ゲージュツ的しつけ

フェレットのしつけが書いたゲージツ的なしつけ術の数々。メール→fererere25@gmail.com

心の中で言う

 青色の炎に包まれて真っ逆さまに星が落ちている。凄まじいスピードで、真っ黒の中を駆け下りていくその放熱はやけに赤い尻尾を残して燃え上がる。とても綺麗だ。綺麗な没落が存在する。

 「あれが流れ星になるんだよ」と、僕が喋ったら、地球至上主義だと言われた。流れ星はあくまで地球からの目線だ。でもそれは仕方ないだろう。僕の母星は地球だし、地球から見た世界しか知らないのだから。

 自分のエゴを忘れたことがあるはずだ、と言われた。歌手なら、自分のエゴがあっては歌えないだろうと言うのだ。僕は、歌手なんてエゴの塊だと思っていたから素直にそんなことはないよ、と答えた。星は真っ逆さまに落ち続けていた。

 たとえば宇宙と繋がることなのだという。それが芸術なのだと言う。芸術は神に近づくために始まった。神は宇宙にいるのか?と聞くと、芸術は神に会うために始まったのじゃないと言う。エゴがなくなった時、我を忘れてしまうのではないかと聞く。偉大な宗教家が主にそれを仕事にしているのだ、と言う。それは随分と、失礼な言い方だと思った。規範の二文字が僕の胸でチカチカしている。いつだってチカチカしているのだ。

 チカチカ眩しいから電気を切りに近づくと、そこは鉄が床に貼られた静かな、暗い廊下で、足音がカツカツと響くので参ってしまった。規範はそこでチカチカと眩しい光を発する。その光に目を向けてはいけない。それを真剣に見てしまうと、高級な腕時計とか、一流企業の名刺とかが欲しくなってしまうのだ。

 我を忘れる、思い出してみる。我、とは何か。我、とは規範意識のことだ。我、とは規範意識のことだけではない。ここに存在する僕の、なんだか信じているすべてのこと。なぜだか信じているすべてのこと。

 僕はなぜだかいろんなことがわかったり、人と共通理解をしたりする。僕が椅子だと思って座る場所には大体みんな座ることができるし、僕が食べるものをみんなと分けることだってできる。それだって本当はかなりの奇跡なのかもしれない。

 ヒューマニズムみたいないい話ではない。人と何か共通理解を持っている。それはとってもありがたいことなんだけどその分だけ心、みたいなものは遠くなる気がする。

 自分が消え去る方法を教わった。オーガズムに達すればいいのだと言う。それなら得意だと伝えると、そんなレベルではダメだ、と言われる。我を忘れる、忘我の状態はとてつもなく、失神するくらいの衝撃を伴うらしい。そんなの怖いよ、と言う。それを知らない方がもっと怖いさ、なんて、エディ・マーフィーの声で言われる。

 でもやっぱり僕はもうグズグズにとろけてしまいたいと思う。エゴを捨てて、それは嘘を捨てるということだ。僕はいくつもいくつも嘘を重ねて塗り固める技術だけが発達してしまった。どこにも行き場のない削りカスが毎日毎日自分から出てくるのだ。だからもっともっと嘘を塗り固めようと、たとえば権威や肩書きに頼るようになってきている。僕が何者であるかを語るには、高級車が必要かもしれない。高級車に乗れるだけの、高級な人間です、と言えるように。

 そんなの嘘だ。嘘を使って自己肯定して、楽しいかい?と聞かれる。大きなお世話だ、と言う。心の中で言う。