ゲージュツ的しつけ

フェレットのしつけが書いたゲージツ的なしつけ術の数々。メール→fererere25@gmail.com

実験動物の妄想についての1000文字レポート

 一人だけ取り残されたような気持ちがしている。時の流れは早く、それはぼくの思考よりずっと早い。ぼくの成長よりずっと早い。

 本を読んでいると、その本について色々解説とかが書いてあったりする。友人と話したり、ネットで検索すれば様々な感想が返ってくる。

 そこには、ぼくの読み取れなかった部分、ほんとうのことを言うと、ぼくには情景として理解すらできなかった部分の理解が書かれている。克明に、詳細に。

 それを読むと、世界でこれを理解できないのはぼくだけなんじゃないかという不安が生まれる。それだけの知性を自分が備えていないのではないかという不安。自分が世界に取り残されている不安。

 ぼくは時に、変な妄想をする。

 自分は実験動物のサルで、ほかの人間は宇宙人のように、とにかく自分より遥かに高い知性と能力を持っている。彼らは、この下等なサルを育てていくと何に興味を持ち、どの程度の知性を育むことができるのかを調べるためにぼくの周りで様々なことをする。

 テレビ番組を用意したり、本を用意したり、ポルノを用意したり。彼らはぼくを絶えず監視していて、実験ノートは溜まっていく...。世界は壮大な実験室である!みたいな。バカげた妄想だ。

 ここで大事なのは監視されているという部分ではない。

 自分が下等なサルで、ほかの人間は全てにおいて自分を上回っているという部分だ。取り残されてる感覚が、たぶんこの妄想にあらわれている。

 それと同時に、あくまでも自分は保護された存在であり、甘やかされているという感覚もある。自分では何もせず、周りが条件を整える。自分は観察され大切にされる価値がある存在だと、根底では、思い続けている。

 生存の条件を握られているということはほかの人間の考え次第で死ぬことにもなっている。これは妄想を基にした運命論みたいだ。死ぬ時は実験の終わり。

 ほかの人間には決して追いつけず、保護され、鑑賞され、バカにされ、笑われる。それに抗議しようにも、自分以外はすべてに於いて自分より秀でているのだから文句も言えない。

 そしていつか死ぬ。無様に生き、哀れに死ぬ。ここまでが妄想だ。不安と不信に基づいている妄想だ。

 時の流れは早いという話だった。

 時の流れは早く、ぼくの進みは遅い。劣等感にさいなまれてバカげた妄想をすることもある。こういう時は、寝るのにかぎるから寝よう。良い夢がみたいです。

会話 人称の移動 融合(カメラとか因数分解とかによせての)

 鳥の羽がビルの間をななめに傾かせて通っていくのを見た。ふっくらとした体の年老いた鳩がぼくの足下で草を突っついている。何の気なしに言葉をつぶやく君の声をぼくは聞いた。正確には音を聞いた。音に意味が伴わなければ声じゃない気がする。ぼくは音の方だけ聞いて意味は聞いてなかった。

 「だから、対岸を見てって言ったの。私が川のこっち側と向こう側で微妙に光の当たりかたが違っているのに気付いて、それを彼は知ってるはずだったから。その微妙な違いを撮るのが写真家だって私は先生からこっぴどく言われていたのを、あなたも知っているでしょう?」

 ぼくは知らない。微妙な光の違いも、象徴と記号の違いも知らなかった。だからそう答えた。彼女は首から下げたカメラを持って、急に立ち止まる。パシャパシャと音がして鳩の時間が止まる。SDカードの中で。

 「パシャパシャなんて当たり前の擬音使わないでよ。待って、私が行くまで。」

彼女は早足でついてきた。ぼくは紳士じゃなかった。

「鳩の胸のところの毛の色が少しずつ紫だったり緑だったりするのを私は見つけて、いつかアシスタント付きのスタジオを持ったら鳩の羽を一枚だけもらってきて光の種類を試しながら何百枚と写真を撮ってやろうって話したの。先生は笑って、先生は厳格な人だけど厳しくないから私によく笑ってくれるの。それで、笑って、『光源を真面目に考えて見たことはあるか』って。それで例の光の話になって、その日はそれでおしまい。何もちゃんと技術なんか教えてくれないけど、まあそれでいいのよね。私は彼のアシスタントとして十分に仕事をしてるし。先生はたぶん、仕事のことなんて本当はどっちでも良くて、光とか時間とか、夜ご飯とかそういうことばっかり考えているから、写真がうまいのね。」

