市』を読む。僕はついテキストに惹かれてしまう。なぜだろうか。魅力的な絵が並んでいる。装丁も可愛い。素晴らしい本。

 インターネットのテキストサイトにハマる。また思索を繰り返してばかりだ。行動の人へ踏み出す。

 


2020 4/2

 昨夜はなぜかまた8時まで眠れずいろいろやっている。ギターを弾いたり、本を読んだりその程度だけど。8時に寝付く。12時までの4時間睡眠。晴れ。

 教育実習の委託金を払いに行く。腰が重い。謎のお金だ。ただ、払った瞬間に心が少し楽になったので、お金よりも払わなくてはいけないというタスクが心を重くしていたらしい。

 気づけば文庫を八冊買っていた。エッセイが多い。忌野清志郎の連載と星野源のエッセイを読む。面白い。ポップな音楽をやる人は文体も努めてポップだ。本人たちは文才がないって言ってるけどそうは思えない。

 とはいえ本を読まなくてはいけない。帰る。桜が綺麗。

 楽譜を読む。17:00 に帰ったのに最終的に22:00までかかってしまった。休憩が長いのだ。

 モーツァルトはよくわからない。あまりに美しい旋律を歌っていたことに今更ながら気づいてゾッとする。

 ユザーンのインタビューを読んでユザーンのアルバムを聞く。自分の音、という言葉を最近多く見るので自分の音というのに興味が出てくる。

 清志郎に本には、本気でやりたいなら漫画にかけるくらい明確なストーリーとして将来のイメージが描けるはずだ、と書いてあった。

 僕はホテルもしくはホテルみたいなところに住んで、ミラノのスカラ座で歌った次の日にカフェで酒を飲みながら客席で歌って、オフには小説を書いたりアヴァンギャルドなライブハウスに出演したりしたい。路上で適当にギターを弾いていたい。どこでだって歌いたい。そんな感じの未来を描いた。妄想で。

 眠かったので寝る。昨日の深夜というか今日の明朝にギター弾いたからいいや。

 


2020 4/3

 3時起床。やることないのでギターを弾く。ギターを弾く前には音源を聴くようにしていてそれはなんとなくスイッチを切り替えるためなんだけど切り替わってる感じはしない。知久寿焼のライブを聞く。良い。

 8時に寝る。16時までしっかり8時間睡眠。社会。社会からの断絶を自らやっている。社会との接し方がわからない。お外は怖い。

しかし怖いとも言ってられないから家を出る。自転車で国分寺まで向かった。気まぐれに、3時間あれば着くだろうと思って行った。着かなかったのだがこの時には着かないことを知らないから行った。

 今の書き方は山下澄人のパクリ。

 新宿付近の人混みを自転車で駆け抜けようとする。歌舞伎町界隈にいっさい良い思い出がない。今日もだ。おじいさんに触れかけて怒鳴られる。怖いので逃げる。追われる。さらに逃げる。怒鳴らなくても良いじゃないか。逃げるしかないじゃないか。しかし俺にも落ち度があり、それは確かだから逃げたことは良くない。きちんと自分の非を認めて謝るべきだ。でも僕は急いでいたし、でもそんなの筋を通すこととは関係がない。自己矛盾。しかし引き返す気も起きない。自己嫌悪。これは懺悔の文章です。

 結局20分遅れて到着する。怒られない。優しい。安心感が大事だ。

 帰り道。4時間かかるが、帰る時にはまだ知らないので行った。メンチカツとほうじ茶。おいしい。セブンイレブンはすごい。どこでもおいしい。東京のいろんなセブンイレブンに入るけどどこに入ってもおいしい。この事実はどこに行っても言葉で共通理解を得ることができる事実と繋がっている。

 新宿を通らず迂回して帰る。新宿に良い思い出がない。とはいえ代々木の方を通るだけだから少し南にずれただけだけど。

 皇居の外周部でタヌキを見る。小さな雲みたいな見た目だ。真っ黒な雲。かわいい。目が光っている。こわい。

 そして僕は家に帰った。太腿の前面が痛くて、長く立ち上がれない。自分が普段どの筋肉を使って立っているのかがわかる。痛みを持ってでないとわからないことがわかれたから、痛みも悪くはない。下半身は鍛えていなかったけど、ここまで筋肉不足とは知らなかった。鍛える気はない。

 


