ゲージュツ的しつけ

フェレットのしつけが書いたゲージツ的なしつけ術の数々。メール→fererere25@gmail.com

記憶の中の深い海

 ぼくはある部分はとても成長していて、ある部分は非常に幼い。

 始めたばかりなのに上手くいくこともあれば、いつまで経ってもできないことがある。

 多くの人がそうであるように、ある時は優しく寛容で、慈悲深い。ある時は怒り、悲しみ、絶望する。

 基本的には、寝ていたい。この部分は多くの人とは違うかもしれない。

 得意、不得意がある。そして気分の浮き沈みがすこし激しい。

 こういうのは社会的に得意なことがはっきりしている人が書くものだと思っている。

 自分語りの価値、ここでいう価値とは、市場価値に近いのだけど、もしくは、人になんらかのメリットを与えるかどうかだけど、この文章にそういう意味での価値はあまりない。けれどぼくは今これを記録したくなった。そういうものだと思う。

 特技はある。その多くは意図的にしろそうでないにしろ長く続けてきたことだ。

 水をたくさん飲むことができる。自己催眠ができる。自己催眠に関しては八年のキャリアがある。一日にあまり食べずに活動できる。長いこと遠い道のりを飽きもせず歩くことができる。

 長く続けてきたのにできないことも多い。できることとできないことの数を比べたら絶対にできないことの方が多い。

 英語ができない。苦手科目だった。必然性がないままに文法だけをやったってできるようになるはずがない、と文句をずっと言ってきた気がする。英語自体はかなり好きだと思う。

 将棋は小学生からの趣味だけどそんなに強くはない。けど好きだ。

 料理は苦手だ。お菓子作りはうまい。掃除は頻繁にやらないけどやる時は満足いくまでやる。頻繁にやらないのでほとんどの時期部屋はごちゃごちゃしている。

 洗い物は好き。洗濯機は苦手。パソコンを触るのは好きだけど、メンテナンスは得意じゃない。

 予定を立てるのはほとんどできないけど、予定がなくても楽しむことができる。

 良いところもあれば悪いところもある。

 誰かにとって良いところがあれば誰かにとって殺したくなるくらいイヤなところもある。

 良いものを多く知っている。良い音楽、良い本、良い料理屋さん、良い場所。

 記憶をたくさん持っている。持っていたいと思う記憶がたくさんある。

 捨ててしまいたい記憶もあるが、そういう記憶はよく思い出す。捨ててしまいたいけど思い出す記憶がきっと本来は重要なものなのだろう。

 大切な記憶と重要な記憶は違う。

 こんなふうに色々飽きもせず考えていることができる。

 本当は人間は未来も過去も現在もほとんどのことを知っているのだと思う。

 子供がすべてを敏感に察知して、悲しい気配に泣いてしまうように、予期する力と推量する力、つまりそれは未来と過去を想う力を持っている。

 だから子供はすべてを知っている。大人もすべてを知っている。

 身体はすべての記憶を持っている。

 DNAの情報は転写され続け、アフリカで最初に立ち上がったサル、現生人類すべての母親の記憶、樹上生活の記憶、サルになる前の哺乳類になる前の魚類になる前のカンブリア紀の記憶、それらはぼくにもぼくの母親にもぼくの周りの子供たちにも受け継がれている。

 夢をよく見る。

 定期的に女の子と遊ぶ夢を見る。

 理想的な女の子が夢には登場する。

 理想的な女の子は、その娘の性格がどうとか、良いことをするとかそういうことじゃなく理想的な女の子で、ぼくはその娘に無条件に恋をしている。

 たとえその娘がぼくを殺したとしたって、それは必要なことだろうと思う。

 夢の中でぼくは女の子に導かれるがままに進んでいく。遊園地を案内したり、教育実習に行ったりする。気が進まなくても導かれていて、きっと現実でもそうだ。

 女性が好きだ。女の子に導かれたいと思っている。

 自己催眠が好きだというくらいだから、トリップするのが好きだ。

 薬物は好きじゃない。向精神薬を飲んだことがあるけどあの奇妙な静けさはどこか人間性の否認という感じがする。

 薬で救われるのであれば良い。たしかにそれは人を救っているのだから。

 薬に対して対抗心がある。

 自己催眠はある種自己治療だからだ。

 自己催眠をかけても変な世界を見るわけではない。LSDのように脈絡のない世界を旅するのではなく、自分の記憶の中にある穏やかな景色に入っていって安らぐだけだ。

 なのでそれは治療行為によく似ている。

 ぼくが文章を書くのも音楽を作るのも、結局は記憶の中の穏やかな景色に入っていくためにやってる気がする。

 シェルターか、あるいは避難所のような感じだ。このブログの記事の大多数は僕の避難所になってる。

 この間は、深海のような場所にいた。光が差し込むコバルト・ブルーの海の中で岩の上に身を横たえていた。

 深い緑の海藻が揺れて魚が銀色の身体を光にかざして、ギラギラと身をくねらせていた。

 真っ青なアクアマリンを覗いたらきっとその奥の方で見えるみたいな深海の景色で、ドナルド・フェイゲンの『サンケン・コンドズ』のジャケット写真によく似ている。というか先に頭の中にあったアートワークが再生されたのかもしれない。

 あるいは『シェイプ・オブ・ウォーター』のチラシみたいな情景だ。

 シューマンの歌曲に『美しい五月に』というのがある。

 すべての花が開く美しい五月に、私は彼女に恋をした。

 と、詩人が回想する歌だ。

 その曲の冒頭を聴くと『シェイプ・オブ・ウォーター』のチラシを思い出す。

 五月の地上と深海は大きく違う場所だけど、シューマンの音楽はどちらかというと深海の方に近い。

 ぼくの記憶の中の深海に呼応する音楽なのだろうと思う。シューマンの中でどのような景色があったのかは知らない。彼は精神を病んで晩年を過ごした。

 ぼくの記憶の中の深海は、あるいは遺伝子の記憶ともつながっているはずだ。

 ぼくは昔サルで、ネズミで、魚で、アメーバだった。

 長い間、光が差し込む海の中で緑の海藻たちとともに暮らしていたのだ。  

fererere25.hateblo.jp

fererere25.hateblo.jp

fererere25.hateblo.jp