ゲージュツ的しつけ

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奇妙な記憶と、小学生による昔についての考察ーーグレイス・ペイリー『最後の瞬間のすごく大きな変化』を読んで。

グレイス・ペイリーというアメリカの作家の小説を読んだ。訳者は村上春樹だった。『最後の瞬間のすごく大きな変化』という短編集だ。グレイス・ペイリーは短編集を三冊出版して、たぶん子供に世話を焼いたり、友だちとコーヒーを飲んだり図書館に行ったりして、亡くなった。

 1922年生まれの彼女は戦争を経験している。第二次世界大戦が確か1939年からだから、彼女が17歳の時に戦いがはじまった。81年前。終戦から現在はよくカウントされるけど、開戦からカウントされているのを僕は見たことがない。

 終戦から70年経ったのは知っていたけど、去年で開戦から80年だったことは知らなかった。計算すればよかったのだが、しなかった。

 彼女の小説はとても良い小説だと思った。と言っても二編しか読んでいないのだけど、とても良いことは二編でもわかる。

 僕は本を初めから終わりまで読むのが正しい読み方だとは思ってない。今更そんなふうに考えている人もあまりいないだろうと思う。僕は規範から逃れたいと思ってる。いつも思ってるけどその規範がいったいどこにあるのか、誰が唱えているのかわからない。シャドーボクシングみたいに何かに噛み付くのに、噛み付く対象が本当はいないから、僕は地面にぶつかるだけだ。

 閑話休題閑話休題と人生の中で一度は言ってみたかったから今日、僕の夢が一つ叶った。閑話休題

 作品の中で言っているように彼女は「時間の観念がない」小説家だ。小説の中で時間は飛び越えられて、交錯して、折り重なっている。

 一編目の『wants(必要なもの)』という話では、はじめに二十七年間連れ添った前の夫が出てくる。主人公は十八年借りっぱなしだった二冊の小説を図書館に返しに来たところだった。二人は図書館で出会う。それから結婚生活の二十七年についての意見を交わし合う。例えば朝食、子供のこと、貧乏だったこと、しばらく時間が経って、生活に困らなくなっていったこと。

 二十七年とか、十八年とか、朝食とか、結婚してた時とか、あの時、とか子供がキャンプに年に四週間行っていた、とか様々な時間が交差して、話は進む。一人の人間の中に、二人の人間の間に、図書館に、家庭にそれぞれの重みを持って時間が流れていく。

 話をする中で二人は、今の時間ともう戻らない結婚生活と、もしくは彼らの全人生とを行き来する。無限にふくらみのある過去のダイナミクスを引き受けて存在している。そこにあるのは圧倒的な個でしかない。女とか男とか、バツイチとかそういう言葉で二人を形容することはできない。

 保坂和志が『書きあぐねている人のための小説入門』という本の冒頭で時間の話をしていた。

 小学校四年生の時、社会科の授業で先生が「昔とはいったいいつのことでしょう?」という問題を子供達に投げかけて、全員に小さな紙を配った。

 書き終わった紙を先生は回収して、一枚ずつ読んでいく。

 そこには大抵、五年、とか十年、とか書いてあったのだが、Mさんという女の子の回答だけ「おかあさんのおかあさんのおかあさんが生まれるまえ」と書いてあった。教室中、大爆笑だった。そういう話だ。

 僕はグレイス・ペイリーの小説を読んでふと、この話を思い出した。変な話ではないだろう。グレイス・ペイリーの小説を読み、時間について考えたから。時間について何か印象に残った話があって、それが保坂和志の小学生時代だった。それだけのことで、何も不思議ではない。

 不思議ではない。Mさんとグレイス・ペイリーには共通点があるように思えた。グレイス・ペイリーは五年、とか十年、とかいう言葉を使う。けれど彼女の過去に対する接し方は「おかあさんのおかあさんのおかあさんが生まれる前」的な広がりを持っている。

 どちらにも過去をこういうものだと決めてかかる、僕なりの言葉で言えば、安心感とか舐めてかかる感じがない。ここからここまでが過去である、という共通認識みたいなところに立っていない気がするのだ。

 過去とは多義的なもので、同じ出来事でも人によって思い出す内容が違う。だから数人集まれば、過去は矛盾する。人間は矛盾する生き物だ。Mさんもグレイス・ペイリーも多義的な状態を恐れていない感じがする。そういう感じがするから、僕はなんだか励まされる気がした。心地よく放って置かれた時のように。

 おかあさんのおかあさんのおかあさんが生まれる前、を具体的な数字にすることは不可能だ。おかあさんのおかあさんのおかあさんが生まれた時、なら住民票とか、昔の台帳を調べれば確定できるかもしれないけれど。

 具体的な時間なんてこの場合そんなに大切なことじゃない。二十年前とか、80年前とか、戦争があったり、僕が生まれたり、父親と母親が出会ったり、祖母が誰かと喧嘩したりして、いつの間にか時間がたってここまで来てしまった。みんな来てしまった。生きていれば来れる。それが大事で、奇妙なことだ。

 生きていることは奇妙だ。過去を全て失ったって僕は生き続けるだろうし、生まれる前も死んだ後もわからないけど、記録は残る。奇妙な記憶と、そしてまたきっと記録だって奇妙なのだ。

 いろいろなことがあり、恐慌が起きたり、ウイルスが流行ったりしているけれど、みんな時間の中にいる。同じ空の下にいるから同じように尊い、なんて絶対に言わないけど、例えば同じ東京都に住んでいる人の間でも、見ている真実が違う。

 多義的な世界を生きるということは不確定な世界を生きるということだ。未来も過去も今も、正しいことなんて何一つない。その中でなぜか生きている。

 褒めてるのかけなしてるのか、よくわからない文章になっちゃったけど、この小説から僕はすごくポジティブな印象を受けた。とても良い小説だった。今は、とりあえず生きていこう、という気持ちになっている。