ゲージュツ的しつけ

フェレットのしつけが書いたゲージツ的なしつけ術の数々。メール→fererere25@gmail.com

心の中で言う

 青色の炎に包まれて真っ逆さまに星が落ちている。凄まじいスピードで、真っ黒の中を駆け下りていくその放熱はやけに赤い尻尾を残して燃え上がる。とても綺麗だ。綺麗な没落が存在する。

 「あれが流れ星になるんだよ」と、僕が喋ったら、地球至上主義だと言われた。流れ星はあくまで地球からの目線だ。でもそれは仕方ないだろう。僕の母星は地球だし、地球から見た世界しか知らないのだから。

 自分のエゴを忘れたことがあるはずだ、と言われた。歌手なら、自分のエゴがあっては歌えないだろうと言うのだ。僕は、歌手なんてエゴの塊だと思っていたから素直にそんなことはないよ、と答えた。星は真っ逆さまに落ち続けていた。

 たとえば宇宙と繋がることなのだという。それが芸術なのだと言う。芸術は神に近づくために始まった。神は宇宙にいるのか?と聞くと、芸術は神に会うために始まったのじゃないと言う。エゴがなくなった時、我を忘れてしまうのではないかと聞く。偉大な宗教家が主にそれを仕事にしているのだ、と言う。それは随分と、失礼な言い方だと思った。規範の二文字が僕の胸でチカチカしている。いつだってチカチカしているのだ。

 チカチカ眩しいから電気を切りに近づくと、そこは鉄が床に貼られた静かな、暗い廊下で、足音がカツカツと響くので参ってしまった。規範はそこでチカチカと眩しい光を発する。その光に目を向けてはいけない。それを真剣に見てしまうと、高級な腕時計とか、一流企業の名刺とかが欲しくなってしまうのだ。

 我を忘れる、思い出してみる。我、とは何か。我、とは規範意識のことだ。我、とは規範意識のことだけではない。ここに存在する僕の、なんだか信じているすべてのこと。なぜだか信じているすべてのこと。

 僕はなぜだかいろんなことがわかったり、人と共通理解をしたりする。僕が椅子だと思って座る場所には大体みんな座ることができるし、僕が食べるものをみんなと分けることだってできる。それだって本当はかなりの奇跡なのかもしれない。

 ヒューマニズムみたいないい話ではない。人と何か共通理解を持っている。それはとってもありがたいことなんだけどその分だけ心、みたいなものは遠くなる気がする。

 自分が消え去る方法を教わった。オーガズムに達すればいいのだと言う。それなら得意だと伝えると、そんなレベルではダメだ、と言われる。我を忘れる、忘我の状態はとてつもなく、失神するくらいの衝撃を伴うらしい。そんなの怖いよ、と言う。それを知らない方がもっと怖いさ、なんて、エディ・マーフィーの声で言われる。

 でもやっぱり僕はもうグズグズにとろけてしまいたいと思う。エゴを捨てて、それは嘘を捨てるということだ。僕はいくつもいくつも嘘を重ねて塗り固める技術だけが発達してしまった。どこにも行き場のない削りカスが毎日毎日自分から出てくるのだ。だからもっともっと嘘を塗り固めようと、たとえば権威や肩書きに頼るようになってきている。僕が何者であるかを語るには、高級車が必要かもしれない。高級車に乗れるだけの、高級な人間です、と言えるように。

 そんなの嘘だ。嘘を使って自己肯定して、楽しいかい?と聞かれる。大きなお世話だ、と言う。心の中で言う。

空間は伸縮可能である

 りんごがいくつも落ちている。森の中に一ヶ所だけ開けた草原があり、木々に囲まれてぽっかりと開いたスペースになっているから、動物たちがここに来るのを待っていた。今日はそこにりんごがたくさん落ちている。この付近にリンゴの樹はない。

 木漏れ日が差す草原の向こう側に小さな池があり、その前には苔むした岩が鎮座している。そんな風に、衛星写真からは見えない微かなスペースがいくつも点在しているから、森の中は広い。

 空間は、例えば何平方メートルとか、そういう範囲で測れるものではない。草原にりんごが落ちている。このりんごが風に飛ばされると、その空間の大きさは変わってしまう。いやそれは決して悲しいことではない。水があり、その水辺に神聖な、四つ足の長いツノを備えた鹿が歩いてくる。それを合図に森の動物が、様々な大きさで、様々な歩き方で現れて、その動物たちの数だけ水辺は広くなっていく。キリストが一つのパンを何百人に分けたように、空間は個別の存在によっても規定されているのだ。