2020 4/4

足が痛すぎる。起きる。何をした記憶もない。眠る。

世界の色

 小さな時に感じていた、ここがここじゃない感じ。なぜここに生きているのか分からない感じ。ここが夢なのかもしれない、だとしたらこの夢を見ている人間はまた誰かの夢かもしれない。夢のまた夢のまた夢の中で、どこが現実か分からなくなる。僕は目覚めることのない夢の中に生きている。これは夢だけど、確かに生きている。生きている感じはする。

 そんな感覚を人に伝えることはできなかったけど、好きだった。今でももちろんすごい好きだ。僕はよくボーッとしている子供だった。病院では離人症と診断された。

 ふわふわと宙に浮く感じがして、自分の動物としての体がドクドク脈打ってるのを感じる。この感覚をしばらく忘れていたけど、久しぶりに思い出した。言葉で伝えられない世界があるということ。目の見え方や世界の色が変わって見える時があるということ。僕の場合、ボーッとした後や自分の感覚に酔っぱらった後、世界は青みがかって見える。だから青が昔から好きで、特に、気づけば濃い青を好んで身につけている。

 僕の部屋のカレンダーは八月で止まっていて、それは青い森と、海と空の写真だ。八月の、夜の青。灼ける朝、夕の空、紫の空、中間、境界の果てにある青の空。青と青の間に昼間がある。いずれにせよ青空だ。空が青くなくなるのは一瞬で、その一瞬はどうしようもなく美しい。境界とは特別な世界だ。そしてそれぞれに違った境界を持っているはずだ。

 僕はこういう時エヴァンゲリヲンを思い出してしまう。LCLのオレンジの水にパシャっと人間が溶けてしまうあの映像。ATフィールドとは境界のことで、それがあるんだかないんだか、分からない方が幸福で、そして動物は、特に言葉で縛り付けられていない野生動物は、おそらく自他の区別が余りないはずだ。というか、感覚を共有しているはずだ。あらゆるものと繋がっているはずだ。人間も本来はつながっているのだけど、言葉のネットワークが強力だからそのつながりをすぐに忘れる。野生動物にATフィールドはたぶん、あまりない。

 野生動物は幸福の世界を生きているということだ。人間は言葉を得ることで幸福を投げ打って、それでも言葉と一緒に生きていくことを選択した僕らのご先祖さまは、きっと言葉と生きていく方が面白いと思ったのだろう。動物としての幸福や自然の幸福を投げ打ってでも面白さを求めるのが、たぶん人間の欲望のはじまりで、それは堕落ということだ。それはとてつもない、人類全体の可能性を使ったバクチだ。僕らがしばしばギャンブルに惹かれるのは、言葉の代替物を探しているからじゃないのか。人類の原初のあたりで起こった大博打の快楽を忘れることができないからではないのかと、妄想する。

奇妙な記憶と、小学生による昔についての考察ーーグレイス・ペイリー『最後の瞬間のすごく大きな変化』を読んで。

グレイス・ペイリーというアメリカの作家の小説を読んだ。訳者は村上春樹だった。『最後の瞬間のすごく大きな変化』という短編集だ。グレイス・ペイリーは短編集を三冊出版して、たぶん子供に世話を焼いたり、友だちとコーヒーを飲んだり図書館に行ったりして、亡くなった。

 1922年生まれの彼女は戦争を経験している。第二次世界大戦が確か1939年からだから、彼女が17歳の時に戦いがはじまった。81年前。終戦から現在はよくカウントされるけど、開戦からカウントされているのを僕は見たことがない。

 終戦から70年経ったのは知っていたけど、去年で開戦から80年だったことは知らなかった。計算すればよかったのだが、しなかった。

 彼女の小説はとても良い小説だと思った。と言っても二編しか読んでいないのだけど、とても良いことは二編でもわかる。

 僕は本を初めから終わりまで読むのが正しい読み方だとは思ってない。今更そんなふうに考えている人もあまりいないだろうと思う。僕は規範から逃れたいと思ってる。いつも思ってるけどその規範がいったいどこにあるのか、誰が唱えているのかわからない。シャドーボクシングみたいに何かに噛み付くのに、噛み付く対象が本当はいないから、僕は地面にぶつかるだけだ。

