ゲージュツ的しつけ

フェレットのしつけが書いたゲージツ的なしつけ術の数々。メール→fererere25@gmail.com

並行する夢

 夜に慣れた目は、海の紺色の流れを見ることができた。波の上に無数の光の粒がきらめいて、それは星空のようだった。星は一つの粒だった。それはあの時君がつけてた星型のイヤリングみたいな形じゃない。世界はどこまでも細かい粒に分解できた。だから僕は君と、二つの粒として生きていきたかった。僕たちの生活が重なっていたあの時、僕は無限に広がる世界の意味を二人で分断しようとしていたのかもしれない。ある部分では成功したし、ある部分では失敗もした。結局、僕たちは交わることのできない一つ一つの粒だった。


 平日の朝の中央線みたいに雑多なものが僕らの感情である。そう言うとリリはつまらなそうにあくびをする。僕が書いた小説の一文だった。鼓膜の中で彼女の声と古いエアコンの駆動音が混ざっていた。

 綺麗なカクテルのように透明な目、そう言うとリリは僕に目を向けた。考えなしで単純な喩えを非難しないという意思表示だ。穏やかな、日曜日の午後だった。

 リリは決して笑わない。だから僕のジョークはいつでも空回りだった。僕の、ジョークみたいな喩えや描写もいつだって空回りだった。だけどそれは僕のヘタな文章のせいだけじゃない。彼女は本を読んでも、テレビを見ても、くすぐっても笑わなかった。

 けれど僕たちの距離はくすぐることができるくらいには近かったし、僕にも彼女にも行くべきところなんてなかった。


 僕らはよくデートに出かけた。彼女は手を引いていないとすぐ立ち止まってしまった。透明で、真っ白な彼女が止まっているのは美しかった。

 僕はときおり意図的にリリの手を離した。階段の上で、ガラス窓の横で、車道の真ん中で。彼女は初めからそこにあるみたいに空間に溶け合って停止した。一つの作品のように。

 彼女にとって止まることは行動しないことじゃない。むしろ停止という行動であり、停止という存在だった。その場を巻き込んだ支配的な静止。それは彼女の才能だったし、一般的には病気と診断される。

 リリはことばの容器だった。彼女の中にはことばが渦巻いていて、ときおりそれがこぼれ落ちる。彼女の目や、耳や口から。寝不足で血走った赤い目。白に重なる優美な赤い線の集まり。

 彼女の身体はことばと繋がっていたし、ある瞬間にことばを切断して話したり、書いたりする。ししおどしのように。その規則は、誰にもわからなかった。

 リリは眠らない。夜になると本を取り出して、ひとりでに読みはじめる。読み終わると次の本を求めるから、僕のアパートの床は本でいっぱいになってしまった。

 彼女は読む本がなくなると、本に張り付いた100円のシールを剥がした。だから彼女の指はいつでもペタペタしていた。それはまるで意味を吸い尽くすみたいに粘着質だった。笑わないし、眠らない、あまり食べないこの少女の身体の粘着性。あるいは精神の粘着性のように。清潔ではなかった。けれど清潔な思考や清潔な行動なんて僕にはできないし、誰にもできない。

 リリの世話をするのは好きだった。

 彼女は現実的には清潔な空間を好んだし、彼女の見た目は清潔だった。雑誌の煽り記事みたいな言葉で言えば、清純で潔白だった。真っ白だった。だから彼女はことばを求めているのかもしれない。それは破壊を求めることだろうと、僕は思っている。


 夢を見た。散弾銃のような馬の足音が木々の中に響いていた。乾いた空気の中で槍を持ってじっと、息を潜めている。空気がうすい。高台の上にいるようだった。天空の森、海から一番遠い場所に僕はいた。乾いた空気に馬の声が響いた。カタカナのヒ、ヒ、ヒが空間に飛び火して、ガチャガチャとぶつかっている。夜に見たら花火のようできっと綺麗だ。今は焼けるような夕方だ。気温が高い。じりじりと体を伝う汗が、僕の皮膚を灼熱から守っていた。

 森につながる小道を、僕は監視していた。馬はきっとここに来る。僕は息を潜めていた。小道を挟んだ向こうの木に、仲間が二人いる。僕たちは滅びる最後の世代である。ことばが浮かんだ。それは事実か?これは夢だった。とろけるほどに意味の中にいた。物語なんてなかった。全てのことは全てとつながっていた。

 大きな鼻息をたてて馬が小道に乗り出してきた。最初に反応したのは僕の背後にいる少年だった。少年がバネのように足を曲げて飛び出した瞬間に、馬は大きな足を振り上げて地面を強く踏んだ。小道には僕の仲間が躍り出て、竹や青銅器で作った様々な武器を振り上げていた。僕は動けなかった。馬の上には人がいる。持っている鉄の剣がやけに恐ろしい。そしてそれを破壊することこそが僕の使命だと思えた。だからあの少年は飛び出すことができたのだ。

