ゲージュツ的しつけ

フェレットのしつけが書いたゲージツ的なしつけ術の数々。メール→fererere25@gmail.com

人生オシャカサマ

 不器用なのは罪かもしれないけれど、不器用にしか生きられない人もいる。わたしみたいにね。怒っている女の子につい「怒ってるの...?」なんて伏し目がちに聞いて、それがきっかけで(それ以前にも彼女のなかには色々な感情があったのだろうが)ラインの返信がなくなっていくこと、よくある。

 「わたしこないだ、あの子と光一が一緒にいるのみちゃって」

 「べつに一緒にいるのはいいよ、だって友達だから、でも、何回も見るしずっと一緒にいるみたいだから」

 「ねえ、聞いてる?わたしすごいイライラしちゃったんだ」

 マンションに備え付けられたベランダからわたしは外を見ながら、携帯が振動するのをみてる。狭いベランダには洗濯物を吊す緑色の棒が一本あって、その向こう側に壁があって、その向こう側では雨が降っているから、夏なのに気温は低い。風が吹けば、水が体にぶつかって冷たい。冷たいし、服だって濡れて体にくっついてくる。

 両親は寝てる。同じ部屋で、別々の布団で。夜だから、わたしは起きてる。雨に濡れて肌にくっついてきた服がまるで鬱陶しい友人のようだ、なんて比喩を考えて薄ら寒いほど単調なわたし、そんな風に思ったら、すこしは文学的な内省になるんだろうか、なんて考えてる、子供っぽい。

 あの子は丸顔で、ハンドバックを右側にしかかけられなくて、感情的でかわいい。腰が細いから、抱きやすいのだと光一が言っていた。あの子は光一の彼女だったから、わたしは学校で光一からよくその話を聞いていて、腰が細いのはそれだけで良いことなんだと思った。それからは毎晩筋トレはしなかったけど、テレビに映る女のひとの腰を見るようになった。

 二十代は胸に目がいって、三十代は腰に目がいって、四十代になるとお尻が好きになるらしいとどこかで聞いたから、わたしは十代男性として少し大人びることができたのだろうか。わたし、という一人称がなんとなく示唆的で、わたしが男である、とここで明かしたとき、わたしの思考、という体で書かれてるこのモノローグに特別な意味が生じる。わたし、と、十代男性。このギャップを埋めるために、たとえばわたしはゲイで、光一に恋をしているんだとか、過去のトラウマか何かで男性性に嫌悪感を持っているんだ、とか。そんな意味が生まれるんじゃないかと思った。思ったとき、携帯が鳴って、ここで携帯が鳴るのだって、ご都合主義っぽいなぁとか思いながら「光一と一緒にいて大丈夫なのかな...」などと光る携帯を見て、わたしは肌に吸い付く服を脱いで、上半身裸でベランダに立った。腰は随分と成長したなぁ。いつの間にやら、体は男、大人、これがたとえば二万年も前だったらわたしは戦いに出るんだと思って、そんなこと考えるってことはやっぱり男性性のようなものに疑問というかわだかまりのようなものがあるのかもしれない。わたしには特にトラウマなんてない。

 


 「因果論でぼくらは考えるんだ」って、波野が言った。波野はいっつもおしゃべりで、背が高くて首が太い。目をぎょろつかせていつもみたいに難しいことを言ってる。

 「仏教ってあるだろ、」うん。「あれは、世界は全部苦しみだって考えるんだ」。それって、原罪みたいなこと?