 閑話休題閑話休題と人生の中で一度は言ってみたかったから今日、僕の夢が一つ叶った。閑話休題

 作品の中で言っているように彼女は「時間の観念がない」小説家だ。小説の中で時間は飛び越えられて、交錯して、折り重なっている。

 一編目の『wants(必要なもの)』という話では、はじめに二十七年間連れ添った前の夫が出てくる。主人公は十八年借りっぱなしだった二冊の小説を図書館に返しに来たところだった。二人は図書館で出会う。それから結婚生活の二十七年についての意見を交わし合う。例えば朝食、子供のこと、貧乏だったこと、しばらく時間が経って、生活に困らなくなっていったこと。

 二十七年とか、十八年とか、朝食とか、結婚してた時とか、あの時、とか子供がキャンプに年に四週間行っていた、とか様々な時間が交差して、話は進む。一人の人間の中に、二人の人間の間に、図書館に、家庭にそれぞれの重みを持って時間が流れていく。

 話をする中で二人は、今の時間ともう戻らない結婚生活と、もしくは彼らの全人生とを行き来する。無限にふくらみのある過去のダイナミクスを引き受けて存在している。そこにあるのは圧倒的な個でしかない。女とか男とか、バツイチとかそういう言葉で二人を形容することはできない。

 保坂和志が『書きあぐねている人のための小説入門』という本の冒頭で時間の話をしていた。

 小学校四年生の時、社会科の授業で先生が「昔とはいったいいつのことでしょう?」という問題を子供達に投げかけて、全員に小さな紙を配った。

 書き終わった紙を先生は回収して、一枚ずつ読んでいく。

 そこには大抵、五年、とか十年、とか書いてあったのだが、Mさんという女の子の回答だけ「おかあさんのおかあさんのおかあさんが生まれるまえ」と書いてあった。教室中、大爆笑だった。そういう話だ。

 僕はグレイス・ペイリーの小説を読んでふと、この話を思い出した。変な話ではないだろう。グレイス・ペイリーの小説を読み、時間について考えたから。時間について何か印象に残った話があって、それが保坂和志の小学生時代だった。それだけのことで、何も不思議ではない。

 不思議ではない。Mさんとグレイス・ペイリーには共通点があるように思えた。グレイス・ペイリーは五年、とか十年、とかいう言葉を使う。けれど彼女の過去に対する接し方は「おかあさんのおかあさんのおかあさんが生まれる前」的な広がりを持っている。

 どちらにも過去をこういうものだと決めてかかる、僕なりの言葉で言えば、安心感とか舐めてかかる感じがない。ここからここまでが過去である、という共通認識みたいなところに立っていない気がするのだ。

 過去とは多義的なもので、同じ出来事でも人によって思い出す内容が違う。だから数人集まれば、過去は矛盾する。人間は矛盾する生き物だ。Mさんもグレイス・ペイリーも多義的な状態を恐れていない感じがする。そういう感じがするから、僕はなんだか励まされる気がした。心地よく放って置かれた時のように。

 おかあさんのおかあさんのおかあさんが生まれる前、を具体的な数字にすることは不可能だ。おかあさんのおかあさんのおかあさんが生まれた時、なら住民票とか、昔の台帳を調べれば確定できるかもしれないけれど。

 具体的な時間なんてこの場合そんなに大切なことじゃない。二十年前とか、80年前とか、戦争があったり、僕が生まれたり、父親と母親が出会ったり、祖母が誰かと喧嘩したりして、いつの間にか時間がたってここまで来てしまった。みんな来てしまった。生きていれば来れる。それが大事で、奇妙なことだ。

 生きていることは奇妙だ。過去を全て失ったって僕は生き続けるだろうし、生まれる前も死んだ後もわからないけど、記録は残る。奇妙な記憶と、そしてまたきっと記録だって奇妙なのだ。

 いろいろなことがあり、恐慌が起きたり、ウイルスが流行ったりしているけれど、みんな時間の中にいる。同じ空の下にいるから同じように尊い、なんて絶対に言わないけど、例えば同じ東京都に住んでいる人の間でも、見ている真実が違う。

 多義的な世界を生きるということは不確定な世界を生きるということだ。未来も過去も今も、正しいことなんて何一つない。その中でなぜか生きている。

 褒めてるのかけなしてるのか、よくわからない文章になっちゃったけど、この小説から僕はすごくポジティブな印象を受けた。とても良い小説だった。今は、とりあえず生きていこう、という気持ちになっている。

