ゲージュツ的しつけ

フェレットのしつけが書いたゲージツ的なしつけ術の数々。メール→fererere25@gmail.com

砂浜とドアと死体

Ⅰ.

ドアが開いたり、飛沫が起こったりする。砂浜に落ちた影の向こうの、どこにも繋がらないドア。その向こうで海は波を立てている。白い波のかけらが砂にぶつかっては空気中に飛び散っていく。砂は白い。波も白い。

 

Ⅱ.

 砂浜にドアがポツンと立っている。木製の縁と、薄い扉。風に煽られてバタバタと開閉を繰り返している。ドアが開くたびに海が見える。海は広い。空は晴れているから、太陽の光を真っ白に跳ね返して海面はキラキラと光っている。ドアの開閉はその一瞬を切り取り、隠す。無限に不規則な繰り返しだ。

 風がやめばドアの動きは止まる。海は動き続けていた。扉の向こうに海はある。そして扉の横からも海は見えている。扉から漏れ出るように。

 

Ⅲ.

 扉の向こうだけが見えない。

 波の音が心地よかった。

 

Ⅳ.

 つまり扉が一枚存在しているだけで海は画面の中の表象になる。想像力の世界に海を閉じ込めることができる。海のすべてを手に入れることができる、そんなはずないじゃないか、と、僕は思う。僕は人間だ。僕は海を見ている。僕は扉を見ている。

 

Ⅴ.

 風が再び強く吹いた。閉ざされていた扉が開いた。そこには海の上に浮かぶ人間の体があった。死んでいるように動かない。静かだ。くだけた波が容赦なく人間の体を襲っている。僕は扉の向こうへ走った。扉をくぐっても、世界の見え方は変わらなかった。人間の体は波にさらわれていった。風がまた強く吹いた。僕の後ろで小さくパタンと音が聞こえた。

 

Ⅵ.

 扉はスクリーンだった。カメラの前で映画俳優が演技をするみたいに、僕の動きは自然だった。容赦なく打ち付けるくだけた波に向かって手を伸ばし、しゃがみ、彼の手をつかもうと腕を伸ばし、波を触り、さらわれていく体の方に目を向ける。四つん這いに砂浜に突っ伏して遠ざかる人間の体を見ている。僕はスクリーンの中の影だった。絵コンテ通りの動きをする役者みたいだった。アニメの登場人物だった。僕は影だった。波も影で、海も、人間の体も全ては影だった。僕は扉の前で演技を繰り返している。静かだ。

 

Ⅶ.

 扉の向こう側と、こちら側の区別はどの方向から扉を見たかという結果でしか判別できない。

 機械の前で演技を繰り返す映画俳優のむなしさは無声映画のファンタジーと同じで、僕らを絵本の登場人物のように一つの比喩にしてしまう。すべては比喩なのだ。僕の比喩としての僕、海の比喩としての海、言葉の比喩としての言葉、世界の比喩としての言葉、世界の比喩としての僕、世界の比喩としての脳。世界の比喩としての海。

 

Ⅷ.

 全て影だった。僕の後方に僕の影が伸びている。顔の造形は見えない。筋肉のつき方もわからない。影は目が見えない。好きなこともできない。それでも僕は影になりたかった。比喩として生きることができたらどれだけ愉快だろうか。

 

Ⅸ.

 全ては影だった。こちら側から見る扉の向こう側も、幻想の世界のように一般的だ。僕は砂浜に寝転んだ。波が足をピチャピチャとかすめていく。潮が満ちれば僕の体はくだけた波によって遠くへさらわれていくだろう。その時まで僕はここで影になっていよう。背中をジリジリと太陽が焼いている。また強い風が吹いた。バタンと強い音を立てて扉が閉まった。とても静かだ。