ゲージュツ的しつけ

フェレットのしつけが書いたゲージツ的なしつけ術の数々。メール→fererere25@gmail.com

たったの三日もあれば世界は変わるけど、世界が変わったことにはだれひとり気づかない

 2020 7/6

 朝起きると、8:00くらいだったのを覚えている。昨日はたくさん歩き、たくさん食べてから催眠誘導を聞いて、解催眠を聞かずにそのまま寝ついたのでずいぶんと深く眠ることができた。睡眠時間は少ないもののすっきりと目覚めることができて、僕はどうやら運動、食事、睡眠、そして少しの趣味があれば基本的に快く生活ができるみたいだ。

 朝起きて、食事をしてから髪の毛を整える。youtubeで美容師がやっているセットの動画を見ながら髪の形を整えるけどうまくいかない。何気ない動作の端々がきっと大切なのだろうと思い、何度も巻き戻して見たけどどうやっても髪の毛が跳ねるか、クシャっとするか、ペタンと落ちてくるかの3パターンしかない。いい感じに立たせたいのになぁ、と思いながら諦めて家を出る。

 行きがけにウイイレをやる。この間立ち読みした『必ず食える1%の人になる方法』という本の最初のほうに、いくつかの質問と、それによって自分がいまどのあたりのボリューム層に分類されるかを示すフローチャートがあり、その最初の質問が「電車のなかでゲームをやる習慣がある」だった。ぼくはyesと答えるべきなのかもしれないのだけど、そのときは見栄を張って、誰への見栄かと言うと、ほかでもない自分に見栄を張ってnoと答えた。

 1%と言ったらすごい希少価値のように思えるけど、数で言えば百人に一人ということで、百人に一人というくらいの特殊性ならどうということはなく、おそらくどの人も全て百人に一人くらいの専門性や個性のようなものを持っている。書籍のタイトルの1%は比喩というか、大きさをあらわすイメージでしかないのだから、この指摘は当たらないのだけれど、思った。

 ガチャを引いた。課金をせずに引けるガチャというのは嬉しい。それで良いのが出たから、なおさら嬉しい。(実在の人物をもとにキャラクター化したものを良いとか悪いとか言うのは複雑だ。心苦しいわけじゃないけれど、複雑だ。)一時間半くらいは棒に振ったって良いのだ。人生は長い。しかし感情は短く過ぎ去るのだから、心地よいと感じるときにやったほうがいい。

 ぼくは『体癖』をみる限り、四種体癖というやつだ。体の左側に体重がかたより、内向的で細身。副交感神経が優位であり穏やかな印象で、感情でものごとを判断するが、感情が長くはつづかず、しかし消えるわけではないので、頻繁におなかを壊すことで溜まった感情を処理する、そのような人らしい。ひとことで言えば、感情で判断するのに感情が長く続かない特性だ。体癖論というのはどこまで正しいのかはわからない。論と言いつつ、偏見の集合体のようでもあり、ともすれば体型差別にもつながるのでポリティカルコレクトネスには反するのだけど、けっこう当たっているから面白い。占いのようなものなのか、科学と占いにどれだけの差があり、臨床的知識の集積は統計学的ではないからと言って無根拠だとは言えない...みたいなことをぐるぐると考える。

 科学は好きだ。ただ、科学的根拠がないからと言って無視するにはもったいない知識が世界には多い。本を読んでいるとそう思う。超能力者と村上龍が対談している本を読んだとき、科学的に解明できないけど、科学的に現象を捉えることはできるというような、たとえばテレパシーや手かざし医療みたいなことが紹介されていて面白かった。

 とにかく、ぼくはロジックでものを考えるときと、感情でものを考えるときの両方があるらしく、また、ロジックが働くのは感情的に飲み込めた場合に限るようだ。だから、好きなもの、できると思ったもの、興味のあるものを分析していくのは得意だけど、感情的に無理だと思ったり受け付けないものを分析することはできない。おそらく、第一印象を感情でなんとなく判断するから、文章を読むのが非常に遅い。好き嫌いを決めて、快不快を感じてから、好き、かつ快に分類されたものに対してだけロジックが働く。本来は、感情のひとだ。