 君だってうまいじゃないか。とぼくはひどく一般的なことを言った。例えばオペラ歌手の歌が、誰がうまくて誰が下手かなんて分からないように。つまらないことを言った。

 「前衛芸術家の作品に優劣がつけづらいように。それでもはっきりとその差はある。例えば歌手だったら音とか、芸術家だったら色とかね。その微妙な違い、なんていうの?微分?一番小さくした数ってあるじゃない。」

最大公約数?

「そんな感じ。因数分解みたいな。その一番小さな構成要素が、結局のところ違いになって、見る人が見れば、聞く人が聞けば、それが優劣になる。見る人や聞く人が社会的立場ならそれが一般の評価になる。写真の場合それが光だって、たぶん先生は言いたいんだと思う。」

 ぼくもさっき音について考えていたんだ。それを思い出した。地球の公転周期みたいに、眠れない子供の夜泣きの間隔みたいに、何かが自分や世界を通して循環していて、会話とか思考とかもそういう循環に巻き込まれてしまう。彼女は写真を見比べて足を止めたから、ぼくは最大限の紳士性を発揮して、立ち止まって彼女の方を見た。光がなんとなく彼女を照らしていてそれは今までのどんな瞬間とも違っているようにみえた。

煙は

 便所からタバコの煙が灰色に上がって、チェーン店の大衆酒場の光に照らされて、また街灯の光に照らされて霧のように空へ飛んでいくのを僕はじっと見ていた。

 もう店内では吸えない。

 タバコは彼のものじゃなく、僕のものでもない。僕はタバコを吸わない。もらいものだ。彼はタバコの箱を手に持つと、神妙な顔つきでフィルムを剥がし、上部をパカッと開けて1本だけ取り出し、それも普段神経を使わないことに神経を使っているような、特段男らしい彼がやけに繊細に1本取り出すので、不思議な気持ちにもなった。

 女に触れるように、いや彼の場合女に対してもそんな丁寧な扱いはしないだろう。では、誰に?僕の頭には老いた母親に触れるように、という比喩が浮かんだ。甘えるようにタバコを吸うのだ。タバコを吸う男は皆。なんとなく、不機嫌をぶつけるようにして吸う。タバコを吸った瞬間に感じる一瞬の緩んだ表情を悟られまいと、とっさに口を一文字に結んで、安心なんてしていないぞと見せるようにより神妙な顔つきになる。その時の顔が泣き出す前の子供のようで、僕はおかしくなる。

 口寂しいものがタバコを愛好するようになると聞いたことがある。タバコを吸うと、男は自分の男性性を思い出すようだ。タバコを吸うと、どこか懐かしくなるみたいだ。僕は人の懐かしさを奪ったり、懐かしいと思うきっかけを奪ったりするのは悪いことだと思うから、タバコの規制には反対だった。幼い日に遊んだ公園を取り壊されるような気持ちがするのでは無いだろうか、それどころか、タバコが母親のメタファーだとすれば、母親と触れ合う機会を減らされた子供、あるいは孤児のような気持ちさせられるのでは無いか。これは非喫煙者の勝手な妄想に過ぎない。彼らはそんな、比喩とか関係なく自分が求めるから吸っているだけなのだと、その道理はわかっているつもりだと、そんな意味を込めて、タバコを吸う彼の目を見る。彼の目は退屈そうに見せているけど、やっぱり安心しきっていて、だからタバコの煙はあんなに穏やかに空へ向かって飛んでいくのだ。

生きてるみたいに

 文庫本をめくる左手の抱える紙の束が薄くなっていくにつれて僕は興奮していった。自分の喜びが目的の達成ーーしかも、物理的な目的、ただただ読み終えるというその一点のみに集中している事実が、なんとも悲しい。

 きっとこの文章の束を読んで何か得たり、何かが始まったりするのを期待しているからじゃないのかと思った。自分が何か変わる。そんなことあるはずはない。期待をしてはいけないと、みんなが言っている。みんながやっていることをするなと、みんなが言っている。人間がやっていないことなんてもはやあるのか、あるのだろうきっと。想像力だ。あとはすべて想像力。