フェレットのしつけ的な願い

 大学に、動物と話ができる女の子がいる。嘘だろうと思っていつも一緒にいて見ていたのだが、迷い込んだ野良猫とも何か意志の疎通をしているのがわかった。僕が動物に伝えてほしいことを言うと、彼女は翻訳して伝えてくれる。それは身振りの時もあれば、目を合わせるだけの時もあるし、触ることもあれば、話しかけることもあった。南米の一部の鳥は匂いでコミュニケーションをするらしい。彼女は調香師のように、いくつかの香りがする草花を見せてくれた。冷たい香りや、すっとする香りや、広がるような香りが広がる花たち。彼女からはいつも様々な刺激を持った香りがしていた。それは決してイヤな香りではなかった。

 彼女はほとんど言葉を使わなかった。言葉の外に自然なものがあることをしっていたのだ。僕はそんなこと全くわからなかったから、つい彼女に言葉で語りかけては少しだけ素っ気なくされた。歩いていると、呼吸が伝わってきた。

 祭り、祭り、祭り。言葉の外に出ること、共同体の外に出ること。眠い。踊る。身体性の回復だ。

僕は言葉の外に出たかった。彼女の座った跡には必ず言葉がこぼれ落ちていて、その言葉を彼女は忘れてしまう。

 林檎、さようなら、遠い、アクシデント、何もない。何もなくなってしまうのだ。社会が落ちていた。世界は、どこにも落ちていなかった。

 言葉はだんだん、意味を持たなくなる。目線で全てが分かればいいのに。そういうと彼女は小さく首を振った。暖かい春のことだ。

 たとえば手、たとえば目、耳、表情、動き、何もかも。それらは高次元に繋がってでもいるのか、僕はなんとなくわかる。彼女ははっきりとわかる。彼女がはっきりとわかった時、彼女の中から言葉は消えていく。一つずつ剥がれていく、剥がれていく。

 僕のことを見て笑った。そして毎回、嬉しそうに手を差し出す。僕は知っている。それは彼女にとってはじめましての挨拶なのだと。記憶とか意識とか、一体何で作られているのだろうか。僕のことを忘れても、僕のことを気に入ってくれる彼女の、最後にこぼれ落ちる言葉を見つけようとそっと目をのぞいた。目玉のちょっとした変化を読み取ることができるかもしれない。僕にだって。また遠くに行ってしまうような気がする。彼女は病気なのだろうか。病気とはいったい何なんだろうか。忌避するべきなのだろうか、陽だまりの中で動物に囲まれて眠っている彼女はどうしたって美しいのだ。

 僕の愛が意味をもつのは、意味、意味、コミュニケーション、全てが通じ合えばいいのに。彼女は首を振って、いつ目が覚めるのだろうか。このまま雨が降らなければいい。僕の言葉にコントロールなんてされなければいい。どこまでも深く潜っていきたい。言葉なんて忘れてしまえる文章が一番いい。

心の中で言う

 青色の炎に包まれて真っ逆さまに星が落ちている。凄まじいスピードで、真っ黒の中を駆け下りていくその放熱はやけに赤い尻尾を残して燃え上がる。とても綺麗だ。綺麗な没落が存在する。

 「あれが流れ星になるんだよ」と、僕が喋ったら、地球至上主義だと言われた。流れ星はあくまで地球からの目線だ。でもそれは仕方ないだろう。僕の母星は地球だし、地球から見た世界しか知らないのだから。

 自分のエゴを忘れたことがあるはずだ、と言われた。歌手なら、自分のエゴがあっては歌えないだろうと言うのだ。僕は、歌手なんてエゴの塊だと思っていたから素直にそんなことはないよ、と答えた。星は真っ逆さまに落ち続けていた。

 たとえば宇宙と繋がることなのだという。それが芸術なのだと言う。芸術は神に近づくために始まった。神は宇宙にいるのか?と聞くと、芸術は神に会うために始まったのじゃないと言う。エゴがなくなった時、我を忘れてしまうのではないかと聞く。偉大な宗教家が主にそれを仕事にしているのだ、と言う。それは随分と、失礼な言い方だと思った。規範の二文字が僕の胸でチカチカしている。いつだってチカチカしているのだ。

 チカチカ眩しいから電気を切りに近づくと、そこは鉄が床に貼られた静かな、暗い廊下で、足音がカツカツと響くので参ってしまった。規範はそこでチカチカと眩しい光を発する。その光に目を向けてはいけない。それを真剣に見てしまうと、高級な腕時計とか、一流企業の名刺とかが欲しくなってしまうのだ。

