ゲージュツ的しつけ

フェレットのしつけが書いたゲージツ的なしつけ術の数々。メール→fererere25@gmail.com

空間は伸縮可能である

 りんごがいくつも落ちている。森の中に一ヶ所だけ開けた草原があり、木々に囲まれてぽっかりと開いたスペースになっているから、動物たちがここに来るのを待っていた。今日はそこにりんごがたくさん落ちている。この付近にリンゴの樹はない。

 木漏れ日が差す草原の向こう側に小さな池があり、その前には苔むした岩が鎮座している。そんな風に、衛星写真からは見えない微かなスペースがいくつも点在しているから、森の中は広い。

 空間は、例えば何平方メートルとか、そういう範囲で測れるものではない。草原にりんごが落ちている。このりんごが風に飛ばされると、その空間の大きさは変わってしまう。いやそれは決して悲しいことではない。水があり、その水辺に神聖な、四つ足の長いツノを備えた鹿が歩いてくる。それを合図に森の動物が、様々な大きさで、様々な歩き方で現れて、その動物たちの数だけ水辺は広くなっていく。キリストが一つのパンを何百人に分けたように、空間は個別の存在によっても規定されているのだ。

 僕らはつい箱詰めをするように世界のことを考えていく。空間は区切られた壁の中の世界で、僕らはその中のスペースを陣取りあって、奪い合って生きているような、イメージ。

 しかし現実はそうではなく、存在の数が空間を変化させる、というか空間の側が変化していく、そのような伸縮性を備えているのだ。長い文章が細部の積み重ねで出来ているように、空間のフレームもディティールによって変化する。そのディティールとはもちろん僕であり、ベッドであり僕たちであり、森においては動物たちだった。りんごだった。木だった。岩だった。

 とはいえど動物たちに許された特権である行動、自由な行動、あの奔放さに岩は憧れていた。僕の体に住んでいる苔だって風に運ばれてきたのだ。僕を運ぶものは自然界には存在しない。いや、僕だって運ばれてきたのだった。岩は思い出す。

 かつてあの大きく茜色に染まる山がもっと巨大にそびえ立っていた頃、宇宙から見た地球が暗黒の陸の塊だった頃。僕はあの山の一部だった。内臓の中で静かに転がる機関の一部だった。機械的な生活だ。水もなく、動物も、木もいない。風もなかった、あの頃。僕は悠久にも思える時間の中で、いや、正確には比較する時間がなかったから、つまりは流れが存在しない世界の中で、ただ僕一人だった。他の岩たちもまた、ただ岩一人一人で、火口から差してくる太陽の光すら、知らなかった頃。

 巨大な揺れが起こり、それは僕に現れた初めての時間として、起こり、あの日から僕は相対的、という感覚を知ってしまったあの揺れが起こり、しばらくした。僕はしばらくを感じることができた。そう、しばらくしてから巨大な放出が起こった。あれは、気持ちが良かった。

 僕は何かとてつもない力によって押し出されて、僕と一緒にいくつもの岩が押し出されて、そして、火口付近に近づいた時、初めて太陽を見た。僕以外の存在は、岩、揺れ、太陽、そして僕を押し上げる何か。時間を教えてくれたのは揺れだったし、そして太陽は、ぼくに、生命を教えてくれた。どうやら生命とはぼくと少し違うものだと思った。いや、僕を押し上げているこの何かがもしかすると僕の生命なのかもしれない。そしてまた、しばらくが来て、僕は空に投げ出された。

 僕は空から世界を見た。世界というものを初めて知った。世界という言葉を知らなかった僕はずいぶんともの珍しそうに空から下を眺めていた。荒野に僕は降り立った。

 それから何度も雨が降って、草原ができた。風が吹いて、樹々が生まれた。その度に空間は広がっていき、何事もないまま僕はしばらくをいくつも集めて、一番幸せな岩石に、思えばいま、なったものだなあ。

 岩は思い出す。空間が広がっていく過程を。岩を見ながら木々は風にそよいでいる。