ゲージュツ的しつけ

フェレットのしつけが書いたゲージツ的なしつけ術の数々。メール→fererere25@gmail.com

クリスマス・コンプレックス

Ⅰ.

 街角に訪れるクリスマスの波を上手にかいぐぐって、時には乗りこなして、一人で歩き続けた。冬の夕暮れは誰かの誕生日を祝ってるわけじゃない。ただそこにあるだけの夕陽や、川や、街。ぼくはただここにいるだけだ。季節の中から逃げ出した遠くの船を追いかけながら、嘘と夢と、ほんとうの境目が曖昧になるように散歩をしている。

Ⅱ.

 荒川を横断するための大きな橋を歩く人はいない。風は川の方から強く吹きつけて来る。僕はイヤホンから聞こえて来る音楽に合わせて順番に両足を出している。道路わきに空き缶が捨てられている。中洲で暮らすホームレスの美しい自閉を目にしてぼくは水族館の悲しい熱帯魚みたいだった。

Ⅲ.

 道路の車は途切れることがない。人間をできる限り搭載したバスが駅に向かっていった。眼下で水は、小さな波をいくつも作りながら海の方へ流れていく。せき止められることなく、穏やかだ。この橋が突然崩れ落ちたらどうなるだろうか。空中でガレキの一部になってしまうのだろうか。それとも水に叩きつけられて死ぬのか。溺れて死にたくはない。僕は熱帯魚のように上手に泳げないし、バスのように上手に走れない。だから誰も通らない長い橋の上をゆっくりと歩いている。

Ⅳ.

 対岸の駅は大きなタワーを備えている。ぼくは、昼の終わりを生きる太陽の業務を見届けるための監視員だった。資本主義的な散歩。意味なんてない方がいいな、と思った。東京に林立するタワーは糸杉のように白い。たとえば真っ白な雪が降って、やさしくなりたい、つよくなりたい、そんな嘘が全部溶けていったまま、次の年へ飛び込めたら、幾つもの身体が生まれて、死んでいくホワイトクリスマスに目をそらして、誰と手を繋ごうか。

Ⅴ.

 橋の向こう側には河川敷が広がっている。三段構成の川沿いには、川の近くから、ホームレスの家、道路、堤防、そして堤防の向こう側に僕らの街がある。隔離の構造はもう出来上がっている。

 橋を降りて河川敷を通り抜ければ、駅前はすぐそこに広がっている。イルミネーションの中でぼくは一人オブジェのようにつめたい。

Ⅵ.

 満たされない、満たされないとテレビの向こうで嘆き続ける若者に共感を覚えつつ、不安を薄めるために酒を飲み続けている。くたびれた体は他人を拒否する。僕の前に広がる街を拒否する。コンビニを拒否する。それなのに液体にしてしまえばこんなに簡単に流し込めるのだから、体なんて結構雑な作りをしている。こんなに簡単に流し込めるもので心までが規定されてしまうのだから、不安や孤独と折り合いをつけるのは難しくない。駅前の、冷たい石造りのイスの上で、メリークリスマスとつぶやいてみた。鈴の音を背中で聞きながら、どうか神様、オモチャ屋の袋を提げて歩く子供たちに祝福を。今日を眠れない大人たちに安らぎを。雪が降って、今年も一つの区切りがついていく。都市が沈んで、明日になればもう一度よみがえる。キリストのように。ぼくらは毎日奇跡を体験してる。きっと今日の夜は長いだろうな、と思った。それはきっと素敵なことなのだろうなと、思った。