 馬の上にいる人間に僕らの武器は届かなかった。たとえ届いたとしても鉄の鎧を貫通することは不可能だろう。少年が馬の前足に切り傷を与え、その足で蹴飛ばされて木にぶつかった。馬の胴体には竹の槍が突き刺さって、赤い血が静かに流れ続けていた。馬の力は強い。馬の上からは鉄の剣が無軌道に振り下ろされ、仲間が右手を失った。僕は目の前にせまる鉄から逃げ出そうとして小道の真ん中にしりもちをついた。馬が僕の上に飛びかかる。終わった、と思った瞬間に僕の視界は真っ暗になった。死んだのではない、僕の槍が馬の胴体を貫いていた。

 真っ赤な血が吹き出る。真っ白な馬の毛並みが濃い赤色に染まる。その時僕は一本一本の毛が濡れていくのを見ることができた。馬の上の人間は僕の横に放り出された。鎧と鉄かぶとをつなぐ首元に隙間があった。僕は槍をそこに差し込んで、大きく力を入れて突いた。僕は高揚し、停止していた。焼けるような夕方の世界は僕の汗と、様々な血で濡れていた。僕は胸が熱く、肩で息をした。槍から手を離した。槍はてこの原理で、兜を弾き飛ばしながら地面に落ちていった。

 鉄かぶとの下にいたのはリリだった。リリの首元からは言葉が漏れ出していた。カクテルのように綺麗、カクテルのように綺麗...ことばが悪い熱病のように木々を浸していった。僕は意味に溺れていたし、リリは真っ白に静止していた。支配的な停止だった。

 


 目を覚ますと、リリはペタペタになった指で僕の額の汗をぬぐって、僕の目を見た。それから一言「うみ」と言った。


 だから僕はこの海に君を連れてきたんだ。リリ。彼女はホットパンツと白いシャツを着た。秋に向かおうとする季節には少し寒すぎる装いだったが、それ以上何も着ようとしなかった。そのかわり、耳に星型のイヤリングをつけた。わざとらしいくらい理想的な星型だった。

 海は車で二時間ほど走った先にあった。砂浜の色はグレーで、夜だったから真っ暗だった。街灯の光を背にして堤防から降りて見た海は紺色の大きな塊だった。

 僕はリリの手を引いて砂浜を歩いた。激しい夏の残滓が砂浜に残っていた。それはこわれたビーチサンダルや、割れたビール瓶や腐った流木の形をしていた。リリの足はそれらに触れて、傷ついた。リリの傷口からは言葉が流れ出た。うみ。海。膿。宇海。卯未。有味。生満。

 光が海に反射していた。月の光は星の比喩で、星は僕たちの比喩だった。リリは白い身体をグレーの砂浜に乗せて、ぼーっと歩いた。ペタペタの手の向こうからリリの体温が伝わってきた。

 リリの体温はことばに照らされていた。そうしないと僕たちはどこにいるかわからないのだ。君に照らされている一つの粒が僕だ、そう言うとリリは僕のほうに視線を向けた。比喩だ。君はことばの比喩なんだよ。

 リリ、僕は君の比喩になりたかったんだ。うみ、といった彼女の透明な声が粒になって、空で光っている。水平線を見るのは初めてかい?と聞いてみた。リリはもう、僕の方を見ていなかった。

 海にたどり着いた。僕が手を離さない限りリリはどこまでも進むのだろう。彼女に行くべき場所なんてない。傷口からことばが流れ出て、紺色の海に浮かんだ。

 水平線に届くまでことばの軌跡を見ていたかった。リリは永遠に夢をみている。リリの中で何かがふくらんで世界はそこで全てとつながっている。僕は、手を離した。真っ白な身体を海に触れさせて、リリが笑ったように見えた。リリは月の光を浴びて、どの星よりも理想的な星だった。耳のイヤリングが揺れていたし、それは波のようだった。波のようだった、とつぶやいてリリは止まった。何もかも夢の中だった。

 僕はまっすぐ水平線を見つめるリリの瞳を見つめた。リリの瞳からもことばは流れ出していた。リリは冷たかった。透明なリリの肩は丸くて、首は確かにつながっていた。僕はリリを見た。リリはもう僕を見ることはなかった。リリの背中をくすぐった。ことばが微かに揺れた。僕はリリの背中に添えた手で肩甲骨や、頸椎や頭蓋骨を触った。リリは生きていた。僕は、リリに口づけた。リリは、笑わなかった。


 その次の日に、リリは消えた。星型のイヤリングが片方、本の真ん中に落ちていた。あとは何も、残っていなかった。


 リリへ、遠くにいる僕の声は確実に届かないからここに来たんだ。冬の海の向こうにことばが少しだけ残っていて安心したよ。世界が比喩だってことと、僕と君が一緒にいたことはつながっている。それは僕の勝手な思い違いだった。けれど今でもたまに、夢をみる。