 とにかく、本を読むことではなく、読み終えることが喜びだった。同じくらいの喜びは、本を手に入れたときに訪れる。僕にとって本の内容は肝心ではなく、興味を持つこと、手に触れること、時にはネットで検索すること、そしてお金を払うこと。それが目的で、あとは読み進めて、読み進める行為が達成されること。内容はプロセスの一環でしかなく、理解をしようと思って読むが、理解できた試しなんてない。

 いつだってそうだ。始まる前と、終わる瞬間が一番気分がいい。音楽だってそうだ。聴いている間の時間は、格好つけて言えば、聴いている間にのみ流れる。音はその瞬間だけで、それは文字でも同じことだ。限りない瞬間的な受容と取捨選択の微分。認識の微分。身体が生命を維持している中に一瞬ごとに現れるストレス。それ以上のものはない。格好つけて言えばそうだ。簡単に言えば、何ひとつ分かんないってことだ。理解力がない。

 始まる前、生まれる前、この細胞が分裂を開始する前、血と共にトイレに流されなかった幸運な一つの細胞が生まれる前、少女の母親、初潮前の、今この肉体につながるものがすべて存在しなかった時間。

 おそらくその間、いつからいつまでかはわからないその間は最高に幸福だっただろう。希望と未来しか存在しない瞬間。瞬間でありながら永遠でもあったはずの、その時、始まる前。本を購入する前のように、見知らぬ場所に行きたいと思った瞬間のように、ライブラリに登録する音楽を見つけたときのように幸福だろう。

 しかし、人生は始まり、今この瞬間の微分の永遠の積み重なりとして僕ができてしまい、何かを考えたり、感じたりすることによって最大の幸福は失われてしまった。あとはページをめくるように時間が過ぎるのに耐え忍ぶのみで、左手に抱える紙の束は、いわゆる寿命というやつだけど、どんどん薄くなっていくのを、期待と、若干の寂しさを持って感じていくだけだ。感じているだけの自分という、なんとなく客観的なような気がする視点が僕を安心させている。瞬間を感じるだけ。過去は過ぎ去り、未来は次々に現在へと置き換わっていく。そして紙の束が減る。

 左手の紙の束の重みを感じることができないのもまた不幸なことだと思う。そして幸福なことだ。余命宣告とうつ病の関係を見たことがある。余命宣告を受けた人は三ヶ月以内にうつ病にかかるケースが大変多い。未来を知ると鬱になる。なのに未来を考えるのが、大人ということになっている。いや、こんな文句は言ってもしょうがないし、そもそも言う対象なんていない。

 終わる瞬間はきっと幸福だろう。終わるにつれてきっと興奮してくるだろう。なんであれ達成だ。読むことも聞くこともストレスだ。きっと生きることもストレスだ。感じているのは誰かわからないけど、誰かにとってストレスだ。いつか終わる。達成される。達成感を感じることはあるのか。死ぬことで、何かを得ることができるのか、生きていることは何かを得ることになるのか、いったい何を得るのだろうか。いったい何を失うのだろうか。生きてるみたいに本を読んだり音楽を聞いたり、文章を書いたり歌ったりしたい。生きているみたいに、生きている限りは結果的に必ずそうなる。すべての行動のロールモデルは生きていることだ。

終結しないこと、無意味さ。

 夕暮れとか、砂漠の始まりとか、どうしてもたどり着かないもの。決してたどり着かないところへ向かってずっと歩き続けているひとがいる。

 虹の根元へ行こうと思った理由を彼はこう話した。「行かないと鬱になって死んじゃうからです。」

 でも、虹の根本なんて無いんだよって言うと、無くても行かなきゃいけないと言う。科学的には、不毛だ。彼は不毛な一生をオーストラリアの砂漠の、赤茶けた砂の上に転がる一つの石のそばで終えた。

 オーストラリアの伝承では、その石の根本に蛇が眠っており、その蛇の力によって空に虹がかかるのだという。彼は虹の根元を見つけたのかもしれない。目的を達成して、死んだ。つまり彼にとっての生命とは一つの目的と、それに至るまでの遅延のことだった。そしてそれは動物性の否定で、人間であるということだろう。彼は長い放浪生活の中で、動物と人間の間を揺れ動いていた。

