ゲージュツ的しつけ

フェレットのしつけが書いたゲージツ的なしつけ術の数々。メール→fererere25@gmail.com

母を盗まれる

 人との関わり方がわからない。

 高校生の時、チェコからの留学生がホームステイで家にやってきたときの話だ。

 俺と彼とはあんまりうまくやれなかった。俺は名前を間違えたし、彼は俺を「ゲイ・ボーイ」と呼んだ。まあそれは仕方のないことだ。人は合う、合わないというものがある。その中で感情がささくれ立つこともある。多少の侮辱も時には許される。

 ただ、ある日、ホームステイの最後の晩だったと思う。俺がリビングの奥の部屋で眠りにつこうとしていた時、リビングの方から声が聞こえた。

 彼の声だった。

 「こんかいのりょこうはほんとうにありがとう御座いました」

 拙い日本語で何かを伝えようとしている。俺はつい聞き耳を立ててしまった。彼から俺に伝えたいことなんてなにもないのに。

 「プレゼント、もってきました」

 そこから彼は英語で喋る。説明しながら、チェコのウィスキーと、キャンドルセットと、それから写真とかメモとかそういう、何か思い出になるものを渡した。感動的な場面だった。母は涙を流していたようだったし、父は言葉が少し震えていた。

 俺は、一人隣の部屋でじっと聞き耳を立てていた。俺の部屋はとても静かだった。感動も、感謝もなく、じっとただがらんどうの、空洞のさびしい空気が流れていた。そして妙な緊張感と、変な冷や汗を感じる。俺は疎外されていた。でもそれはしょうがないことだ。恩義を感じる対象ははっきりさせなきゃいけない。

 「みなさんには、とても、かんしゃ、しています」

 彼が言った。

 「こんなによくして、もらって、ありがとうございます」 

 両親は感激しているみたいだった。

 俺は隣の部屋でじっとしていた。ここで飛び出して感動の奔流に身を任せその空間の中で、感謝の、称賛を受けたかったけれど、じっとしていた。あまりにも哀れだから。

 寺山修司の言葉を思い出した。盗んだ母が一番尊いのだと。

 マザーコンプレックス、空間コンプレックス、称賛コンプレックス。彼はその場の全てを支配して、それらを満たしている。俺はまざまざと見せつけられて、そのすべてに苦しんでいる。生物としての敗北。社会を作る生物として、家族を作る生物として、子供の役割を俺より上手にやってのける奴がいた。敗北だ。彼と俺は敵同士で、俺は負けたんだ。

 その日の感動の場面はそこで終わった。完璧だった。引き際まで心得てる。完璧だ。

 俺は考える。今回の事例の一番厄介な点は、彼は俺のことを何とも思っていないこと。俺に対して向けられた「ゲイ・ボーイ」という言葉とは全く違ったタイプの疎外。俺は存在すらしていなかった。完全にスポイルされていた。

 彼は無意識だった。俺のことを数に入れていなかった。無視していた。当たりまえだ。感謝されることなんて何もしてない。当たりまえのことが何故かどこか辛かった。未だにこの辛さの理由はわかっていない。