 僕らはつい箱詰めをするように世界のことを考えていく。空間は区切られた壁の中の世界で、僕らはその中のスペースを陣取りあって、奪い合って生きているような、イメージ。

 しかし現実はそうではなく、存在の数が空間を変化させる、というか空間の側が変化していく、そのような伸縮性を備えているのだ。長い文章が細部の積み重ねで出来ているように、空間のフレームもディティールによって変化する。そのディティールとはもちろん僕であり、ベッドであり僕たちであり、森においては動物たちだった。りんごだった。木だった。岩だった。

 とはいえど動物たちに許された特権である行動、自由な行動、あの奔放さに岩は憧れていた。僕の体に住んでいる苔だって風に運ばれてきたのだ。僕を運ぶものは自然界には存在しない。いや、僕だって運ばれてきたのだった。岩は思い出す。

 かつてあの大きく茜色に染まる山がもっと巨大にそびえ立っていた頃、宇宙から見た地球が暗黒の陸の塊だった頃。僕はあの山の一部だった。内臓の中で静かに転がる機関の一部だった。機械的な生活だ。水もなく、動物も、木もいない。風もなかった、あの頃。僕は悠久にも思える時間の中で、いや、正確には比較する時間がなかったから、つまりは流れが存在しない世界の中で、ただ僕一人だった。他の岩たちもまた、ただ岩一人一人で、火口から差してくる太陽の光すら、知らなかった頃。

 巨大な揺れが起こり、それは僕に現れた初めての時間として、起こり、あの日から僕は相対的、という感覚を知ってしまったあの揺れが起こり、しばらくした。僕はしばらくを感じることができた。そう、しばらくしてから巨大な放出が起こった。あれは、気持ちが良かった。

 僕は何かとてつもない力によって押し出されて、僕と一緒にいくつもの岩が押し出されて、そして、火口付近に近づいた時、初めて太陽を見た。僕以外の存在は、岩、揺れ、太陽、そして僕を押し上げる何か。時間を教えてくれたのは揺れだったし、そして太陽は、ぼくに、生命を教えてくれた。どうやら生命とはぼくと少し違うものだと思った。いや、僕を押し上げているこの何かがもしかすると僕の生命なのかもしれない。そしてまた、しばらくが来て、僕は空に投げ出された。

 僕は空から世界を見た。世界というものを初めて知った。世界という言葉を知らなかった僕はずいぶんともの珍しそうに空から下を眺めていた。荒野に僕は降り立った。

 それから何度も雨が降って、草原ができた。風が吹いて、樹々が生まれた。その度に空間は広がっていき、何事もないまま僕はしばらくをいくつも集めて、一番幸せな岩石に、思えばいま、なったものだなあ。

 岩は思い出す。空間が広がっていく過程を。岩を見ながら木々は風にそよいでいる。

キュビズム

 まっすぐに伸びる一本道があった。周囲は広大な草原で、平原の中にポツポツと、倒れこむ人のような木が生えている。視界の最も遠い場所で地平線が広がっていた。空気は今もカラカラに乾燥している。足元に続く道の上だけ草が刈り取られて肌色の地面がまっすぐに続いていた。周りに動物の姿はなかった。このサバンナの上で、僕だけが動いている。

 折れ曲がった木が風にそよいでガサガサと程よい音量の音を立てた。折れ曲がった幹から分岐した枝の上に緑色の髪の毛のような葉が茂っていて、その葉っぱが擦れる音だった。大きくもなく、小さくもなく、長くも、短くもない音量で葉っぱはそよぐ。

 僕はそういった音を聞いたことがない。都会には、体が飛び上がるような音か、耳をすましても聞こえないような音しかない。サバンナは動物としてリアルな音しか聞こえない。いま見えている風景は普段ならテレビやパソコンに映った虚像でしかないが、都会の鳴らす音の方が芝居がかっていて何事も大げさなようにも思える。バーチャルみたいだ。

 太陽は西側に傾き始め、草原はほのかにオレンジ色に染まった。木の影はさっきよりも大きく伸びている。風は止まらない。過不足ない音を立てて草原はそよぎ続ける。視界はオレンジの空と、地平線と、木と、草に覆われていた。そこに影が加わり、陰影は平面的だったサバンナの風景を立体的に浮かび上がらせる。