 動物性の否認という意味では、彼の旅、もしくは生命そのもの、追い求めるもの全てがそれを担っていた。しかし旅を続けるのは、人間性の否認でもある。時に、平原の虹の根元を探していたとき彼は森の中に入ってしまうことがあり、そうなるとしばらくは出られない。方位磁石もスマートフォンも持たないから。彼は自分の血を吸ったひるを右手の親指と人差し指で潰したとき、広がる赤い血を見ていたときのことを思い出し、それは衣服を着ていることを忘れさせるような感触だった。

 目的への永遠の遅延ということであれば、とあるジャズピアニストはもう三日間も即興を続けている。曲に終わりはない。永遠のアドリブが続き、ハーモニーは解決することはない。終結しないこと、無意味さ。解釈に到達せず、彼の生命は揺れ動くことでのみ揺れ動き、生きることによって生きているような、感覚。

 彼は多くの人を愛したし多くの人に愛された。子供はいなかった。妻もいなかった。正しいとか正しくないとかではなかった。承認欲求と手を切りつつ、人前での演奏を喜んだ。常に揺れ動いていたのだ。三日続くライブの音はマンションの窓から漏れ出し、苦情を言いに来た人がインターネットで拡散し、結果的に観客は数人いた。面白がっていたのだ。それは公開自殺のようなものだと思われていたのだ。ジャズピアニストはそんなことをつゆ知らず部屋の中で無限のアドリブに埋没してそのコードが解決しないように彼の生命もまた解決しないうちに死んでしまいそうになる。クラクラするのを楽しんでいる。それはひどく動物的な感覚だ。遅延の中だ。死ぬまでの暇つぶしとは、つまらないことだと思っていた。ジャズピアニストの両親は東京で印刷業を営んでいる。

おうだんほどう

 駅の階段を降りて、目の前に大きな通りがある。横断歩道は5メートルくらいの横幅があって、ずらーっと人が一列になっているから、昼の時間の駅前は混むのだと分かった。

 今日はよく晴れていた。僕はイメージを膨らませながら歩いた。人々が何かざわめきを発していた。電車が音を立てて到着して、あと数秒で発射するだろう。車は止まる。止まる時にも音が鳴る。信号が青になって、「青になりました。気をつけてお通りください。」と、女の声でアナウンスが入る。たとえば地球が終わるとか、そこまで大袈裟じゃなくても、感染症か何かで人が居なくなった街で、この女の声は鳴り続けるんだろうか。今日みたいに晴れた日の、誰もいない横断歩道で鳴り響く「気をつけてお通りください。」の声を想像した。ずぼらな役人がスイッチを切り忘れて、電力を無駄に使いながら、その供給が止まるまで定期的に続く警告の声。それはもはや生命のようだと思った。行為に意味が伴わなくなった途端に、生命のような気がするから、不思議だ。生命は意味がないのかな、とか思った。横断歩道を渡り切った。電車は発車して、次の電車が止まっていた。

 僕は横断歩道の目の前のセブンイレブンを左に行って、吉野家とパチンコ屋の間の路地に入った。ふと、これは夢の中だと、思った。もしこれが誰かが見ている夢の中なら、ある瞬間、その人の耳もとで大声が鳴るとかしたら、僕の意識はふっと消えてその人の現実が始まるのだから、それなら僕が仕事をしていないこととか、生活費を下げようとかそう言うことは全て無くなるのだから、目覚める瞬間が来たらそれはそれでいいなと本気で思った。

 僕は路地を入って行った。路地は両側にハンコ製造工場とか印刷会社とかの看板が並ぶ通りで、コンクリートに囲まれている。地面がアスファルトで両側がコンクリートだから、僕に残された自然な空間はもはや空しかなく、空はこんな風に追い込まれた僕から見たら、そしてこの気軽な身分の僕から見てもひどく能天気に真っ青で、雲がぷかぷかというか押し流されているのが見えて、あんな巨大な水蒸気の塊を押し出すだけの風の力はなんだかえらいと思ったし、そこで風力発電をすれば凄まじいエネルギーを得られるのではないだろうかと妄想した。でも自然はそのままでいてほしいとも思う。ナイアガラの滝で水力発電を始めたりしたらなんだか感動できない。しかし感動するとかしないとかも人間の勝手で、発電をするのも人間の勝手で、滝は滝であって、どっちにしろ人間の都合に付き合わされて勝手な意味を付与されているのだから、どちらにせよ何も変わらないのだろう。滝によって恩恵を得るなら滝にとって一番良いようにするべきだと思った。都会の大通りの音や電車の音は滝のようだった気がする。そうじゃなかった気もする。