 これは日記だった。日記だから一日のことを記そう。学校に行ってレッスンに行き、食事をしてからお金を下ろして振り込み、それから八時間くらい遊ぶ。

 ぼくは好きだと思った対象に対して時間をつかうのを惜しまない(嫌いなものには一秒たりとも時間を使いたくない)ので、本気で遊ぶし、八時間くらいは全然つかう。お腹もすく。帰ってくる。お風呂に入る。次の日がくる。いまは7/7七夕の0:01だ。

 七夕だ、と思う。

 考えたのはこのくらいだろうか。感情が満足することが大事らしい。ぼくは感情的な人間だ。実は、いままでは自分のことを非常にロジカルな人間だと思っていた。だから、本が読めないのは何故だろうなあと思っていたのだけど、感情が伴ってないからだ。面白いとか興味あるとか思わないと読めない。当たり前かもしれない。ぼくはいつだって、当たり前のことを再確認し続けている。ぼくはほんとはロジカルな人間じゃないのに、ロジックが好きになったからロジカルになった後天的ロジカル人間だから、先天的ロジカル人間には明晰さや丁寧さや一貫性という点で敵わない。

 先天的とか後天的とか、どっちでも良いじゃんと言うひとはいるだろうけど、僕にとってはどっちでも良くない。とても大事なことなんだ。人によって大事なことは違う。それをふと、忘れそうになる。ロジックやファクトより、感情や印象や頻度が大事だと思う人がいる。どちらが絶対的に正しいというわけでもない。こんなこと、忘れても良いんだけど、どうしてか忘れないようにしている。

 


 2020 7/7

 今週、なにも予定がなく休めるのは水曜日だけなのだけど、課題が積み重なり、やりたくないことや、使いたくない時間を人のために割くことを、いつのまにかしてしまい、心は疲弊している。

 休むとは、疲弊した心を回復させる行為で、その休みは水曜日にしか来ないのだけど、水曜日が来たってきっと心は回復しない。だからぼくにはきっともう水曜日が来ない。

 来ない水曜日を追いかける。月、火、その次はいったいなんだったのかわからない。わからないけど、気づけば一日は過ぎ去っている。ぼくは自分で使えるはずの時間や、生きている実感のうちにある人生とか、そういうものを取り戻したい。それはすべて水曜日にあるらしいのだけど、水曜日はいったいどこにあるのだろうか。もしかしたら新宿と池袋にあるのかもしれない。さいきん、夜の街に人はいない。

  一昨日、東京の夜の通りを、公明党のポスターがひらひらと舞っていた。そのときも、ひとはほとんど見当たらなかった。一番ひとが多いのは、朝と夕方の電車です。

 なにが安全かはわからないし、なにが安心かもわからない。「これをしておけば安心ですよ」と言われたとおりに動くと、ぼくは心がざわざわしてきてしまう。基本的にいまのシステムはぼくにとって息苦しく生きづらいってことを、学校がはじまってたくさん思い出した。

 これは日記だった。日記だってことを忘れるけど、日記とは感情を記しておくものかもしれない。なにが起きたか、ということよりもどう思ったか、どう考えているかを優先するもの、なのかもしれない。

 今日は12:40に家を出なくてはいけないから、なんとか11:00ごろに起きた。非常に体が重かった。信じられないくらいに。シャワーを浴びる。暖かい水を体にうけると内側から筋肉がほどけていくような感じがして、自分の体がずいぶんと冷えていたことに気づく。冷えていると、やる気が出なくなるのだろうか。シャワーから出る。しかし重い。頭が重い。体はもっと重い。こういうときはマインドフルネスだ!と思い、ベッドで横になって瞑想をする。そのうちに寝てしまって、12:00にベッドから這い出す。学校に行かなきゃならない。