「ううん、いや、なんか、似てるのかもしれないけどさ、とにかく、世界は全部苦しみで、苦しみには原因があるってオシャカサマが考えたんだよな」。オシャカサマ。

 オシャカになるって言い回しを思い出した。オシャカになるぞって、怖い言葉。

 波野は学校でわたしの隣の席に二回なって、二回目のときに仲良くなった。波野は宿題をやってくるけど、自分のルールに沿わない宿題、たとえばプリントを写すだけとか、そういう作業感があるのはやってこないから、わたしが即席で波野の宿題を手伝ってあげて、それで仲良くなった。

 波野は勉強ができるから、天パとクリクリの目をつけた頭をよく振る仕草をしながらわたしに色んな難しい話をしてくれた。文化とか宗教とか。文系だった。女っ気はないようで、わたしの携帯が震えると、それは大体あの子からのラインなんだけど、机が大きく振動して音を増幅して、なんとなくわたしは居心地が悪くなる。考えすぎだし、見下してる。窓から風が入ってくる。波野の天パがはためいて、「だから、原因があって結果があるって日本人は考えるんだよ。因果論。」うん。「若いお母さんとかそうだろ?何かあったら、『どうしてこんなことしたの!?』って怒る。」そうだね。

 


 波野とわたしは、その日学校をやすんだ。その日はなんてことない平日で、特別なことといえば、まず空が真っ青で綺麗に晴れ渡っていたこと、アゲハチョウかなんかが飛んでいたのを、ベランダから見ていて、夏が来て、晴れていると心地いいなと思ったこと。それから、海に行きたいと思ったこと。そして、波野も同じことを思っていたこと。

 波野はいつも、自転車で学校に来る。わたしはラインで、「自転車に乗らずに駅に来い」とだけ伝えて、カバンの中から教科書をぜんぶ抜いて、空いたスペースに二人分の私服を入れて駅へ飛び出した。飛び出すのなんて久しぶりだった。学校に行くときは、飛び出したりしない。けれど、海に行くときに人はやっぱり飛び出すのだろう。飛び出さなきゃいけない。晴れている日なら尚更。

 波野と駅で出会って、トイレで制服を着替えて、それからなんとなく、高揚しながら波野が「海に行こうか」って言った。発案はわたしだけど、こういうことは不満にならない。

 


 電車は終点の、海がある、海しかないらしい駅に着くまでの間に、どんどん人が減っていった。波野は、「本を読むときは、なるべく感心しながら読む方がいいんだ」とか「尊敬を忘れるとぼくら集中できなくなるんだ」とか言いながら外を見ていた。わたしもずっと外を見ていたから、波野のおしゃべりはあんまり聞いてなかったけど、「でも尊敬できない人の本はどうすればいいの?」とだけは聞いた。波野はクリクリの、あるいはギョロギョロの目をいっかい瞬いて、それから上を向いて、口をぽかんと開ける、しばらくして「読まない...しかないと思う」と、慎重に言葉を選びながら、言った。

 


 駅の改札を出ると、アスファルトは太陽の光を存分に吸い込んで凄まじい照り返しをわたしたちに浴びせてくる。バスロータリーの時刻表を見ると、一時間に二本だけ。海の匂いがする。けれど道路はふつうの道路だった。ヤシの木はない。

 「...あぁ」と、波野が呻いた。「どうしたの?」と聞くと、黙って携帯を取り出す。『母』の一文字と、鳴り止まない振動。電話だ。無断欠席、高校生、たった一日の逃避行。それだけでも罪になる。わたしは「ファミリーマート行こう」とだけ言った。携帯は鳴り続けてる。駅の近くのコンビニは、「フリーダムマート」だった。Fのマーク。わたしの携帯は鳴らない。昨日、両親は寝ていたなあと思う。ベランダから、なんとなく寝ているのを感じた。

 


 「フリーダムマート」の中は涼しくて、照明がすこしだけ茶色い。「ビーチボールなんてあるんだ」って波野が言っていて、海が近いことを予感させる品揃えだなと思う。

 「どうして海の近くのコンビニにはトランプが売ってるんだろう?」と聞きながら振り向くと、波野は携帯の電源を切っていた。それから、上を向いて、口をぽかんと開けて、「...」沈黙。考えてる、また、難しいことを。わたしはメロンパンとサイダーと小さなアメリカンドックを買った。426円。波野はすこし遅れて、レジに入って、千円札を出してる。彼の右手には赤い紙の箱だけがあった。500円のトランプ。「え、トランプ買ったの?」と、笑いながら言うと、波野はわたしよりニヤニヤして「わからないならやるしかない」とだけ呟いた。こいつは浮かれてる。波野はもう一度レジに入って、カップ麺を買った。このとき二人で、わざわざレシートを捨てた。証拠隠滅。