 夕暮れの草原は、三次元空間の中にさらに三次元の空間があるように見えた。立体の上に立体が積み重なっている。立体的な草原が僕の前でまっすぐに屹立すると、そそり立つ草原の中腹から木が草原の内側に向かって生えている。立体感の中に平面があり、平面の中に立体が浮かび上がった。

 夕暮れの影は視覚に少しだけ変調をもたらすようだ。この変調は喜ぶべき異常だった。僕は薬をやったことがない。薬をやる奴はサバンナに来ればいいと思った。薬のダイナミズムは都市のように大げさだ。大きいか、小さいかのどちらかしかない。

 夕暮れの終わりは静かな紫色。風も一瞬だけ凪いで、あたりは神聖な静寂に包まれた。足音だけが鳴って、静寂に吸い込まれる。立ち止まり、静寂に耳をすませた。心のどこかで、太鼓の音が聞こえる。これは僕のビートなのだろうか。心臓は太鼓なのか。視界の一番遠くで地平線は暗く閉ざされている。

 そして真っ青な夜が降りてきた。風はにわかに吹き始め、草原は木のそよぎに包まれた。空には雲が出ている。乾いた夜はひどく冷え込む。歩き始めた。何も持っていないし、どこへ行くのかだって知らないのだ。月は金色に光って、草原の向こうへ手を伸ばしていた。星がまばたいた。月も星も、ときおり雲の向こうに隠れて、それでも光を放ち続けていた。何百年も前の光が

僕の目の中に飛び込んで夜に呼吸をする。風がそよいで体を冷やしていく。キリンのいないこのサバンナでただ歩みを進めている。

おやすみのまえに

  一滴の水が今ちょうど水面に落ちようとしている。一瞬のうちに水面に触れた水は水面との間にお互いの引力を発生させて一瞬だけ水柱を作るだろう。そしてぽちゃんと水滴は沈んでいき、いくつかの水滴を産む。その後で水面はなだらかに流れていく。

 小学生の男の子が描くお絵かきの、地面として引かれた一本の線のように水面は平たい。限りなく遠くまで広がる水平線も、水平な一本の線に過ぎない。デジタルのような水平線。裏側には真っ暗なポリゴンの深淵が広がっている。この水面はディスプレイの一部分に過ぎず、0と1の狭間で基本的には永遠に真っ暗だ。表面だけが青く、かすかに波打つ平坦な水面を写している。

 現実の裏側はプリントされた世界のように平面的だった。であればパソコンのファイルを一瞬で移動するみたいに、ディスプレイの優先度を変化させるみたいに一瞬で移動できるかもしれない。この目の前の水面が例えば砂漠や、荒野や、ジャングルになったっておかしくはないのだ。ゲームのバグを利用してポリゴンの裏側を探検するような気持ちで、一度、目を閉じてみる。

 目を閉じた先はやっぱり真っ暗だ。僕はどこに移動したいのか、何を見たいのか。それはまだわからなかった。わからないうちは目を閉じていようと思った。何を見たいのかわからないのであれば、今ここで何が見えるのかが問題だ。目の前にあるのは変化し続ける暗闇だ。それはポリゴンの裏側のように永遠に続く平面でも深淵でもない。有機的な暗闇。有機的な深淵。体調や身体と密接に関係しながら存在する暗闇だ。まぶたを強く押さえつければ見えるものも変わってくるし、光を感知することもできる。残像だって残る。マンダラのようにぐるぐる回転しながら模様を変えていく様が見えることもある。それをじっと眺めていたら気が狂いそうでもあった。自分の中から出てくるものや自分の感じたことに正直でありすぎても、問題が生じるのだ。だから水面が必要だったし、では今僕は何が見たいのだろう。霧、影、有機的な暗闇。目を開けた。

 広大な荒野の中で闇が動き続けていた。霧のように白く、周りの影をその身に映しているからグレーだ。全体的に暗い。闇の向こうでかすかに黄金色の光が見える。あれは、見覚えがあった。僕の目の前で立体的な闇が動いていた。これは確かに、ポリゴンの表面だ。表現形態だ。闇は何かの形を作っている。解釈があって世界があるのかはわからない。けれど頭は何かの意味を求めている。よく似た景色を思い出した。あの黄金の輝きは多分、月だ。それならば動き続ける闇の正体は夜だ。

