ゲージュツ的しつけ

フェレットのしつけが書いたゲージツ的なしつけ術の数々。メール→fererere25@gmail.com

テーマパーク

  やっぱり黒人は体が大きいな。エナメルの、電灯を反射して濡れたように光るスニーカーがよく似合う。エナメルのスニーカーをナチュラルに履ける人間というのは、やっぱりどこか日本的でない部分があるのだろう。

 そういえば、彼女もそんなエナメルの靴を履いていた。

 彼女と僕が再開したのは20歳を過ぎ、お互い上京してからだった。千駄ヶ谷の駅前の大きな広場で彼女を見かけたのだ。その時もエナメルの、紫のスニーカーを履いていた。底の薄い靴を履いた彼女の身長はやけに低く感じた。

 僕はその時阿佐ヶ谷の駅から15分ほど歩いたアパートに住んでいた。1階の真ん中の部屋だ。上の階に住んでいる大学生が、男女でパーティーを開き、右隣の老人が毎夜徘徊している玄関先の向こうで、幽霊が泣いているような音を立てる林がある。そういうアパートだ。ひどくステレオタイプな、昭和を模したテーマパークにでもありそうなアパートだった。僕は、アトラクションに設置された、みんなに笑顔を振りまいて手を振るだけの人形だ。そんな話をすると、彼女はいつも静かに笑ってくれた。彼女は、千駄ヶ谷のマンションに住んでいた。

 僕と彼女は大学二年生だった。僕はそこそこの大学の文学部の学生で、彼女は有名な女子大に通っていた。僕らは久しぶりに出会って、少しだけを話をして、別れたのだ。別れぎわに、彼女は僕の電話番号を欲しがった。変な話だ。SNSでもラインでもなく、電話番号。

 家に帰って、彼女のことを思い出した。それから寝て、起きて、次の日は彼女のことを考える時間なんて、なかった。

 それから季節が変わって、なんとなく世の中が冬に向かって進んでいる時期が来た。世界のある部分は動いているし、ある部分は止まっている。僕にとっては停滞の時期だった。後期の授業にも慣れていたし、気候も安定していた。嬉しいことも、悲しいことも同じくらいの頻度で起こった。僕の心は穏やかだった。そして、若さが求めるだけの刺激にありつけてもいなかった。

 だから彼女から電話が来た時は驚いたというより嬉しかったのだ。その連絡がどういう種類で、どういう趣旨であろうと刺激には間違いないから。それは驚いたことに、そしてどこか期待していていた通り、食事の誘いだった。でも僕は年相応の青年として喜んだわけではない。彼女と僕が食事をする、そこには様々な意味が含まれていたから。

 彼女はアーケードで僕を待っていた。秋にしては必要以上なくらい分厚いコートを着ていた。僕はそれを彼女の意思表示だと思った。20歳を超えてから男女が話すためにはこうした意思表示が必要だ。そうでなければ僕らの会話は過剰な意味を持つかもしくは、何も意味を持たなくなる。例えば感情の表現を渋っているだけの会話ならやめたほうがいい。価値観を共有できる子が良くてさ。え、私も。今の彼氏とはちょっと違うかなって時があって。ほんと、一緒にいると落ち着くわー。そんな会話はまとめて丸めて海に投げ入れてしまいたかった。意思を表示していない大学生の会話なんて大体そんなものだけれど。

 彼女は恋をしていた。いや、続けていた。それは恋というより彼女の生命の問題と深く関わっていたから、生活と言い換えても良かった。彼女の恋する相手はもういなかった。彼女は、僕の友人の恋人だった。僕の友人はもういない。彼はこつぜんと消えてしまったのだ。少なくとも、僕にはそう感じられた。

 「私もそう思うの。彼は消えてしまったわ。それも突然に。完全に。生活の途上で何もかも投げ出して。」

 それだけ言うと彼女は黙った。あんまり、良いセリフじゃなかった。彼女の中にきっとそんなに大きな感情はない。わざと感情を大きく見せたのだ。それがどうしてかはわからない。僕には何もわからなかった。世界はある部分で動いていたし、ある部分では止まっていた。

 それからもう一回季節が傾く間に、僕たちはデートを重ねた。僕らの間に共通の話題はなかったから、二人で黙って歩いた。僕が速く歩くと、彼女は小走りで後ろをついてきた。スニーカーを履いた彼女の背は小さくて、ぼくは、黙ったままの自分の中に言い知れない男性性を抱えていた。不機嫌そうに歩いてる男と、黙って後を追う女。ひどくステレオタイプだ。彼女もまた、テーマパークの登場人物だった。良妻賢母、役。そう言うと彼女は静かに笑った。

 彼女と僕の間に特別な感情はなかった。けれども寒い風が吹いた時、彼女が僕の腕につかまる時もあった。僕らは黙って歩いた。彼女の腕から体温が伝わってきた。その体温がやけに、悲しかった。

 彼女は温もりを求めていた。それは誰かの温もりだった。そして僕は悲しみを求めていた。僕らの間には特別な感情はなかった。消えた彼女の恋人だけが僕らの繋がりだった。僕はこの一連の出来事や人間関係に、簡単なストーリーをつけて消化してしまいたかった。だから僕は悲しみを求めていたし、彼女は寂しさを求めていた。冬はあまりにもステレオタイプで、あまりにも寒かった。僕らはテーマパークの人形だった。決してペアになることのない人形。そう言うと、彼女は静かに笑った。