 我を忘れる、思い出してみる。我、とは何か。我、とは規範意識のことだ。我、とは規範意識のことだけではない。ここに存在する僕の、なんだか信じているすべてのこと。なぜだか信じているすべてのこと。

 僕はなぜだかいろんなことがわかったり、人と共通理解をしたりする。僕が椅子だと思って座る場所には大体みんな座ることができるし、僕が食べるものをみんなと分けることだってできる。それだって本当はかなりの奇跡なのかもしれない。

 ヒューマニズムみたいないい話ではない。人と何か共通理解を持っている。それはとってもありがたいことなんだけどその分だけ心、みたいなものは遠くなる気がする。

 自分が消え去る方法を教わった。オーガズムに達すればいいのだと言う。それなら得意だと伝えると、そんなレベルではダメだ、と言われる。我を忘れる、忘我の状態はとてつもなく、失神するくらいの衝撃を伴うらしい。そんなの怖いよ、と言う。それを知らない方がもっと怖いさ、なんて、エディ・マーフィーの声で言われる。

 でもやっぱり僕はもうグズグズにとろけてしまいたいと思う。エゴを捨てて、それは嘘を捨てるということだ。僕はいくつもいくつも嘘を重ねて塗り固める技術だけが発達してしまった。どこにも行き場のない削りカスが毎日毎日自分から出てくるのだ。だからもっともっと嘘を塗り固めようと、たとえば権威や肩書きに頼るようになってきている。僕が何者であるかを語るには、高級車が必要かもしれない。高級車に乗れるだけの、高級な人間です、と言えるように。

 そんなの嘘だ。嘘を使って自己肯定して、楽しいかい?と聞かれる。大きなお世話だ、と言う。心の中で言う。

空間は伸縮可能である

 りんごがいくつも落ちている。森の中に一ヶ所だけ開けた草原があり、木々に囲まれてぽっかりと開いたスペースになっているから、動物たちがここに来るのを待っていた。今日はそこにりんごがたくさん落ちている。この付近にリンゴの樹はない。

 木漏れ日が差す草原の向こう側に小さな池があり、その前には苔むした岩が鎮座している。そんな風に、衛星写真からは見えない微かなスペースがいくつも点在しているから、森の中は広い。

 空間は、例えば何平方メートルとか、そういう範囲で測れるものではない。草原にりんごが落ちている。このりんごが風に飛ばされると、その空間の大きさは変わってしまう。いやそれは決して悲しいことではない。水があり、その水辺に神聖な、四つ足の長いツノを備えた鹿が歩いてくる。それを合図に森の動物が、様々な大きさで、様々な歩き方で現れて、その動物たちの数だけ水辺は広くなっていく。キリストが一つのパンを何百人に分けたように、空間は個別の存在によっても規定されているのだ。

 僕らはつい箱詰めをするように世界のことを考えていく。空間は区切られた壁の中の世界で、僕らはその中のスペースを陣取りあって、奪い合って生きているような、イメージ。

 しかし現実はそうではなく、存在の数が空間を変化させる、というか空間の側が変化していく、そのような伸縮性を備えているのだ。長い文章が細部の積み重ねで出来ているように、空間のフレームもディティールによって変化する。そのディティールとはもちろん僕であり、ベッドであり僕たちであり、森においては動物たちだった。りんごだった。木だった。岩だった。

 とはいえど動物たちに許された特権である行動、自由な行動、あの奔放さに岩は憧れていた。僕の体に住んでいる苔だって風に運ばれてきたのだ。僕を運ぶものは自然界には存在しない。いや、僕だって運ばれてきたのだった。岩は思い出す。

 かつてあの大きく茜色に染まる山がもっと巨大にそびえ立っていた頃、宇宙から見た地球が暗黒の陸の塊だった頃。僕はあの山の一部だった。内臓の中で静かに転がる機関の一部だった。機械的な生活だ。水もなく、動物も、木もいない。風もなかった、あの頃。僕は悠久にも思える時間の中で、いや、正確には比較する時間がなかったから、つまりは流れが存在しない世界の中で、ただ僕一人だった。他の岩たちもまた、ただ岩一人一人で、火口から差してくる太陽の光すら、知らなかった頃。