 嫌なことだらけだ。嫌なことだらけだから、烈火のように怒ることだってできる。でも、感情を発散させて、いったい何になる?明日の予定もわからない。一年後、生きてるかどうかもわからない。なのに、来年の予定が立てられるのだろうか。大学四年生とはそういう時期だ。神かなにかなんだろうか、みんな、なぜ世界がいつまでも同じようにまわると思うんだろう。

 学校に行き、授業を受け、帰る。ソーシャルディスタンスを保ったオペラの授業なんてできるわけがなく、ポーズのとりあいを学生も先生も繰り返す。歌うとき遠ざかっていても、指導するときに近くにきたら意味ないでしょ、先生。そんなこと、誰でも分かってる。形骸化したポーズなら、とらなければいいのに。そんなことは言わない。ぼくは空気の読める大人だから。

 「やらないでどうするの?」「なんとか再開させなきゃなんだから」みんな言う。動いてないと不安なんだろう。やらないでなんとかなる方法を考えた方が楽じゃない?立ち止まって休んでもいいんじゃない?そんなことは言わない。ぼくは空気の読める大人だから。

 帰る。セネカの『人生の短さについて』を読む。百円で買えたのが嘘みたいだ。良い本だ。みんな建前の共有ばかりで嫌になる。嫌なことは嫌だとなぜ言えないんだろう。ぼくは、なぜ言えないんだろう。

 議論がめんどくさいからだ。戦いが嫌だからだ。表明して、戦わなければ良いのだけど、それがなぜかできない。説得されたくない。聞く気なんて元からない。誰だってそうだ。聞く気がない同士が会話したって、喧嘩になるだけだ。だから、従順なフリををして従わなければいい。みんな、一時の自分の感情にしか興味がないから、言ったことが行われているかなんて、ほとんど関係ない。確かめない。いい社会だ。最近では、記録に残すことさえしなくていいらしいのだから、なんでもやってしまえばいい事になった。やったもん勝ちのシステムは、嫌いじゃない。あとは建前を捨てて、やったもん勝ちが正義だと正式にアナウンスすればいい。弱肉強食、良いじゃないか。いつでも参加しよう。自分から命を断つ覚悟だってしよう。

 その覚悟も、建前を捨てる気概もない人間はきっと、弱肉強食の世界で生き残ってはいきづらいだろう。虚飾、欺瞞、嘘がまかり通る世界なんて間違ってる!とほんとは言いたいんです。この辺りの記述は。

 セネカの文章を読んでいて驚くのが、

 最も大きい権力を持ち、高い位に登った人々の口から、暇を求め、暇を称え、暇は自分のどの仕合わせにもまさる、と言う声が思わず漏れるのを聞くことがあろう。彼らは往々にして、自分のいるあの高い頂から、もしも安全に降りられるならば降りようと願い求めるのだ。

(引用元:セネカ著 茂手木元蔵訳『人生の短さについて 他二編』岩波文庫)

 こういう表記だ。古代ローマの話とは思えない。2020年の世を生きるぼくが読んでも生々しく、リアリティをもって迫ってくる。紀元前の時代から、忙しさに埋没している人々はいたらしい。

 人生を支配できると考えるひとは、自分の人生の予定を立て、そのとおりに進んでいくことをよしとする。時にその予定を人生設計などと言ったりするけど、人生は設計できるものじゃない。

 赤い公園の『今更』という曲を思い出した。「生き急いでったやつらを祝福できるかな今更」。

 生き急ぎたくない。けれど、税制などを考えると、生き急がない人間に対してこの国やこの社会は風当たりが強い。就職すればとりあえずなんとかなる、というのは強くわかりやすいメリットだ。その事実が人々を就職に駆り立てる。ブラック企業が無くならないのもわかる。