 路地の中からは色々な音がした。いや、ざわめきというか、音だ。何か低音でじーーーーっと鳴り続ける音、足音、カラスの鳴き声。「兄ちゃん、ちょっと、」振り向いた。

 「ちょっと、こんにちは。あのさあ、」僕はさーっと冷たくなる思いがした。こんなところで話しかける奴なんて危ない奴に決まっているから僕は早足で通り過ぎようとすると「おいこら、まてよ!」などと叫ぶのでたまらず駆け出した。相手は爺さんだった。爺さんだから追いつけないだろう。実際に、追いかけてはこない。僕はほっとして、しかしこういう風に新たな出会いを無下にしているかぎり、自分は成功しないのではないかと思った。成功する人間は新たな出会いを拒まないと、この間立ち読みしたビジネス書に書いてあったから。

 いや、そんなことを思ったのは落ち着いてからだ。しばらくこの道は通りたくない。あの爺さんが張っているかもしれない。刑事ドラマの見過ぎかもしれない。僕は、この夢を見ている人が早く目を覚ませばいいと思った。死にたい。死にたい...?

 死にたいのかな、と思った。いや、そんなはずはない。走って疲れて喉が乾いたので公園の自販機でミックスジュースを買った。死にたい人間は飲み物を買わないだろう。いや、そんなことはないのか。大岡昇平の『不慮記』には、死ぬ前に渇きを癒したいと考えるフィリピン戦線の兵士が出てくる。たとえ死ぬと確信しても渇きとはそれほどに満たさなくてはいけないのだろうかと、不思議になる。不思議だけどその矛盾が生きることだと思ったから僕はそのあたりの場面が気に入った。小説を読むのは好きだった。あの爺さんみたいに怒鳴ってはこない。

 どちらにせよ死にたいとシリアスに考えているわけじゃない。逃げたいのだと思う。僕は、仕事がないから何かから逃げたいのだと思う。生活水準が下がったって人と比べなければ幸せだ。幸せだと思うことは低コストで叶えられる。いっそのこと、生活費の安い海外に移住しようかと思った。平日の日射しが強い春のジメジメした公園で、「海外 移住 安い」と検索する、そんな自分の姿を小学生のとき、想像したことがない。

ハグれモノ行進曲。

 日記を書いてみることにした。日記は毎日続いているし、毎日続きを記録することが長編を書く練習になるっていう文章を読んで、それはすごいと納得したから。

 2020 3/29

 曇りのち雪のち雨。昨日は17度くらいあった気温が今日は4度。雪が降った。明日は13度になるらしい。よくわからないけど空調を使えば家の気温は一定なので体調を崩さずに済むのではないかと思う。

 それにしても暖冬だって言ってやたらに早く桜が咲いて今ちょうど満開くらいなのに、突然ピンポイントで雪が降るなんておかしなこともあるものだ。

 桜が咲いてるのに雪が降っているこんなおかしな状況に家に引きこもっているのも仕方ないので桜と雪を見に行く。川沿いの公園には同じような花見客がいて、みんな決まってビニール傘だったのはなぜだろう。

 桜を観察する。雪と桜はどちらも綺麗だから合わさった景色はもちろん綺麗なのだが、桜は雪と共存するようにできていないだろうからかわいそうだと思った。

 見ると桜の花びらは下を向いている。雪の重みに耐えかねたような表情は痛々しさを感じさせる。蕾の上に水の滴が溜まっていて重そうだった。これはきっといつか雪だった滴だろうと思う。おかしなことになって一番の被害者は桜だなと思う。

 雪は動き続けていて、それは重力で動いているからなんか雪が生命というよりは地球の運動の一部なんだろうけどとにかくいつまでも動き続けていて変な感じがした。桜はずっと止まっていて彼らの身体の中では細胞が動き続けているのだろうけど、その動きが寒さで緩慢になるから止まって見えたのだろうか。桜並木が華やかだけど少し悲壮感あふれていて、奇妙な面白さがあった。そういうと桜には悪いが。僕は地球規模のエゴイストなのかもしれない。消費者として生きる。

