ゲージュツ的しつけ

フェレットのしつけが書いたゲージツ的なしつけ術の数々。メール→fererere25@gmail.com

身体に重なるすべての時間と、タネを撒く人

 終わった幸福もいつだって思い出せるし、いつだってまた感じることができる。幼年期の幸福な時間を、思春期の何故かわからない全能感を。ぼくらの身体か脳か筋肉か魂が覚えていて、いつだってまた感じることができる。

 それは終わった幸福だけど終わった幸福じゃない。過ぎた時間だけど過ぎ去ったわけではない。

 過ぎた記憶と感じるのは、記憶をノスタルジーの中で美化したい気持ちが働くからだろう。手に入らないものには大きな価値を感じてしまうから、過去はいつでも一番美しい。しかしいま蘇った過去はもう過去ではなく、いまそれを想う自分が存在しているのだから、その想いをノスタルジーとして美化するんじゃなく、いま浮かび上がった感情として受け入れてしまえば、その幸福感はいまの自分のものになるんじゃないか。

 そうして幸福をいまの自分に引き入れ続ければ、ドラッグなんかいらないくらい、いつでも気持ち良くなれる。

 ドラッグを必要とするのは、時間感覚が時計によって狂ってしまったからかもしれない。

 身体はすべての過去を記憶していて、すべての未来を予期している。記憶と予期の間でいまがあるのだから、いまにはすべての時間が、少なくともこの身体にまつわるすべての時間が圧縮されて、その出力された形が、端的な生命としての自分だ。

 ただ生きているというのはすべての未来と過去の重なりの中にいるということだから、生物はただ生きているだけで凄まじい情報量を持っていて、ただ生きているというのはそれだけで絶対的な善だ。

 坂口恭平は言う。サルは樹上の生活で鳥の視点を獲得した。サルは鳥の歌を聴いて憧れていたから、音楽ができた。鳥の視点、空から見る視点を持ち、死んだら土に帰るから土地の記憶も持っている。

 南方熊楠の本を買った。中沢新一が編集しているやつ。古本で文庫で100円だった。まだ読んでいない。

 NHKの『そのとき歴史が動いた』でやっていた南方熊楠特集を見た。

 お金とポジションのために熊野の木を伐採しようとする行政に対する抵抗について解説していて、その時だれかが「熊楠」と言う名前がまさに熊野のクスノキだから、彼は熊野古道の木々が切られるというのは自分が切られるような思いがしたんじゃないかと言っていて、人間は木にもなれるのだと思いずいぶんと感心した。

 人間の共感能力は植物にまで及んでいる。僕らは植物と言葉で繋がれないからコミュニケーションが取れないような気がしているけど、熊楠と熊野の木の間では何かコミュニケーションがあったはずで、言葉というのは便利だけど他の表現形態を持たないと不自由だと思った。

 植物と僕らのコミュニケーションで言えば農家はまさにそうで、彼らは植物の生命を助けて、植物から生命の助けを得ている。

 人間と植物という種族間の共生関係をここまでハイレベルでできているのに、人間同士だと何故かうまくいかないのは、言葉に頼り過ぎているからではないのかと言ってみると、急に65歳男性の投書みたいなことを言い出したなあって自分で思う。

 植物に対して人間は相手が望むことが何かを察して、研究機関まで作って頑張って好みを調べて、植物が望むように気温を整えたり日光を使ったり世話をしてあげたりする。

 すべては収穫のためなんだけど、そのリターンは不安定ですぐ貰えるわけでもない。世話をしている瞬間はコストを払っているだけの状態だ。いまのドイツなんかはそんな感じがする。ヨーロッパ全体を支援することはいまの段階ではコストでしかない。けれどそれに対する返礼は確実にある。それをきっとメルケルさんはわかっているから、あれだけ身を切る支援をしているのだろうと思った。不安定でいつ貰えるかわからないリターンではあるけど、その返礼はある。

 なんだか収穫というのは返礼という感じがする。ギブに対する返礼。

 ビジネスの世界でも政治の世界でもタネを撒く、という比喩はあるけど収穫するって比喩は聞いたことがない。

 収穫って能動的な言葉だけど、収穫のタイミングは能動的にコントロールすることは不可能で、気温とか日照時間とかが重なって勝手なタイミングで植物が実をつけて、それに従って起こることだから、収穫するという比喩は使いづらいのかもしれない。人間たちは能動的にタネを撒き、あとは過去の記憶を駆使して収穫のタイミングをを予期するだけだ。

 だから収穫とは不思議な動作だと思う。

 タネを撒けば作物は実るかもしれないし実らないかもしれない。植物について知っている人なら誰だってわかる。収穫のタイミングはいつ来るかわからないし、タイミングを逃したら返礼は受け取れない。

 それでも農家はタネを撒く。過去と未来を頼りにしてどこかに希望を託しながら。

 いまメルケルさんはタネを撒いている。

 僕が言いたのは植物と人間の関係が人間同士の関係の先を行っているということだ。そして人間関係はようやく植物との関係に追いつこうとしている。

 少なくとも、植物との関係を始めるにはタネを撒くしかない。能動的に動けるのは、タネを撒くか撒かないか、そして収穫するかしないかという部分だけだ。

 ぼくはとにかくタネを撒こうと思う。結果的にどこかで返礼が来るから。いつになるかはわからないけど。そしてタネを撒くという比喩が具体的にどういうアクションを意味するのかはわからないけど。坂口恭平はパンティの返礼って言ってた。それはとても、個人的には、夢のある話だ。