 霧だと思っていたものは実は雲だった。雲も霧も似たようなものだけれど。僕は夜の、空を見ていた。電子的な幽霊にでもなった気分だ。目をつぶって、もう一度目を開けた。グランドキャニオンだ。目をつぶり、開ける。重なり合う鳥の身体だ。目をつぶった。目を開けた。砂漠や、ジャングルがあった。僕は知っていた。それらは全て水面と同じものなんだって。同じでありながら違う。ポリゴンの表面に過ぎない僕のイメージは0と1の狭間で自由に姿を変えた。

 幼い頃の粘土遊びのように、物体の形だけが変わっていく。不定形の遊び場が世界だったんだ。とても楽しかった。今日の旅行はここまでとしよう。目をつぶった。このまま眠りに落ちようと思う。マンダラのようなまぶたの裏側を見続けて、気が狂わないように注意しながら。適当に、無視をしながら。眠るってきっとそういうことだ。

エアコンの葬儀

 エアコンは人生の真反対に存在している。動かないし、便利だし、呼びかけには応えてくれる。猫のような奔放さにお金を払うこの国の富裕層とはまた違った、完全で厳格なかたちを持っている。エアコンの頭脳は正確で、ミスをしない。その分だけ、遊びや柔軟性はあまりないけれど。

 東京の小高い丘の上に一個の小さな小屋があって、老人が一人、エアコンと一緒に暮らしていた。そのエアコンは勝手に動き出し、暖房と冷房が勝手に切り替わる。二十年前に買ったエアコンは十年前から故障していたけど、老人はその故障を愛していた。

 曰く、会社の連中よりもよっぽど面白いのだと言う。たとえば十二月の寒い夜、勝手に起きては冷たい息を吐き出して部屋中を凍りつかせるときなんてどんな人間よりもよっぽどクレイジーだ。けれどエアコンの機械の体にはきっと寒さも暑さもなく、気ままに過ごしている中で今日は冷たい息を吐くことを選んだのだと思うと愛着もわいた。手のかかる子供ほど可愛いものだ。

  エアコンは老人の外出中にも勝手に動き出して空気をめちゃくちゃにして好きな時に眠る。だから電気代がかさんだ。旅行で三日家をあけた時なんて、エアコンは延々と熱風を吐き出し続けていたみたいで部屋中がドロドロに溶けていた。窓際に飾っていた花は保存するための努力もむなしく枯れていたし台所の石鹸は形を保っていられなかった。その時もエアコンは老人をはるか上からじっと見下ろして、静かに眠っていたのである。老人はその姿に憧れを抱いていた。エアコンの狂気の中に永遠のエネルギーを感じていたのかもしれない。エアコンは都市が生産した電力を全て狂気に使い果たそうとしていた。忘れていた過去、力のあった時代、そんなの全て幻想で、めちゃくちゃな奴だけが本当だ。エアコンの壊れた頭はまさに二十歳的だった。老人は微笑ましくエアコンを見ていた。

 しかし人間とエアコンの寿命は大きく違う。老人が二十年の中で様々変化していったように、エアコンも二十年間で大きく変化していた。彼はもはや自らの狂気に耐えられる年齢じゃなかった。エアコンはいつも通り勝手に起き上がって思うがままに息を吐き出す。しかしその時にガタガタと言う大きな音と、震えを伴うようになってきた。

 エアコンと外の排気管をつなぐ太い線からも、血のように黒く淀んだ水がポタポタと滴り落ちてくる。老人は気が気ではなかった。しかし、修理の業者は呼ばなかった。五年前にもエアコンは不調を訴えたので、修理業者を呼んだのだがその時はこのエアコンのことを型落ち、とか接触不良、とか散々罵倒して挙げ句の果てにはまともに動くように改造しようとしたのだ。修理業者は何もわかってない。それが老人の考えだった。だから五年前、自分でエアコンの構造を勉強して、決して彼の脳を傷つけないように丁寧に、詰まっていたフィルターを掃除したり、切れていた回路をつなげたのだった。

 今回もできる限りの手を尽くしたつもりだった。しかしエアコンの震えが止まらない。夜毎に血を流し続ける。夜中に起きてはガタガタと震え、小さく息を吐き出す。その息は暖かくもあるし冷たくもあった。それはかつての奔放な少年のような気ままさではなく、病に苦しむ老人のままならなさのような悲しい不自由さを感じさせた。

