ゲージュツ的しつけ

フェレットのしつけが書いたゲージツ的なしつけ術の数々。メール→fererere25@gmail.com

産まれる前

  水がゆらめいている。淡い光を発しながら、右に左に揺れている。

 光は水の中で丸い形を作って、周囲の闇を照らしていた。丸い光が水の揺れに合わせてゆらゆらしているからそれはまるで煙のように見えた。

 水の中の光は月だ。巨大な、でこぼこの鉱石。宝石よりも大事な僕たちの夜の光。女王様。冷たい死の手が水の中でただ光ってぼんやりと辺りを照らしている。

 水の揺らめきは雲のように月に覆いかぶさったり、離れたりしている。恋人のようだった。気まぐれな恋人のような水と、動かない月。月の岩肌が、濡れた岩肌が周囲に露出する瞬間もあった。そんな時、なぜか空気はピリリと冷たくなる。月が寒がっているからだ。わたしは、遠くの星で戦争が起こるのをみていたよ。みていたよ、みていたよ...と水に思考が反射する。反射した思考は揺らめいて、煙のように揺らめいては消えていく。わたしはわたしはわたしは...そんな水の周りで、闇は静かに眠っている。星のない闇の世界の中で、月は思考する。輝く。それだけだった。

 突然緑の朝が来た。月は空に輝いていたし雲は月を覆い隠していた。気まぐれな恋人のように。

 緑色の光は、風が連れてきたらしい。風が朝を連れてきたのだ。ここは草原だった。赤茶色の地面に点々と岩が乗っかって、豊かな緑色が周りを彩っている。歌が聞こえた。朝の歌だ。草原は歌っているのだ。

 風が吹くたびに光の向きが変わって草原は色を変えていく。ぼくは草の間から地面と、点々と転がる岩と、色を変える草原を見渡している。

 いつのまにか月は消え、水も消え、雲は溶けてぼくは小さい子供だった。

 小さい子供として生まれたぼくは立ち上がる。ぼくは全てを知っていたし、草原も朝の歌でそう歌ってる。

 「子どもは全てを知っているんだ」

 風が吹くたびに草原は音色を変える。よく見ると地面は光っている。ぼくは赤茶色の地面が少しだけ隆起して草の根に居場所を与えているのを見つけた。それは草原全ての原理だった。風は吹き続けていた。ーー空は、眩しく青かった。

 ナツヤスミのようだとぼくは思った。ナツヤスミが何かをぼくは知らなかった。ナツヤスミ、ナツヤスミ...草原が歌う。草原はその言葉を気に入ったようだった。ナツヤスミ...永遠に続くかと思うナツヤスミがぼくを包んでいた。ぼくは服を着ていなかった。外見年齢は4歳くらいで、短い手足を地面に転がして、赤茶色の土が濡れた肌にくっついている。冷たい、気持ちの良い土だ。気持ちの良い風だ。少ない髪の毛をそよがせている。その空間は風だったし、光だったし、ぼくだった。

  馬が駆けてきた。一匹の馬が。ぼくはその足音に、突然現れた足音に、機関銃のような足音にすくんで、体を丸めた。ダンゴムシみたいに。

 キカンジュウという言葉が浮かんだ。草原は繰り返した。キカンジュウ、キカンジュウ、ナツヤスミ......キカンジュウ、キカンジュウ、ナツヤスミ......。

 こだまのような声と風のなかで馬がわなないた。前足を振り上げて、体を震わせて。鼻から暖かい空気が出ている。見えないけど見えた。ぼくにはそういうことがよくあるらしかった。

 戦争のようだ。激しい、激しい運動。センソウという言葉を草原は気に入らなかったらしい。風が変わった。キカンジュウの声もナツヤスミの声も聞こえなくなった。周りは静寂に包まれていた。あの時見えていた闇のように。そういえば月はどこへ行ったのだろうか?

 馬は静かに鼻を鳴らした。ぼくはダンゴムシのように丸めた体を必死に上下に動かして息を吸っていた。肋骨が動く。肺に空気がたまる。吐き出す。丁寧な呼吸だ。鼻を鳴らして行った。馬のように。ゆっくりとした呼吸を続けた。馬もゆっくりと鼻を鳴らし続けた。静寂の草原で、赤茶色の世界で二つの生物がじっと呼吸を繰り返していた。風は凪いでいた。

 馬は僕をみていた。ぼくも馬をみていた。馬はぼくに何か言いたいようだったし、ぼくも馬に何か伝えたかった。僕らは呼吸をしていた。呼吸をしながら、馬は少しずつぼくの方へ足を動かし始める。右前足を、左後ろ足を。4つの足で器用に動く。ぼくは丸めた体に力を込めて、コロンと転がった。でんぐり返しとテントウムシが笑う。馬と目が合う。

 言葉をわからなかった。ぼくも馬も。伝えるべきことなんて何もなかった。草原は静寂に包まれていた。今はナツヤスミで、馬の蹄はキカンジュウで、センソウは嫌いだった。みんなぼくに教えてくれたのだ。みんなぼくから教わったのだ。

 目を閉じると、光があった。光は水の中から柱のように伸びていた。ぼくは目を開けると目の前には赤茶色の土と、そこで隆起する草の根と、硬い真っ黒な木の幹のような馬の蹄と、そこから伸びる白い足があった。ゲイジュツだと思った。ゲイジュツ、ゲイジュツと思考がこだました。一体どこに?目を閉じた先の水の中に。ぼくはゆらゆらと揺らめく水をみていた。水の中にいるみたいだった。ぼくは円柱のような光を発していた。周囲の闇を丸く照らしていた。ぼくはどうやら月だった。小さな人間としてのぼくが草原で眠っている。隣では馬が丸くなって、世界は静かで暖かかった。どこかで戦争が起こるのを私は見た。みた、みた、みた...思考がこだましている。水の中に溶けていく。水は移り気な恋人のようにぼくに覆いかぶさってはどこかへ流れていく。潮の満ち引き。暦日。長い月日がぼくの上にのしかかっていたし、それはどうやら暖かかった。

 ぼくは月として産まれるのだ。それがわかった。草原も歌っている。

 「子どもは全てを知っている」

 全てが繋がっていた。ぼくの体のように、ダンゴムシのように丸まっていた。あそこで寝ている馬のように。ぼくの呼吸の師匠である馬。白い足の美しい馬。ゲイジュツ的な蹄の馬。

 テントウムシが子供のぼくの頭によじ登って、飛び立とうとしている。ぼくは空から、水の中から、テントウムシを見ている。全ての視点が溶け合って水が出来ている。この穏やかな水の中で全てを忘れていたかった。子どもは全てを知っている。子どもは全てを知っている。