ゲージュツ的しつけ

フェレットのしつけが書いたゲージツ的なしつけ術の数々。メール→fererere25@gmail.com

死体を見にいく

Ⅰ.

 外に行かないと美しいものを見ることができないから、心臓が落ち着いたら出かけようと思った。澄んだ空気とか、星とか、建設現場に置き去りにされた灰色の資材とか、冬は美しいものが多い。

 仰向けに天井を見て、フーっと息を吐き出した。フーっと声が出るくらいに大仰な深呼吸。10秒数える。空気がなくなり、胴体を覆っている筋肉や、肋骨や背中の骨がプルプルと震える。僕は唇と喉の緊張を解いてやる。今まで空気が通っていた道をなぞって息が入ってくる。僕の呼吸は、リラックスするには少しやりすぎだったけど、続けると心臓が落ち着く。

 


Ⅱ.

 行動を起こすにはエネルギーが必要だ。

 僕の体は不器用だから、行動を起こそうとすると心臓がバクバクしてくる。そのことに僕は気づかない。気合いを入れたり、張り切ると、心臓がバクバク動き、手足が熱くなり、いても立ってもいられなくなってくる。いつもそれから行動を起こす。部屋を掃除したり、学校に行ったり、歌を歌ったり。

 


Ⅲ.

 心臓が活発に動いている間は何事にも活力を感じることができる。人の前では少し緊張しすぎてしまうこともあるけれど、乗り切れるだけの勢いが生まれる。全ての感情が増幅されて、ノーモーションで行動を起こすことができる。そして、家に帰るととても悲しくなる。

 だから、自分が暴走しないためにも時々心臓を休ませてやる必要があった。フーっと息を吐いた。10秒、息を吸う。眠くなる。ラッキーだ。眠くなれば、眠れる。10秒、息を吸う。

 


Ⅳ.

 遠く、遠くの空の彼方で星が一つ爆発した。僕の目はひとりでに閉じられる。ああ、僕は様々な生物の集合体なのだ。10秒、息を吸う。美しいものを見に行きたい。曇りの下の民家の庭で勝手に咲いてる赤い花や、誰も住んでない小屋に絡みついた緑色のツタ達。息を吸う。呼吸は無意識の中に溶け込んでいる。あれはいつ頃だっただろうか、深い海の中へ沈んでいきながら、泡のように消えていったのは、その時僕は心臓の声を聞いていた気がする。息を吐く。息を吸う。息を吐く...息を吸う。

 


Ⅴ.

 気づいたら僕は森の広場にいた。木々に囲まれ、太陽が差していて暖かかった。きっとここは森の広場だ。そしてきっと、夢だ。この広場はお前のために用意されたんだよ、と木々が言った。風が吹くと、木々はざわめいて、そのざわめきの中には言葉があった。でも、どうして僕のために広場が用意されるんだろう?

 広場には僕のほかに人間の姿はなかった。動物も、見える範囲にはいなかった。気温が心地よい。暖かい水の中にいるように全身が熱に包まれていた。僕の心臓は穏やかだった。風は遠くから吹いていた。木々が話す。ここはお前の場所だよ、と。

 


Ⅵ.

 僕は戸惑っていた。けれど、せっかくだからこの夢を楽しむことにした。森の先は見えないけれど、広場はふかふかで過ごしやすいし、体でも動かそうと思った。夢の中でよくあるように体がちぐはぐに動く感じもない。

 僕が体を動かすと、木々は喜んだ。人間が来ることはほとんどないらしい。僕は伸びをして、走って、寝転んだ。その度に木々はざわめき、笑った。嫌な感じはなかった。風が吹いていた。僕は見られていた。享楽されていた。アイドルのようだった。こんなこと初めてだったから少し、居心地が悪かった。

 


Ⅶ.

 そうだ、僕は、美しいものを見に行かなくてはいけないんだった。そのために心臓を休めたのだった。風が吹いていた。木々は僕を気に入ったみたいだった。どうして?風が吹いた。起きなくてはいけない。冬の都市の、美しい死体の姿を享楽しなくてはいけない。僕がここで死んだら、永遠に木々の客体になってしまう。木々は僕の体に何かを重ね、僕の体のうちに何かを見るだろう。僕の体と、この僕と一切関係がない、何かを。それは、とても楽だけど、嫌だった。

 


Ⅷ.

 木々に悪意はなかった。風が吹いていた。あと少しで、ひときわ大きな風が吹くだろう。風が吹いた。次だ。木々は残念そうにざわめいて、それから広場は静かになった。風もなく、ざわめきもなく、僕は止まっていた。僕の心臓は、最も安らかな極限に達した。つまり、止まっていた。

 


Ⅸ.

 ビュン、と大きな風が吹いた。体が飛ばされそうなほどに大きな風だ。木々はざわめいた。大きくざわめいた。笑っているものもいれば泣いてるものもいた。それぞれのざわめきが雑踏のように森を支配していた。それは愉快なおしゃべりでも、悲痛な叫びでもあり、都市の死体を享楽する人々の目線を思い出した。僕はあの中の一人だ。僕はあの雑踏の中でざわめく一つの主体だ。木々のざわめきは強さを増した。僕は起きなくてはいけない。僕の心臓は強く動き出した。行動を起こすには、エネルギーが必要だ。僕は両足を曲げ、強く地面を蹴った。

 


Ⅹ.

 目を開けると、夜が低く垂れ込んで僕を包んでいる。電灯の付いていない部屋に僕は仰向けだった。汗が額を濡らして、ジメジメしていた。ジメジメした身体はやけに重たい。眠い目をこすって、体を持ち上げる。心臓は、バクバク脈打っている。僕は生きている。窓の外からは電車の音と、車の走行音と、声だけが聞こえる。

 雑踏の中に溶けていく自分を想像した。これから、都市の死体を見に行く。僕は立ち上がって、電気のスイッチを押した。