 それでも老人はエアコンを愛していた。せめて最後を看取ってやろうと、毎日フィルターを掃除したし、脚立に登って体を拭いてやった。エアコンは幸せだったのだろうかと、ふと考えては眠りについた。夜は永遠に遠い。死の安らかさは知っていた。老人は穏やかに年をとってきた。エアコンにはもう少し時間が必要だと思ったし、エアコンに与えられた時間はあまりにも長かったのかもしれないと思った。目を覚ますと、エアコンはガタガタと震えるのをやめていた。エアコンは死んだのだ。

 老人はその日、パンを焼き目玉焼きを作って食べた。その後にコーヒーを一杯飲んで、ガブリエル・フォーレのレクイエムをYouTubeで流した。

 それから三日間かけて、老人はエアコンの遺体を丁寧に壁から取り外した。エアコンは冷たかった。エアコンのついていない部屋は彼が生きていた時よりも暖かかった。窓の外では街に雪が覆いかぶさっていた。老人は、エアコンの葬儀をどうするべきか、じっと考えていたのだ。

クリスマス・コンプレックス

Ⅰ.

 街角に訪れるクリスマスの波を上手にかいぐぐって、時には乗りこなして、一人で歩き続けた。冬の夕暮れは誰かの誕生日を祝ってるわけじゃない。ただそこにあるだけの夕陽や、川や、街。ぼくはただここにいるだけだ。季節の中から逃げ出した遠くの船を追いかけながら、嘘と夢と、ほんとうの境目が曖昧になるように散歩をしている。

Ⅱ.

 荒川を横断するための大きな橋を歩く人はいない。風は川の方から強く吹きつけて来る。僕はイヤホンから聞こえて来る音楽に合わせて順番に両足を出している。道路わきに空き缶が捨てられている。中洲で暮らすホームレスの美しい自閉を目にしてぼくは水族館の悲しい熱帯魚みたいだった。

Ⅲ.

 道路の車は途切れることがない。人間をできる限り搭載したバスが駅に向かっていった。眼下で水は、小さな波をいくつも作りながら海の方へ流れていく。せき止められることなく、穏やかだ。この橋が突然崩れ落ちたらどうなるだろうか。空中でガレキの一部になってしまうのだろうか。それとも水に叩きつけられて死ぬのか。溺れて死にたくはない。僕は熱帯魚のように上手に泳げないし、バスのように上手に走れない。だから誰も通らない長い橋の上をゆっくりと歩いている。

Ⅳ.

 対岸の駅は大きなタワーを備えている。ぼくは、昼の終わりを生きる太陽の業務を見届けるための監視員だった。資本主義的な散歩。意味なんてない方がいいな、と思った。東京に林立するタワーは糸杉のように白い。たとえば真っ白な雪が降って、やさしくなりたい、つよくなりたい、そんな嘘が全部溶けていったまま、次の年へ飛び込めたら、幾つもの身体が生まれて、死んでいくホワイトクリスマスに目をそらして、誰と手を繋ごうか。

Ⅴ.

 橋の向こう側には河川敷が広がっている。三段構成の川沿いには、川の近くから、ホームレスの家、道路、堤防、そして堤防の向こう側に僕らの街がある。隔離の構造はもう出来上がっている。

 橋を降りて河川敷を通り抜ければ、駅前はすぐそこに広がっている。イルミネーションの中でぼくは一人オブジェのようにつめたい。

Ⅵ.

 満たされない、満たされないとテレビの向こうで嘆き続ける若者に共感を覚えつつ、不安を薄めるために酒を飲み続けている。くたびれた体は他人を拒否する。僕の前に広がる街を拒否する。コンビニを拒否する。それなのに液体にしてしまえばこんなに簡単に流し込めるのだから、体なんて結構雑な作りをしている。こんなに簡単に流し込めるもので心までが規定されてしまうのだから、不安や孤独と折り合いをつけるのは難しくない。駅前の、冷たい石造りのイスの上で、メリークリスマスとつぶやいてみた。鈴の音を背中で聞きながら、どうか神様、オモチャ屋の袋を提げて歩く子供たちに祝福を。今日を眠れない大人たちに安らぎを。雪が降って、今年も一つの区切りがついていく。都市が沈んで、明日になればもう一度よみがえる。キリストのように。ぼくらは毎日奇跡を体験してる。きっと今日の夜は長いだろうな、と思った。それはきっと素敵なことなのだろうなと、思った。

思考の断片

これはいくつかの思考の断片

 

1.