 昼寝を四時間する。またやってしまったと思いつつほぼ確信犯である。やることがあるとストレスで起きてられるけどやることがないリラックスは眠りに向かってしまうなあ。

 起きてから坂口恭平の日記を読み、大岡昇平の『野火』を読む。めちゃくちゃ面白い。文章をひとつ書く。井上靖の小説を読んでいたのだがそれより全然面白い。比べるのは良くないのか、ここはあまり良くないとおもわなかった。純然たる独立者同士の絶対的な比較というのはあるのかもしれない。批評とはそういうものなのだろうか。

 昨日からギタープレイと銘打って即興で15分くらいアコースティックギターを弾いて歌ったりしている。これが面白い。意外と聴けるものが出来上がる。

 しかし、ガレージバンドでモニターしながらやった時は全然ダメだった。空間を伝わる音と電子的に処理された音の間には大きな隔たりがあるらしい。僕はアコースティックな人間なんだろうか。とにかく聞くのは空間を伝わった音でなくてはいけない。スピーカーの必要性を感じた。

 これからご飯を食べる。実家はありがたい。

 


2020 3/30

 曇り。寒かった。

 夜中じゅう起きていたため1日を通して眠い。十二時に学校へ行かなくてはいけないためにずっと起きていた。昼夜逆転の生活だから起きてるのは辛くない。

 学校へ行く。雪は大部分が溶けてしまい、桜も少し散ったが、大きく輪郭が変わったようには見えない。

 モノの輪郭は常にブレ続けると後に読むことになることを、この時点では知らない。

 電車に乗る。人はいないがそれなりにいるので驚いた。とはいえ僕だって外出中の身だから人のことは言えない。『野火』のつづきを読む。坂口恭平の日記を読む。電車に乗る一時間はテキストがあれば退屈しない。

 『ルロイ・アンダーソン管弦楽名曲集』を聞く。ラッパ吹きの休日が一番有名だけど、どれも子供がおもちゃ箱をひっくり返したようでいて、思慮深い音楽。

 学校に到着。久しぶりに友達と会う。面白い。電話と、実際に会うのではどうしてこんなに違うのだろうか 。空間について考える。

 家に帰り、インスタントの牛丼を食べる。16時。ようやく睡眠をとる。七時間ほど眠る。外出は疲れるという当たり前のことを知る。外に出なくていいという今の状況は、インドアにとっては嬉しい。僕は感じているだけの存在なのかもしれないが、ただのアンテナではなく、身体全体で、揺れ続ける物質を感じたい。今日は独立した言葉が書けない。

 朝は、人間関係、相手のことを考えること、愛することについて、そして神と偶然性について、生きることについて、それは『野火』から学んだ。昼は空間を通ること、実際に会うことの素晴らしさと、それが発生する理由について、人間関係についてパート2、帰り道で、物質の輪郭や音楽について、これは坂口恭平の日記から学んだ。学んだというか感じたという方が正しいかもしれない。それから睡眠して、日記を書いている。お風呂に入ったりしながら。今日考えたこと。あと、悩むことと考えることの違いとか。

 


2020 3/31

起きる。10:30。眠い。成績発表の日だったので見てみる。最近はネットで成績が見られて便利だな。しかし成績なんて本当は見たくないから、この便利さが必ずしも良いというわけでもない。

 発表されたものは見なくてはいけないから見る。期待していたよりも良くない。悲しくなる。なぜ成績なんてものが存在して、その数字で一喜一憂するのだろうと真剣に考える。

 そもそも成績の数字やアルファベットは僕とはほとんど関係がない。勝手に付与されるひとつの性質で、その記号が俺を表しているわけでは決してない。

 人間は動き続け変化し続けるからうまく扱うことができないので、数字で処理してしまうのが一番やりやすいから成績をつけるのだとは思う。数字を付与できる力のことを権力というのかもしれない。「名前をつけてやる」というタイトルを思い出した。もっと色々考えた気もするけど忘れた。とにかく僕はこの成績というものや、それに一喜一憂する意味がわからなかった。そんなことでやる気を得たり失ったりするのは間違っている。それは一体どうしてなんだろう。どうして心は動くのだろうか。動くのだから良いのだろうか。

