ゲージュツ的しつけ

フェレットのしつけが書いたゲージツ的なしつけ術の数々。メール→fererere25@gmail.com

世界の色

 小さな時に感じていた、ここがここじゃない感じ。なぜここに生きているのか分からない感じ。ここが夢なのかもしれない、だとしたらこの夢を見ている人間はまた誰かの夢かもしれない。夢のまた夢のまた夢の中で、どこが現実か分からなくなる。僕は目覚めることのない夢の中に生きている。これは夢だけど、確かに生きている。生きている感じはする。

 そんな感覚を人に伝えることはできなかったけど、好きだった。今でももちろんすごい好きだ。僕はよくボーッとしている子供だった。病院では離人症と診断された。

 ふわふわと宙に浮く感じがして、自分の動物としての体がドクドク脈打ってるのを感じる。この感覚をしばらく忘れていたけど、久しぶりに思い出した。言葉で伝えられない世界があるということ。目の見え方や世界の色が変わって見える時があるということ。僕の場合、ボーッとした後や自分の感覚に酔っぱらった後、世界は青みがかって見える。だから青が昔から好きで、特に、気づけば濃い青を好んで身につけている。

 僕の部屋のカレンダーは八月で止まっていて、それは青い森と、海と空の写真だ。八月の、夜の青。灼ける朝、夕の空、紫の空、中間、境界の果てにある青の空。青と青の間に昼間がある。いずれにせよ青空だ。空が青くなくなるのは一瞬で、その一瞬はどうしようもなく美しい。境界とは特別な世界だ。そしてそれぞれに違った境界を持っているはずだ。

 僕はこういう時エヴァンゲリヲンを思い出してしまう。LCLのオレンジの水にパシャっと人間が溶けてしまうあの映像。ATフィールドとは境界のことで、それがあるんだかないんだか、分からない方が幸福で、そして動物は、特に言葉で縛り付けられていない野生動物は、おそらく自他の区別が余りないはずだ。というか、感覚を共有しているはずだ。あらゆるものと繋がっているはずだ。人間も本来はつながっているのだけど、言葉のネットワークが強力だからそのつながりをすぐに忘れる。野生動物にATフィールドはたぶん、あまりない。

 野生動物は幸福の世界を生きているということだ。人間は言葉を得ることで幸福を投げ打って、それでも言葉と一緒に生きていくことを選択した僕らのご先祖さまは、きっと言葉と生きていく方が面白いと思ったのだろう。動物としての幸福や自然の幸福を投げ打ってでも面白さを求めるのが、たぶん人間の欲望のはじまりで、それは堕落ということだ。それはとてつもない、人類全体の可能性を使ったバクチだ。僕らがしばしばギャンブルに惹かれるのは、言葉の代替物を探しているからじゃないのか。人類の原初のあたりで起こった大博打の快楽を忘れることができないからではないのかと、妄想する。