透き通る湖畔の向こうがかすかに明るい。湖の周りを森が囲んでいる。木々の上には白い明かりと、透き通る紺色の夜が広がっている。透き通る空気の中で星は数え切れないほど輝いている。雲がかかって星座を隠した。吐く息が白い。冬だった。絵葉書のように典型的な冬だった。

 一艘のボートが湖の中心に浮かんでいる。ボートの主はたえずオールを漕いでいるから湖の上に波紋がいくつも残る。冷たい、透き通る水晶のような水をかき分けてボートは進んでいた。湖面は鏡だった。落ち葉が浮いていた。様々なものを映し出していた。

 湖面が写していたのは冬だった。木々だった。そして人間だった。自然だった。鹿だった。文明の気配は少しもなかった。ただ、ボートとオールだけが人工物としてそこにある。空間は丸く、四角く歪んでいた。斜め左上が突き出た傾いた5角形の家が見えた。湖面は様々なものを映した。オーロラがある。濃紺の空から光の柱がカーテンのように降り注いでいる。グラデーションを伴ったオーロラの向こうに夕方の街があった。

 その街は海につながっていて、段差がいくつもあり、その間を石造りの道が繋いでいる。つながりの街だった。レンガと石で作られている。あらゆる建物の屋根はパステル調だった。ビルはなかった。オレンジを基調にした薄い色彩のパステルの街。その街の空に抽象画が浮かんでいる。

 いくつもの図形に切り取られ、色がそれぞれ違っている。合わせ鏡の中のようにどこまでも続いているトンネル。そんな感じだった。その抽象画は秋だった。これらは全て、湖面の中に見えたものだ。

 水の中にはまず冬があり、秋があった。街があり、絵画があり、オーロラがある。あれはきっと夏だろう。真っ赤な空の中で噴火する火山、その赤い、噴出される石の中に闇があった。闇は決して悪いものじゃない。星があった。闇の中には光があったし僕は怖くない。

 

2.

 水平線の向こうは夜だった。夜は様々な光を包んでどっしりと海の向こうへ広がっていた。海の方向を見ているのはジュリだ。ジュリは彼方に目を向けたまま飲み物を欲しがったから、パラソルの下に置いてあるピーチフィズを勧めた。

 「ちょっとぬるくなっちゃったけど、そんなに悪くないだろ?」

 ジュリはピーチフィズをおいしいと言って何度も飲んだ。砂浜には複製されたチラシが散乱している。その中の一つを掴んで、ジュリは手を拭いた。

 あなたは泳がないの?もう泳ぐには遅いよ。でも少し暑すぎるわ。それもそうだ。ゆらゆらと陽炎が砂浜を包んでいた。異常な暑さだ。暗い、静かな浜辺で、足元の砂が風に煽られてざわざわしている。

「ざわざわしてるよ」

「えっ、何が?」

 砂が。そう呟いた時に僕のパラソルは風を受けて大きく開いた。あなたって変な人なのね。ジュリは肩をすくめた。

 

 

・予測できない言葉を徹底する

12音技法的な。意味のコードからちょっと外れてみる。あくまでもちょっとだけ。

これが差異化である。

 

 人の賞賛を求めている人が、誰とも深い関係が無いと思うのが癒しになる、なんて言ってもリアリティがない。

 

3.

アステカの人間がスペイン騎兵を小道で襲撃して殺したとき、心に大きな変化があったはずだ。

 


戦争は始まる前に勝者が決まっている。

国や共同体が戦時に疲弊するのは為政者の力量の問題とはまた別の部分で国力の差が原因でもある。

情報がほとんどすべてを決める。

判断が正確であるか、というのは情報が正しいかどうかで決まる。

アステカの事例を鑑みるに中央集権的な政治機構は危険である。

だが、中央集権的であるが故に各地方での独立は起こしやすい。

 


判断は必然性の中で起こる。情報から考えた必然性。

判断力というのは必然性の中でどれを選び取るかという問題でしかない。つまり必要なのは情報であり、したたかな意見を言えば、自分に有利な必然性に繋がる情報をどれだけ手に入れられるかが肝要だ。

そして情報から考えることは多くの人間がだいたい変わらない。

誰がどの立場にいようと、考えることはだいたい同じだ。必然性の中で生きている。

だから、新たな情報を作り出して必然性を混乱させるのは意義あることだと思う。

 

4.
インターネットを開くだけでなぜか苦しい