ゲージュツ的しつけ

フェレットのしつけが書いたゲージツ的なしつけ術の数々。メール→fererere25@gmail.com

変な味

 路地裏では雑居ビルの室外機がいっせいに動いているために、ゴウゴウとすごい音がする。彼はタバコを咥えながら、室外機の吐き出すなま暖かい空気のなかにいた。ここの空気のほうがタバコの煙より健康に悪そうだ。

 彼は朝方が好きだった。深夜ではない。夜が終わり、ホストクラブやキャバクラも客を街に放り出したあと、誰もがぼんやりとした頭で、あるいは殴られたり、怒鳴られたりした後の傷ついた頭で太陽の光をむかえた。あの光には解毒作用があると、昔の上司が言っていた。

 彼は雑居ビルの間から太陽が昇る直前の、紫色の空を眺めていた。そうして空を眺めていると、さまざまなことが信じがたいことのように思えた。HIVコロナウイルスのような伝染病があること、アメリカや中国のような国があること。アルメニアのような国があること。自分にも子供時代があったこと......。

 だけど、すこし考えてみればそんなに信じがたいことでもなかった。彼はだいたいしあわせな子供時代を送っていた。あまり覚えていないが、あのころはみんなが貧しくなかった。それから大人になって、仕事をした。いくつか成功もした。いろんな女たちとも知り合った。それも今では過去のことだ。今では仕事にも女にも見放され、六十を過ぎた浮浪者になってしまった。ポケットを探るとピースの箱、それからライターと、五百四十七円。

 老人は女たちとの思い出にふけってみた。やさしくしてくれた女たちがいた。そのほかは頭のネジがすこし緩んでいて、なにかと言えば声をあらげ、爪を立ててきた。新聞紙も冷蔵庫もテレビも電子レンジもベッドも、すべてが退屈だった。

 いつの間にか、背後に人がきていた。彼は話し声を聞いた。若いビジネスマン風の男が、電話をしている。筋肉質な引き締まった身体で、突き刺すような響きのあるしっかりとした声だった。老人はまだ気づいていなかった。

 「...ええ、では」

 そう言って男は電話を切った。男は、こんな朝っぱらから働かなきゃいけないことに悩みも疑問も感じていないようだった。それでも室外機の群れがなま暖かい空気を吐き出すこの空間は嫌いだったから、何としてでも速い脱出をしようと試みた。走ったのだ。若い身体の突然の駆動、それは暴走する機関車のように有り余ったエネルギーを持つ者に特有の、無自覚な暴力だった。意思のない純粋な暴力だった。老人は突然現れたスーツの男の足音に驚いた。恐怖した。持っていたタバコを落としてしまうほどだった。

 「やい、この野郎、危ないじゃねえか」と老人は言った。

 スーツの男は、ピタリと足を止めて、振り向いた。若者の身体は大きい。雑居ビルの裏で、喧嘩を売るようなことを口走った。それは明らかに失敗だったが、老人はそう思っていなかった。

 「スミマセン」と若者は機械のようになめらかな声で話した。話しながら、老人のほうへ歩み寄ってきたので、老人は数歩後ずさった。

 「タバコ」

 「はい?」

 「タバコを落としたんだよ」

 「そうですか」と若者が言ったのを聞いて、老人は力のかぎり大きな声を出した。

 「お前がぶつかってきたからタバコを落としたんだよ!」

 若者は意味がわからなかった。若者はラグビーをやっていて、身体が大きいのが特徴だったが、今まで意識したことはなかった。身体が大きいのが当たり前の空間にいたからだ。仲間のなかでは敏捷性に優れたほうだった。だからぶつかるのは弱いほうだった。しかしこの老人は、枯れ木のように細くて、なんの力も感じない。若者は初めて自分の体の力を自覚した。この老木が、自分に何かを訴えている?

 「だからお前が弁償するんだよ」と、老人はかんだかい声を張り上げた。しかしその声は室外機のゴウゴウという音にかき消されるギリギリの音量だったから、若者は理解するのに時間を必要とした。

 「法律っていうのがあるだろ、暴行にはちゃんとしたサバキがあるんだよ」

 「...はい?」と若者は言った。意味がわからなかった。

 老人はかんだかい子供のような声の、背が極端に低い、大昔のSF映画に出てくる宇宙人みたいな格好だった。その宇宙人が、理不尽な要求をしてきている。その意味がわからなかった。変だし、嫌なジジイだ。傍にいて話してるだけでイライラしてくる。

 老人はニヤニヤ笑って「病院に入りたいから金くれよ、会社どこなんだよ」と、かんだかい声で聞いた。その時である、老人が若者の体の大きさに気づいたのは。

 「ぼくは...」と若者は言った。

 「ん?」老人は言った。

 「ぼくは、あなたとまったく違う人間なんです」若者は、そう言いながら老人に近づいた。

 「だから、なんだ」

 「あなたは、弱いし、力もない」若者は、老人と自分はまったく、何から何まで違う人間だと証明しないといけないような気持ちだった。とても残酷なことをしないと気がすまなかった。力なく柳のように痩せ細り、宇宙人のように喋るこの老人、ムカつく、嫌なやつ、彼を見ていると自分までとてつもなく惨めな存在に思えてくる。

 老人は後ずさった。純粋な暴力の前にはこの身体は無力だと知っていた。若者は近づいた。老人は今まさに目の前で起こる暴力に身構え、目をつぶった。間違えた、しかし明け方に死ぬのは悪くもない。

 大きな音がして、路地裏から若者が一人走って出てきた。その様は何かを成し遂げたようでもなく、とてもなめらかだった。朝方の街は駅に向かう人でたくさんだった。しばらくすると若者は雑踏のなかに混じっていった。もうどこから見ても、どれが彼だかわからなくなった。

 老人は足元に投げつけられたメビウスの青い箱から散らばったタバコを見ていた。老人は這いつくばって、その中からまだ綺麗な一本を拾った。空は夜明けも間近で、一番美しかった。タバコを口に咥えた。変な味はしない。変な味がしなければいい。老人は自分のなかにまだ生きる気持ちが残っていることを知った。病気にはなりたくない。変な味はしないから安心だ。老人はこれからも変な味には敏感でいようと思った。