ゲージュツ的しつけ

フェレットのしつけが書いたゲージツ的なしつけ術の数々。メール→fererere25@gmail.com

はじける

 1.クラブ

 現実は緑色のヘドロのように人間を包んで離さない。赤ちゃんのように物を見ちゃダメよ、とレイ子が言った。僕は目を閉じて見えるものを追いかけようとしている。ラリったみたいな目をして、クラブの中でウロウロしている。夜の街の、冷たく狭い路地裏が窓の外に映し出されている。僕らの快い遊び場、一番おしゃれで一番ファンクなこのクラブも結局は路地裏の、雑居ビルの一室でしかない。少しのお金や、血統や、上品さで踏み潰される程度に僕らはちっぽけだ。

 

1-2

 DJの卓のすぐ前で踊っていたカオルが戻ってきた。

「おい、ビールはないのか?」

「僕のとこにはないよ」

 僕にはお金がなかった。チャージの一杯と、申し訳なさ故のもう一杯で朝までいる。いつもそうだ。

「じゃあ、チャイニーズだな」

  そう言ってカオルは隅っこで座ってる中国人の女のところに駆け出していった。

 この女は観光客で、二週間前からこの街に遊びに来ていた。顔が特別良いわけではないけど、すらりとした長い足でシャープなダンスを踊るから僕は好きだったし、何より上手に仲良くなればビールを奢ってくれる。

 

2.フロア

 僕はフロアの周りに設置された黒い革張りのソファーに座っていた。フロアでは20人くらいの男女がそれぞれ好き勝手に踊っていた。曲の展開に合わせて、ライトが色とりどりに変わる。ヴォイスコーダーで歪められたルイ・アームストロングの声が流れている。“なんて素晴らしい世界”。

 カオルはうまくチャイニーズを誘い出して、ダンスを始めようとしていた。右足を出して、体を捻った。だけどなんだか手と足がギクシャクしている。それを見てチャイニーズは笑った。カオルは少し顔をしかめた。チャイニーズは笑いながら、カオルにステップを教えようとしている。チャイニーズは僕らより少し年上だ。カオルは名前と同じように中性的な顔立ちをしている。イケメンだ。けれど踊りは得意じゃなかった。

 

2-2.

 音楽が変わった。短い言葉の繰り返しと、感動的なブレイクを超えて、フロアは盛り上がる。若い男が手を挙げて何かを叫んでいる。女が腰から下だけを動かしてステップを踏み、それを見ていた男がビールを手渡す。カオルとチャイニーズは見つめあっていた。男の一人がDJに何かを叫び、周りの男が反論しながら手を動かす。それが他の男にぶつかり、怒号が響いた。それを見て女が笑う。女が右手のビールを一口でのみほそうとする。ビールを渡した男はやけにニヤニヤしてそれを見ていた。DJの周りでは怒号と歓声が響いている。サッチモが歌う。“虹の向こうに”。DJがオーディエンスからドリンクを受け取った。僕はじっとフロアを見ていた。女がビールを飲み干したかと思うと、青い顔をして倒れた。ビールを渡した男はそれを見て大笑いする。DJが何かを叫ぶ。クラブのスタッフが何人か現れて、喧嘩が止まった。女は床でバタバタと痙攣しながら、顔が溶ける、顔が溶けると叫んでいる。LSDだ。女はバタバタと手足を動かした。ひっくり返した昆虫みたいだった。見ろよ、あれ、死に際の牛みたいだ。おい、なんて醜いんだお前は、おい。やめてよ、やめてよ、やめてよ...と女が叫んだ。カオルとチャイニーズは口づけをした。フロアは歓声に包まれて、DJが曲を変えようとする。やめてよ、やめてよ...。頭の中で女の声がこだました。

 

3.朝

 僕は朝の9時に目を覚ました。表通りから路地に入って、3回曲がった行き止まりに僕のアパートがあった。月に3万円の家賃を払うので精一杯で、部屋の鍵は壊れたままだったけど、ここに入っても盗むものなんて何もない。記憶の中で薄く、昨日の夜が思い起こされた。女の声がこだまする。サッチモが歌う“なんて素晴らしい世界”。オーバー・ザ・レインボウの方だったかもしれない。まあ、そんなことはどっちだっていいんだ。音楽があることが大事だったし、あの場でそれ以外に必要なものなんてなかった。

 

3-2.

 僕はお湯を沸かそうとした。水道やガスは止まっていない。やかんを火にかけると細かい水が粒になってやかんのふちに取り付く。しばらくするとその粒はだんだんと増えていく。新たな粒が生まれ、古い粒ははじける。割れていく粒の下から新たな粒が生まれる。そのサイクルがだんだんと早くなっていく。円運動だ。生命のような円運動だ。若い粒が生まれては消えていく。水が活発な動きを始める。ぐるぐるぐるぐる回っていて僕はめまいがした。僕はトリップしたことがない。クスリの類をやったことがなかったし、チャイニーズやカオルはそんな僕を臆病だといって馬鹿にした。レイ子が言う。あなたは物を知らないと。レイ子はとても静かで透明に言葉を話したから、僕は馬鹿にされてる気がしなかった。彼女の言葉は真実のように聞こえる。その分他の人より危険なのだと思う。彼女の顔がドロドロに溶けていくのを想像した。僕は消えていく粒のようにフロアの人間が一人ずつはじけていくのを想像した。それはとても気分が良かった。あなた分からないの?あなた馬鹿にされてるのよ?レイ子はドロドロの口で喋る。子供みたいに物を見ないでよ。目を閉じて見えるものを追いかけてるんじゃないの?チャイニーズが笑ってカオルに口付けした。僕はコーヒーが飲みたいから、やかんの火を止めた。全ては僕の妄想だったし、僕は物を知らなかった。

 現実を見たってそれは緑のヘドロみたいなのだから、目を向けていたくはないし、たとえ見たとしても不快なだけで得るものがない。僕は少しだけ本気でこんなことを言うくらいには、子供だった。