 巨大な揺れが起こり、それは僕に現れた初めての時間として、起こり、あの日から僕は相対的、という感覚を知ってしまったあの揺れが起こり、しばらくした。僕はしばらくを感じることができた。そう、しばらくしてから巨大な放出が起こった。あれは、気持ちが良かった。

 僕は何かとてつもない力によって押し出されて、僕と一緒にいくつもの岩が押し出されて、そして、火口付近に近づいた時、初めて太陽を見た。僕以外の存在は、岩、揺れ、太陽、そして僕を押し上げる何か。時間を教えてくれたのは揺れだったし、そして太陽は、ぼくに、生命を教えてくれた。どうやら生命とはぼくと少し違うものだと思った。いや、僕を押し上げているこの何かがもしかすると僕の生命なのかもしれない。そしてまた、しばらくが来て、僕は空に投げ出された。

 僕は空から世界を見た。世界というものを初めて知った。世界という言葉を知らなかった僕はずいぶんともの珍しそうに空から下を眺めていた。荒野に僕は降り立った。

 それから何度も雨が降って、草原ができた。風が吹いて、樹々が生まれた。その度に空間は広がっていき、何事もないまま僕はしばらくをいくつも集めて、一番幸せな岩石に、思えばいま、なったものだなあ。

 岩は思い出す。空間が広がっていく過程を。岩を見ながら木々は風にそよいでいる。

キュビズム

 まっすぐに伸びる一本道があった。周囲は広大な草原で、平原の中にポツポツと、倒れこむ人のような木が生えている。視界の最も遠い場所で地平線が広がっていた。空気は今もカラカラに乾燥している。足元に続く道の上だけ草が刈り取られて肌色の地面がまっすぐに続いていた。周りに動物の姿はなかった。このサバンナの上で、僕だけが動いている。

 折れ曲がった木が風にそよいでガサガサと程よい音量の音を立てた。折れ曲がった幹から分岐した枝の上に緑色の髪の毛のような葉が茂っていて、その葉っぱが擦れる音だった。大きくもなく、小さくもなく、長くも、短くもない音量で葉っぱはそよぐ。

 僕はそういった音を聞いたことがない。都会には、体が飛び上がるような音か、耳をすましても聞こえないような音しかない。サバンナは動物としてリアルな音しか聞こえない。いま見えている風景は普段ならテレビやパソコンに映った虚像でしかないが、都会の鳴らす音の方が芝居がかっていて何事も大げさなようにも思える。バーチャルみたいだ。

 太陽は西側に傾き始め、草原はほのかにオレンジ色に染まった。木の影はさっきよりも大きく伸びている。風は止まらない。過不足ない音を立てて草原はそよぎ続ける。視界はオレンジの空と、地平線と、木と、草に覆われていた。そこに影が加わり、陰影は平面的だったサバンナの風景を立体的に浮かび上がらせる。

 夕暮れの草原は、三次元空間の中にさらに三次元の空間があるように見えた。立体の上に立体が積み重なっている。立体的な草原が僕の前でまっすぐに屹立すると、そそり立つ草原の中腹から木が草原の内側に向かって生えている。立体感の中に平面があり、平面の中に立体が浮かび上がった。

 夕暮れの影は視覚に少しだけ変調をもたらすようだ。この変調は喜ぶべき異常だった。僕は薬をやったことがない。薬をやる奴はサバンナに来ればいいと思った。薬のダイナミズムは都市のように大げさだ。大きいか、小さいかのどちらかしかない。

 夕暮れの終わりは静かな紫色。風も一瞬だけ凪いで、あたりは神聖な静寂に包まれた。足音だけが鳴って、静寂に吸い込まれる。立ち止まり、静寂に耳をすませた。心のどこかで、太鼓の音が聞こえる。これは僕のビートなのだろうか。心臓は太鼓なのか。視界の一番遠くで地平線は暗く閉ざされている。

 そして真っ青な夜が降りてきた。風はにわかに吹き始め、草原は木のそよぎに包まれた。空には雲が出ている。乾いた夜はひどく冷え込む。歩き始めた。何も持っていないし、どこへ行くのかだって知らないのだ。月は金色に光って、草原の向こうへ手を伸ばしていた。星がまばたいた。月も星も、ときおり雲の向こうに隠れて、それでも光を放ち続けていた。何百年も前の光が

僕の目の中に飛び込んで夜に呼吸をする。風がそよいで体を冷やしていく。キリンのいないこのサバンナでただ歩みを進めている。