ゲージュツ的しつけ

フェレットのしつけが書いたゲージツ的なしつけ術の数々。メール→fererere25@gmail.com

わかってない本好きのいい加減なトリップ

「まったくわからない」が、俺が本を読んでいるときの基本的な態度である。俺は頭が悪い。何が書いてあるかがわからない。文字は読める。何かが書いてあるのはわかる。

 たとえば、「二つの美学が存在する。鏡の受動的な美学と、プリズムの能動的な美学。前者に導かれて芸術は、環境もしくは個人の精神史の客観的な模写となる。後者に導かれて芸術は、みずからを救い、世界をその道具とし、空間と時間という牢獄から遠く隔たったところで、独自のヴィジョンを創出する。これが<ウルトラ>の美学である。その意思は創造にある。宇宙に思いもよらぬ切り子面を刻むことにある。」(引用元:J・L・ボルヘス著 鼓 直訳『伝奇集』岩波文庫)

 と書かれている。意味がわからない。意味がわからないがなにかしら意味のあるようなことが書かれているようでもある。

 無理に解釈しようとすればできるかもしれない。つまりは美学について書かれていて、その美学の分類とそれぞれの効用や目指すところが書かれているのだろう。

 こんなふうにして一つの言葉を少しずつ見ていけば意味はわかるかもしれないけど言葉で構成された理解は実感を伴わなければ感情的に分かった、という感じもしないのだ。ただ言葉を言葉によって分解しただけというような感じがする。

 こうして書いてみると俺はまったく感情と感覚の人間であることがわかる。俺がわからないと思うものたちはたぶん理屈で書かれているのだろう。論理的に正しいから正しい論証である、ということだろう。それはまったく正しい。絶対に正しい。正しいけれどわからない。演繹的論証というやつだ。絶対に正しい論証。正しいのはわかるけどそれ以上はわからない。

 俺に理解できるのは感情だけだ。それも自分の感情だけだ。自分の感情に近いところの文字なら理解できるのだろうか、いや、たぶん理解できないのだろう。そもそも理解なんて存在するのだろうか。

 たとえばある小説の書評や解説を読んだとき、作者はこういった思想でこういった経歴でこういったことを書いている。ということはこういうことがいいたいのだ、と主張されていることがあるが、俺にはあまり納得できない。それは普段の言葉の使い方から抜け出てないのではないだろうか。国語のテストでやった、「作者の気持ちを考えよう」ゲームとあまり違いがないような気がしてしまう。

 俺は小説を理想化しているところがあるから、小説を書くということは普段の生活や世界で流通する言葉に何かしらの不満を感じているはずだ、と思っている。つまり普段の思考や言葉の使い方を超えたところに小説の言葉はあるのだ。それは現状の社会に対してもうひとつの社会を構築することだったり、現状の感覚にたいしてもうひとつの感覚を構築することだったり、現状の人生に対してもうひとつの人生を...といったように、小説は常にいまの何かを飛び越えるために書かれると思っている。

 だから作者の気持ちを考えてもしょうがないし、作者の個人史から解釈を読み解いてみてもしょうがないと思っている。解釈や気持ちなんていうのは「いまの何か」に根差したものだからだ。せっかくそこを飛び越えているものを、無理やり「いまの何か」に落とし込んでしまうような気がしてしまうのだ。無理矢理いうと、小説を読むことは小説を読んでいるその瞬間にしか達成されない。

 そんなふうに思いながらも書評を読んで面白いと思ったり、哲学書の解説を読んでなるほどと思っていたりするのだから俺という人間はとにかくいい加減なのだ。

 そして面白いと思いながらも、書評や解説書を読むと唖然とする。世の中には俺がまったくわからんと思いながら読んでいるものを理解して解釈して一定の文字にすることができるひとたちがいるのだ。これは歴然とした知力の差だ。

 そうしてまた、自分にはなんて理解力がないのだろう、と思いながら小説を読む。まったくわからん。しかしわからんなりに実感として変な気持ちになったり面白いと思ったりする。感覚や感情が動き、形而上的な世界に連れていかれたりする。しかしそれはまったくわからんまま、わからんなりの実感である。知力に裏付けられていないインチキのトリップだ。いいかげんなトリップだ。

 ジャンキーが化学式などわからないまま幸せな世界にトリップしているようなもので、小説世界で起きていることも筋もわからないままに言葉だけが駆動してイメージを紡いでいる。それは作家の意図を超えて、俺の頭で勝手に無分別に起こることだ。あまり品の良いことではないが、いいかげんでも気持ちよければ良いのだ、とも思う。そうすると、理解できる小説ではなく感覚に合う小説だけを読むことになる。割り切ってしまえばそれで幸福である。でも、わからんものをわかりたい気持ちもある。でもわからん。やっぱり、まったくわからない、でも、幸せになるときもある。