 


 「わかってるの?人生オシャカになるんだよ?あなたは学校に行くのが仕事なのよ?」と三連続で、昔、疑問文を投げかけられた。この疑問文は、形だけで回答を求めてないからわたしは「うん」と「ハイ」を駆使して不毛な会話を切り抜けた覚えがある。不登校児になりたかった時期。不登校のきょう、思い出した。

 わたしたちはバスロータリーの向こうに伸びる大通り(都会の大通りと比べると中通りくらいの大きさ)を歩き始め、路地を二回曲がって、一本の長いまっすぐな道路に出た。両脇にはガストや紳士服店があって、景色は家の近くとたいして変わらない。ただ、潮の匂いだけが、海の存在をほのめかしていたから、わたしたちは歩くことができる。

 「因果論。」と呟いた。原因があるから結果があるって、知ってる。学校に行かないからわたしの人生はオシャカサマ。波野は、「因果論。」というわたしの言葉に反応して頭をこっちに向けた。すこし嬉しそう。誰だって自分のすることや言うことに興味を持ってもらえたら嬉しい。

 「...あっ」と、波野がまた呻いた。でも、希望のこもった呻き方だったからわたしはすこし高い声で「どうしたの?」と聞き返したら、波野は真っ直ぐ右手を伸ばして、人差し指で道路の向こうを指した。「...壁?」「ちがう、堤防だよ。」堤防か。しかし波野は楽しそうだったから、わたしもなんとなく楽しい。堤防の先には海がある。堤防があるから海がある、なら、因果論だ。「ううん、それは物理学だよ」と、波野が言った。波野はなんだって知ってる。

 携帯が鳴った。「ねえ、大丈夫?」「先生心配してるよ?」「わたし、光一と話していいのかなぁ...?」疑問文が三つ。あの子、わたしのことを少しだけ好きなのかもしれない。と思った。わたしはあの子のことが少しだけ好きなんだと思う。大丈夫?と言われると嬉しい。誰だって自分に興味を持ってもらえたら嬉しい。波野は少しだけ早足で歩いてる。アスファルトの照り返しはいよいよつよく、空の真ん中に太陽が昇る。「ぁついのは、太陽光の角度の問題なんだ」とクレッシェンドした声がすこしだけ遠くから聞こえるから「お前文系だろ」とわたしが言うと、波野はニヤリと笑って、カバンから水を取り出して飲んだ。何がおかしいんだろう。楽しそうだから、いいけど。

 


 海は、思ったとおりに青くて広い。思ったよりきたない。堤防の上には潮の香りが満ちていて、太陽の光はわたしたちをギラギラと焼いて、少しだけ肌が焼けるのが嫌だった。波野はわたしの前を歩いて、砂浜に降りる階段を探してる。

 シャツの袖をまくって、少しだけ筋肉質な黒っぽい腕が見える。シャツの袖のボタンのところで折り返された袖が嫌にセクシーに見えて、わたしは頭をふるった。汗がまとわりついて、濡れた服が肌にくっつく。波野は急に止まって、丈夫な首を後ろに捻って「ここから降りられ、そうだ」とぶつ切りに話して、下に行ってしまった。カバンの中のサイダーはもうぬるいと思った。ラインに返信してない。両親からの電話はない。ねえ、興味を持って、心配して、先生、ああもう、光一、わたしは「おーい!」と波野を呼んで「俺たち、オシャカだなあ!」と叫んだ。波野は、ポカンと口を開けて空の方を見てから、少し黙って、「トランプやろうぜ」と言葉少なに、笑顔で言う。遠くから全身を見ると、波野の腰は細い。急に元気になったわたしはサイダーを飲み切ると、ペットボトルを下に投げて、「後で拾う!」と言い訳しながら砂浜に降りる。階段の残り数段をジャンプしたとき、アスファルトがわたしたちを照らしていて、これで人生オシャカになるなら、決して、ぜんぜん、悪くないなぁって思う。