 でもまあきっと、フリーターでもとりあえず生きていくことができる。なんとかなる。死ななければ。

 自信のある無しには関係ない。

 自分は現に存在する、自分で自分を消す気はない。存在するのだから、やすやすと消すわけにも行かない、無理に消そうとしたら大きなコストがかかる。

 以上の理由から、生きている限りなかなか死なないと結論づけられる。死ぬつもりがなく、生きていたいなら焦る必要はない。一部の人にとっては残念かもしれないけど、税金を払わなくたってひとは死なない。ご飯が食べられないと死ぬけどね。

 非国民は生きる、生きるから非国民なのだ。非国民が死に絶えたとき、新たな非国民集団が見つけ出されるだろう。そうして暴力は続き、人口は減っていき、人類は衰退する。

 これは日記です。

 日記とは寝る前に書くものだと、そう思っていた。一日をふりかえり書く文章である。と定義していたからだ。それでは、寝るとはなんだろう。眠りという現象は眠りとしか言えない。眠りはやってくるものだ。眠りは動物の身体に記された自動的な現象で、眠りの前に僕らは受動的ですらある。では、能動的に寝るとはどういうことか。

 日記を書く時間である、寝る前とはいつだろうか。それはきっと寝ると決めた瞬間から始まる。であれば能動的に寝る、と言う時、ぼくらは一日を閉じようとしている。できたこともできなかったことも呑み込みつつ、様々な理由で(疲れなど)一日をここで終わらせる覚悟を持っている。

 であれば、日記を書くことと一日を終わらせる覚悟を持つことは関係が深い。ぼくは一日を終わらせるために日記を書く、寝るために日記を書くのだと言うこともできる。日記を書いた瞬間から一日の終わりに向けて身体は動きだしている。ぼくは今日の18:00ごろに日記を書き始めた。そのときにはもう一日を終わらせたかったのだろう。

 ぼくに水曜日はこない。もはや日曜日は安息の日ではなくなってしまった。絶対の安心安全、大地母神のような、安息。そんなものは存在しない。全てが融解し、一つになる、カタルシス。そんなものは存在しない。どんなに心地の良いセックスだって、明日になって残るのは記憶と疲れだけだ。

 眠りは、安息じゃない。マインドフルネスも安息じゃない。どんなに疲れていたって、生きている限りは生きていくしかない。そう簡単には死なないし死ねない。人生は設計できるものじゃないから。ぼくは、死ぬまでは生き続けようと思う。生きるつもりで人生と相対していこうと思う。

 


 2020 7/8

 どんなに長い間彼らは銭の勘定をし、あるいは陰謀をめぐらし、恐怖を抱き、人の機嫌をとり、人から機嫌をとられ、あるいはどんなに長い時間を自分や他人の保証でふさぎ、あるいは今では義務とさえなっている酒宴でふさいでいるか。これらをいちいち考えてみるがよい。

(引用元:セネカ著 茂手木元蔵訳『人生の短さについて 他二編』岩波文庫)

 「今では義務とさえなっている酒宴」という言葉。古代ローマ時代から、酒宴は義務だった!これからも義務であり続けるだろう。会食により心をゆるめるぼくらは、会食により機嫌をとり、機嫌をとられ、好感情の名の下に自分の時間をどんどん失っていく。

 飲み会出たくない若者は昔からいたんだろうなぁ。人間は成長しない。少なくとも2000年間くらいじゃどうにもならないというのはわかった。今週は、皮肉な気分です。

 朝の9:00ごろに目が覚める。すっきりと目が覚めて、昨日まで感じていた体の重みがないことに気づく。今日はやすみのひ。薄々感づいてはいたけど、あの重みはストレス故のものだったのかもしれない。

 本を読み、10:30ごろに、しなくてはいけない電話をかける。そのストレスからか、文章をひとつ書き、食事をする。牛肉と野菜と米と味噌汁。

 13:00ごろにもう一度眠る。何も考えなくていい。だから眠る。ローザ・ルクセンブルクのような言葉を夢で聞くけど、どんなのだったか覚えていない。ずいぶんと長く夢に滞在していた気がするのだけど、15:30ごろに起きる。