 11:45。ご飯を食べる。『野火』の続きを読み、眠くなったから寝る。とても興奮する場面だった。興奮して一瞬で覚醒して一瞬で眠くなる。生命、銃、物体についての部分だった。この本は小説の見た目をしているけど小説だとは思えない。もっと思想とかそういう類の本に見える。ニーチェが物語の形で思想を語ったように。僕は作者と登場人物をあまりに一致させて考えすぎているような気がする。文章を一つ書いたような気がする。

 16:30。起きる。食器と風呂を洗い、風呂を沸かす。その間に楽譜を読む。昨日友人が教えてくれたやり方を試してみて、効果がすぐに出たから驚いた。なんでもやってみなくてはいけない。怠惰な生活の中でも何かが残ればまだ自分を許せる気がする。

 風呂に入る。頼んでいた本が二冊届く。『思考都市』と『急に売れ始めるにはワケがある』という本。経路が違う。

 『思考都市』は想像通り素晴らしい本だ。装丁がかわいい。僕はこの本を音楽を聴くように読みたい。それは初めての曲を聴くように、もしくは初めての道を歩くように、見る、聴くだけではなく感じること。グルーブを全身で増幅するように読みたい。僕は興奮したいし震えたい。貪欲だ。

 『急に売れ始めるにはワケがある』という本は社会心理学の本で、バズることについて、その話題が広がっていく経路やタイミングについて書かれた本だという。今はあまり読みたいと思う本ではなかったけど1ページ目をみて驚いた。

『【ティッピング・ポイント】THE TIPPING POINT

あるアイディアや流行もしくは社会的行動が 、敷居を超えて一気に流れ出し 、野火のように広がる劇的瞬間のこと。』(引用元:マルコム・グラッドウェル著 高橋 啓訳『急に売れ始めるにはワケがある』ソフトバンク文庫)

 野火という言葉が出てきたから驚いた。

 今このタイミングで、『野火』を読んでる時ににこの本が届いたのは全くの偶然だが、必然という感じもする。巡り合わせは本当に存在する。物理学でそろそろ証明されるだろう。情緒も何もないタイトルだけど読んでみようと思う。そもそも英語版のタイトルは“The Tipping point”でありこんなタイトルじゃない。情緒を伴わない改変をした方が売れるのだろうか。そういうデータがあるのだろうか。

 原題を探すついでにこの本について入ってきた情報。この本はあらゆる「感染」(おそらく情動的感染、ミメーシスのこと。)の原因を説明しているらしい。これもタイムリーだ。バズるとか口コミとかは結果であって原因ではない。僕はこのタイトルが気に入らない。これでは原書がかわいそうだ。『ティッピング・ポイント』じゃあ売れないだろうけど...。むしろアメリカではそのタイトルで売れたのだから、日本とアメリカではタイトルの付け方と売れ行きの関係は違いがあるのか疑問を持った。二冊ともとても面白そうな本だ。嬉しい。楽しみだ。

 


2020 4/1

 雨。眠れないので『野火』の続きを読み切る。信仰や、自然さを追求した果てには狂気しかないのだろうかと心配になった。

 僕はこの小説に書いてあることの方が現実といわれてるもの、もしくはシステムよりも真実のように思えた。それは錯覚のはずだけど、錯覚には思えない。

 CANの“Ege Bamyasi“を聞く。

朝に寝付く。6時から15時まで9時間睡眠。

 やることもないので本を読む。読書と勉強の日々。これが続けばいいと願う。

 キース・ジャレット”The Köln Concert “。最高だ。即興ピアノのコンサート。途中で自分も、演奏者も何をやってるのか分からなくなる。そういう瞬間が音楽に関わっていて一番幸せだ。とても聞きやすくメロディックなのであらゆる人にお勧めできる作品。

 楽譜を読む。一日に二時間くらいならできる。やることも続くし、やる気も続く。1000時間やればそれなりになるらしい。1日に二時間なら一年で720時間だ。一年でそれなりになれるなら、そのくらいの習慣をつけるのは苦しくないだろう。

 『思考都市』を読む。僕はついテキストに惹かれてしまう。なぜだろうか。魅力的な絵が並んでいる。装丁も可愛い。素晴らしい本。

 インターネットのテキストサイトにハマる。また思索を繰り返してばかりだ。行動の人へ踏み出す。

 


