ゲージュツ的しつけ

フェレットのしつけが書いたゲージツ的なしつけ術の数々。メール→fererere25@gmail.com

テレビみて一緒に笑いたい家族計画でした

 テレビでは人を殺したニュースが流れていて「よく簡単に人を殺せるよね」なんて言った父親が次の瞬間には岩盤浴の広告を見て少しだけ笑いを噴き出したりしていて、人が死んだことを嘆いた三秒後に笑う感覚が一般的なんだろーか、と思い、じゃあいつもぼくは繊細すぎるとか、何で言われんだろうなと悩んでみても、お腹が空くのでとりあえず茹でてるパスタのことを考えることにする。

 パスタは熱にかけられた鍋のなかで無限の円運動を繰り返し繰り返して、水の対流の中を回り続けている、これはまるで箱庭みたいだ、シミュレーションゲームみたいだ、と思いながら鍋のそこから湧き上がってくるグツグツとした泡。あわあわあわ、これらが上がってきては弾ける弾けるのを見ている。あと七分。テレビからマーチングバンドの音楽と、それに合わせて踊る男たちのCM。車のCM。

 退屈な生活、そんなフレーズを考えながら、七分間待つだけ、人が殺された、人を殺したニュースは毎日のように流れてくるけど、その合間に流されるCMだって人を殺しそうなくらい冗長だって思う。僕は実家に居る独身のフリーター男性として、どうしようもないとされる人間の一人として生きている。そのぼくがこうして社会やマジョリティに反感を覚えながら生きている。ここに対立軸がある。ぼくと一本線を挟んだ向かい側にあるものたち。

 タイマーが鳴った。ずいぶんと早い七分間だ。フライパンのなかにトマト。あとアサリ。貝を歯で挟んでつぶした時に流れ出てくる汁はおいしい、その食感は少しだけゴリとしていて水分を含んだようでもあって、何かいけないものを歯で挟んでしまったような気がして好きだ、貝の食感は、なにか取り返しのつかないものに触れた感じがある。

 パスタソースとパスタを混ぜる。フライパンの上に、鍋から直接パスタを入れる。男の料理だと、言ってしまえば何故だか雑なところやがさつなところが許される気がする、こういうのを自動思考と言うのだろう。自動的に愛、とか、絆とかね、そういう言葉を再生しては何か一体感が生まれるこの脳内。脳内のようにパスタは整然としていて首尾良くソースに絡まってくれる。

 仕事はどうするんだ、とか、父は決して言わない。ずいぶんとお金がかかっているはずなのにね、ぼくには。パスタを皿に入れて、リビングへ向かう。テレビの音が近づく。テレビが一番よく見える席で、父親がグラスにレモンと焼酎と炭酸水でレモンサワーを作ってる。テレビでは殺人的なCMが流れていてぼくは、少し多く茹ですぎたパスタを食べる時間を考える。そのあいだ、テレビを見なきゃいけない。ぼくは自分にかけられた金を考えて罪悪感を感じながら、父親と同じ空間を生きていかなきゃいけない。父親は寛容な人間だ。テレビをみて一緒に笑いたかったなあ笑えるくらいの寛容さが欲しかったなあと思いながら、トマトを噛み潰してみて、酸味。美味しいのだろうか、これは酸味。