 音楽を聴き、歌を歌う。ロッシーニプッチーニ 。声楽には一つの母音で音階を歌うアジリタというテクニックがあり、ひたすらやる。どうやら腹横筋と内転筋を使えばうまくいくみたいだ。

 https://youtu.be/SIfz8fNQw0U

 https://youtu.be/NBL4nleKGaQ

 高い声を出すときは身体を反ると出やすい。きちんとした反り方とそうでない反り方があるのだけど、その具合は個人差があり、また勉強する言語によっても、それぞれの師匠によっても差があるので、すぐにダメと言われる。ぼくの場合は反りすぎだと言われるけど、見栄えで歌を歌うわけじゃない。やっぱり音がいちばん大事なのではないかと思いながら今日もたくさん反る。

 二時間ほど歌を歌い、お風呂と食器を洗って羊羹とポテトチップスのり塩味を食べて、お風呂に入る。気づかないうちにかなり疲れていたみたいで、ベッドに戻るなり寝てしまい、23:00に起きて、日記を書いている。

 今日はかなり時系列順にかけた。特に考えたことがなかったからだろう。ストレスなく過ごせる日々は、記録してもしなくても同じかもしれない。それでも書く。日記とはいったい何なのだろうか。謎に迫るためにも書く。

 自分がせっかちであることに気づいた。生き急いでいる。お金が欲しい。認められたい。能力が欲しい。こういうのを欲とか、煩悩とか言うのだろうと思う。煩悩にあふれせっかちな人格を持っている。

 しかし、本当に自分がやりたいことは何かと考えると、たぶん、新しいものを作りたいのだと思う。新しく感動的で広がった世界を自分の手で掴みたい、というか、自分の創作物を通して考えたいというか、言葉にできないワクワクした感じがそこにある。

 新しいものを作るにはいままでのものを知っておく必要がある。だから、歴史を知らなくてはいけないし、過去の作品を、人間を、絶滅した動物を知らなくてはいけない。しかし人間はすべてを知ることはできない。新しいものや突出した人間が出てこないと言われて久しいけど、それは当たり前で、新たなことをするのに知るべき情報の量が増えすぎていて人間は追いつけない。

 知るべきことはある。しかし知ることはできない。知るためには長い長い時間が必要になるけど、ふつうに、つまりお金を稼ぎ、ものを買って食べて着て遊んで生きようとしたら、そんなに長い時間はない。人間には長い時間が残されていない。しかし、積み上げられ整理されたたくさんの情報は人間の長い時間を求める。

 このせっかち⇆長い時間という対比が、あるいはジレンマがあるためにぼくは新しいものを作ることができない。何をやっても中途半端に感じられてしまうために、新しいことができない。情報と向き合い、集中しているときにあるドライブ感や、快感を常に持って暮らしていきたいのだけど、そうすると社会的には死を余儀なくされる。

 マルクスは完璧を求めたために、ついには資本論を完成させずに死んでしまった。そう聞いた。マルクスの時代ですら、短い時間と長い時間の対比は存在し、そのジレンマに人々は悩まされていた。良い作品、素晴らしい作品を作るということは、情報が求めるだけの時間を与えてやることであり、作者は人間としての短い時間と、情報の求める長い時間との間のジレンマと戦うことになる。

 忍耐とか、時間を使うと言ってしまえばそれで終わるのだけど、事態はそんなに単純なことではなく、ただ耐えればいいということではない。集中し続ける必要がある。情報を集め、その全体を手中に収めた上でさまざまな形に文節化し、それを配置していく。口で言うのは非常に簡単だけど、これはほぼ無意識の思考の上に行われる作業であり、体力と精神力と時間を使う。その間いわゆる社会的な生産なんかしている暇はなく、集中力の続く限り、一見、狭く短い視野でみたら無意味にも見える作業に没頭していくことになる。作者の不幸は、それが一見無意味に思えることを知っていることだ。また、自分自身にもそれが一見無意味に見えてしまうことだ。この無意味であること、もしくは無意味に見えることを無駄だとしてしまう価値観そのものに問題があるのだけど、現在の社会に生きる僕らはこうした価値観を発揮せずにはいられない。社会は人間を物理的に拘束するけど、精神的な拘束は物理的なものよりさらに強い。