2020 4/2

 昨夜はなぜかまた8時まで眠れずいろいろやっている。ギターを弾いたり、本を読んだりその程度だけど。8時に寝付く。12時までの4時間睡眠。晴れ。

 教育実習の委託金を払いに行く。腰が重い。謎のお金だ。ただ、払った瞬間に心が少し楽になったので、お金よりも払わなくてはいけないというタスクが心を重くしていたらしい。

 気づけば文庫を八冊買っていた。エッセイが多い。忌野清志郎の連載と星野源のエッセイを読む。面白い。ポップな音楽をやる人は文体も努めてポップだ。本人たちは文才がないって言ってるけどそうは思えない。

 とはいえ本を読まなくてはいけない。帰る。桜が綺麗。

 楽譜を読む。17:00 に帰ったのに最終的に22:00までかかってしまった。休憩が長いのだ。

 モーツァルトはよくわからない。あまりに美しい旋律を歌っていたことに今更ながら気づいてゾッとする。

 ユザーンのインタビューを読んでユザーンのアルバムを聞く。自分の音、という言葉を最近多く見るので自分の音というのに興味が出てくる。

 清志郎に本には、本気でやりたいなら漫画にかけるくらい明確なストーリーとして将来のイメージが描けるはずだ、と書いてあった。

 僕はホテルもしくはホテルみたいなところに住んで、ミラノのスカラ座で歌った次の日にカフェで酒を飲みながら客席で歌って、オフには小説を書いたりアヴァンギャルドなライブハウスに出演したりしたい。路上で適当にギターを弾いていたい。どこでだって歌いたい。そんな感じの未来を描いた。妄想で。

 眠かったので寝る。昨日の深夜というか今日の明朝にギター弾いたからいいや。

 


2020 4/3

 3時起床。やることないのでギターを弾く。ギターを弾く前には音源を聴くようにしていてそれはなんとなくスイッチを切り替えるためなんだけど切り替わってる感じはしない。知久寿焼のライブを聞く。良い。

 8時に寝る。16時までしっかり8時間睡眠。社会。社会からの断絶を自らやっている。社会との接し方がわからない。お外は怖い。

しかし怖いとも言ってられないから家を出る。自転車で国分寺まで向かった。気まぐれに、3時間あれば着くだろうと思って行った。着かなかったのだがこの時には着かないことを知らないから行った。

 今の書き方は山下澄人のパクリ。

 新宿付近の人混みを自転車で駆け抜けようとする。歌舞伎町界隈にいっさい良い思い出がない。今日もだ。おじいさんに触れかけて怒鳴られる。怖いので逃げる。追われる。さらに逃げる。怒鳴らなくても良いじゃないか。逃げるしかないじゃないか。しかし俺にも落ち度があり、それは確かだから逃げたことは良くない。きちんと自分の非を認めて謝るべきだ。でも僕は急いでいたし、でもそんなの筋を通すこととは関係がない。自己矛盾。しかし引き返す気も起きない。自己嫌悪。これは懺悔の文章です。

 結局20分遅れて到着する。怒られない。優しい。安心感が大事だ。

 帰り道。4時間かかるが、帰る時にはまだ知らないので行った。メンチカツとほうじ茶。おいしい。セブンイレブンはすごい。どこでもおいしい。東京のいろんなセブンイレブンに入るけどどこに入ってもおいしい。この事実はどこに行っても言葉で共通理解を得ることができる事実と繋がっている。

 新宿を通らず迂回して帰る。新宿に良い思い出がない。とはいえ代々木の方を通るだけだから少し南にずれただけだけど。

 皇居の外周部でタヌキを見る。小さな雲みたいな見た目だ。真っ黒な雲。かわいい。目が光っている。こわい。

 そして僕は家に帰った。太腿の前面が痛くて、長く立ち上がれない。自分が普段どの筋肉を使って立っているのかがわかる。痛みを持ってでないとわからないことがわかれたから、痛みも悪くはない。下半身は鍛えていなかったけど、ここまで筋肉不足とは知らなかった。鍛える気はない。

 


2020 4/4

足が痛すぎる。起きる。何をした記憶もない。眠る。