小島信夫の二十二歳、梶井基次郎の二十三歳。保坂和志『小説の誕生』を読んで。
私たちはたとえば、カフカの日記を読んでおもしろいと思うのだが、その日記を書いたときのカフカは二十代前半だったりする。宮沢賢治の享年は三十七歳で、満二十七歳で出版した『春と修羅」を、その後に生まれた者たちは七十年八十年の生涯を通じて読んだりする。偉大な作家というのは出発点からすでに偉大なのだ。
その「偉大」とは「異質」ということだと私は思う。「宮沢賢治は最初から完成されていたのだ」という言い方をする人がいるが、私はそうは思わない。「完成されていた」のではなくて「異質だった」のだ。 つまり、違ったものを持ち込んだのだ。文学というのは、絵や音楽のように物として見えたり聞こえたりするものではないから、それを真似たり消化したりするのが事のほか遅く、百年くらい経っても「異質」が「異質」のままなのだ。
(引用元:保坂和志『小説の誕生』新潮社)
小島信夫は二十二歳で『裸木』とい小説を書いたのだが、彼が学生だったということを考えればこの作品は習作と位置付けられる。けれど実際にはすでに小島信夫という作家の「偉大さ」が「異質さ」として現れていた。ということを説明した文章だ。
二十二歳という文字を見たとき、僕の頭のうしろ側はぼーっと熱くなり、瞳孔はすこし開いた。
「偉大な人間が初めから偉大なのだとしたら...。偉大じゃない人間は初めから偉大じゃないことになる」
などと言いながらベッドの上でぼくの筋肉は緊張して、唾液の量が減った。怒られたときみたいに、心拍数が上がった。初めて大声で怒鳴られたときのことを覚えているだろうか。ぼくは覚えている。あれはたぶん小学二年生のときで、廊下を走っていた時に「何やってるの!!」とかそんな感じで怒鳴られたのだった。
サーッと体の内側が寒くなるような感覚がして、体の中心に向かって筋肉は緊張し、頭はギューっと収縮したような気がした。妙に冷静で、これから怒られること、今まで楽しかったこと、自分が何かに怯えていることがはっきりとわかる。そして今自分がひどく力がなく、情けない存在であることがはっきりとわかる。それは怒られる事よりもかなしい。
血の気がひき、冷や汗をかいた。言葉にすればそれだけのことなのだけど、現実としての感覚はなかなか不思議で、それ以来ぼくはなにか失敗をしたり怒られたりすると、血の気がひき、冷や汗をかいてしまうようになった。
「あれが恐怖ということなんだろうな」と、今なら言える。二十二歳のぼくなら、小学生の自分に対してわかったような口をきいたっていいだろう。いや、小学生のときにわかっていて、今わかっていないもの、それはつまり失ってしまったものなのだけど、そういうものもあるはずなので、簡単には言えないけど。
何が言えるか言えないかはわからないけど、重大な問題がひとつあってそれだけはわかる。
ぼくは二十二歳になってしまった。
小島信夫が『裸木』を書いたのが二十二歳、梶井基次郎が『檸檬』を書いたのが二十三歳、村上龍が『限りなく透明に近いブルー』を書いたのが二十三歳。
ぼくは二十二歳。
書いた小説、ゼロ。コンクール受賞歴、入選一回。作った曲数、十曲くらい。数でどうこう言えるのはブログの記事数だけで、資産などない。
「偉大な人間が初めから偉大なのだとしたら...。偉大じゃない人間は初めから偉大じゃないことになる」
この言葉をつぶやいたとき、僕の身体の中ではさーっと血の気がひいていた。
偉大さとは異質さである。
しかしおそらく、異質であるかどうかは本人にはわからない。
なので、ぼくが今、異質=偉大であるかどうかはぼくにはわからない。
ただ、異質であることを狙って書いた文章は確実に異質ではない。相対的に異質であることを狙っている時点で「普通」のコードに縛られている。例えばいまぼくが、朝起きたら一枚のタオルになっていたけど意識だけは残ってる、みたいな小説を書いても、一般的な普通のコードと同一線上で比べて異質なだけで、そんなのは異質でもなんでもない。
「というかカフカの焼き直しだ」
と、気づいた僕は部屋の電気をつけた。
頭の右側をかいて、体を起こす。足を抱えるようにして横向きに眠っていたので、足が固い気がする。伸ばす。外は暗い。スマホだけが明るかった部屋の全体が照らされて、雑然とした部屋があらわになり、恥ずかしかった。
「どうしてぼくは恥ずかしいのだろうか」と、口にしてみたが、やはり言葉は空気をふるわせて音になる。
「ぼくは二十二歳になってしまったが、まともに文章も書けない。小島信夫にしろ梶井基次郎にしろ村上龍にしろ、異質とか偉大とか以前にそもそも文章がうまいけど、ぼくは文章が下手で、人に伝わるように書く、なんていう基本的なこともできないってことは作家になりたいなら作家としての基礎体力すらないのじゃないか」
と、心で思い描いていると外からバサバサと鳥が羽を開く音がした。
「作家になんてなりたくない、ほんとうは、何もしたくない。それでいて、偉大であって異質でありたくて、モテたい。退屈はきらいだ。何も楽しくなんかない」
言葉を音にすると、みぞおちのあたりが少しだけゆるまった。心を胸にあると感じたむかしの人は正しいのかもしれない。なにか悲しいことや上手くいかないことや苦しいことがあると、胸のあたりが緊張する。血の気が引くときに、頭がギューっと収縮していくように。
いまのぼくにだって偉大な小説が書けるかもしれない。ポール・オースターのような?村上春樹のような?「笑っちゃうなあ」と口にした時のぼくは口の端っこに笑みを浮かべていたからまるで映画のワンショットみたいだった。
「目を閉じて、何も考えないでいるしかない。苦しみはいつか去っていく。それはわかってるけど、いまある苦しみがつらいことが問題なんだよなぁ」と思いながら、酒を飲みたがる人の気持ちとは、自分が生成する言葉のしょうもなさや、限界に気付いた人なのではないかとも思った。
自分の思考や衝動がなにか別のかたちに変化していくことの、たのしさ。この身体やこの思考様式、この、偉大ではない言葉の羅列をしてしまうぼく。
酒を飲めば、そういったものから少しだけ離れることができる気がする。マインドフルネスだって同じことだ。こんなこと言うとイェール大学の研究者に怒られてしまうかもしれないけど。
当たり前のことしか言えない、当たり前のことしかできない身体を持ち、二十二歳。コンプレックスに焼かれる。
「退屈さや、つまらなさが不安に変わっていく」言葉にしたら、少しだけ胸がゆるまってくる。