 具体的な行動としては、ながら行動をやめ、目の前のことに集中するということだ。これがなかなかできない。ほんとうにできない。しかしやってみるとそこには快感がある。そこに快感はあるが、何かが残るわけではない。作品とは快感やドライブ感の後に偶然残っているものじゃないかと思う。実際それが生み出される現場にあるのは作者の生きた運動だけだ。例えば何かを読む、見る、書く、歌う、考える、とにかく生きている。作者はそこで生きているだけで、集中していることがつまり生きていることで 、作品はその結果として作られるから、半ば自動的に残っているものだから、作者が作品のことをロジックでうまく説明できなかったりする。そういうことはよくある。

 作品を作る瞬間の運動が、それが真剣であればあるだけ、その時の快感の量は大きく、また苦しみや不安の量も大きく、しかし場合によっては素晴らしいものが出来上がる。そんな気がする。必死に、真剣に、高揚する。その感覚を作品は受け継ぎ、その感覚を人に与えるために、すぐれた作品は快感を与えるのだろう。

 優れた作品を作りたいし、時間が欲しい。作るというのはこの場合比喩的な使い方で、必死に、真剣に一瞬一瞬の時間を感じられるような時間がたくさん欲しいということだ。脳がボーッと熱くなって心がワクワクして体が自動で動いているような錯覚を得られるような必死で真剣な時間が感じられるような、そんな生きいる感じを少しでも多く感じたい。疲れるし、めんどくさいけど、感じたい。

 ぼくは本を読むことや文章を書くとき、楽器を演奏するときや歌うときにも、ふつうの社会的な人格を脱ぎ捨てた身体的な快感がともなう。その時はだいたい呼吸が荒くなり、深い呼吸と浅い呼吸を繰り返し、目は大きく見開き、時に身体が火照って、考え事は止まる。性的な興奮状態に近いため、人にはなかなか見せることができないが、そういう状態になった時が自分としてはいちばん楽しい。興奮と快感があり、非常に疲れる。

 簡単に言えば、ラリる。ラリることができる。本や映画や歌で。違法薬物を使ったときや、女性のフェロモンにあてられたときなんかと一緒のことが起きる。それが起きないと片手落ちなのだけど、なかなか起きてはくれない。そういう快感を忘れたり思い出したりしながら生きている。今は思い出したときなのでこうして書いている。こういうときはとにかく文章が次から次に生まれる。10分で千文字とか書ける。ただ、そうした興奮状態によって生み出されたものが排泄物とどう違うのかがわからない。作品は運動の落とし子という感じがする。残るのは運動があった時の興奮のパッケージであって運動や興奮や快感そのものではない。

 作者や本人にとってはその興奮や快感そのものの方が大事なんじゃないかと思ったりもする。それは読者としては寂しいことだと思うかもしれない。しかし、そんなことはない。受け手は受け手でありながら、その情報に触れたときの振る舞い方は自由であり、受け取り方も自由であり、つまり作品の受け手とは受けた瞬間にまた次の運動や興奮の主体になるからだ。主体の連鎖による興奮の連鎖が起こる。これは記録の二次的な作用だ。

 これは日記だ。今日ぼくは興奮している。日記として書いておこう。しかしそろそろ寝るだろう。寝なくてはいけない。この興奮を鎮める時間も必要だ。集中は興奮を生む。今の社会はなかなか人を集中させないようにできている。みんなきっと興奮したくないんだろう。みんな集中したり興奮したりするのが嫌いなんだろう。めんどくさいから。よくわかる。みんなせっかちだ。ぼくだってせっかちだ。しかし情報が長い時間を求めるのだから、情報と遊んであげよう。みんなが遊ばないならぼくだけが遊んでいよう。こんなに楽しいことはない。めんどくさいし、疲れるけどね。