ゲージュツ的しつけ

フェレットのしつけが書いたゲージツ的なしつけ術の数々。メール→fererere25@gmail.com

水星は、みかづき町に擬態する

 2020 6/29


 何時に目が覚めたか覚えていない。昨日は眠れなくて、4:30ごろに寝ついたように記憶している。

 二限の後半にレッスンがあるので、9:00には駅に行かなくてはいけない。7:30に起きようとして、7:45に起きる。朝の15分は大きい。この大きいって言葉は比喩だけど、何が大きいんだろう。客観的には15分だけど、深夜の15分とはわけが違う。

 睡眠時間が三時間だったのでフラフラしながら駅まで歩く。太陽に照らされて、アスファルトにも照らされて、空気中には水分の量が多く、僕は汗をかきながら、蒸し焼きの気分で歩く。最後とはいえ、6月でこの暑さかあ、と少しうんざりする。うんざり。不思議な感覚だ。悲しみで寂しさでもなくうんざり。うんざりすると、暑さが増す。

 学校に着く。今日から通常授業が一部再開したので、今まで会ってなかったたくさんの友人に会う。人が多いところは苦手だ。人が多いとテンションが下がる。単純に疲れて、何もしたくなくなる。

 友人と話していて、俺のパーソナリティなんてどうでもいい、みたいなことを言った。

 レッスン。寝てなくたって声は出る。久しぶりにピアノと一緒に歌ってたのしかったです。

 ご飯を食べて、帰る。帰り際に図書館に寄って『世界のエリートがやっている最高の休息法』を借りる。本当はその場で読み切るつもりだったんだけど、眠すぎてダメだった。休息法を知りたい人が疲れていて勉強できない場合は、どうしたらいいんだろう。休息法を知りたい人のための休息法が必要。急速な休息法。ダジャレ。

 歩いて帰る。図書館からは徒歩30分くらいのはずが、気づいたら逆方向に歩いていて一時間くらいかかる。

 『世界のエリートがやっている最高の休息法』という本は、物語形式になっている。とてつもなく優秀な脳神経学者の卵である主人公が、挫折と疲れのなか、教授の教えもあり、マインドフルネスと出会う、というような話だ。マインドフルネス×脳科学という感じで、最初の部分を読んだだけでも面白かった。

 休息法の本を読んだところ、マインドフルネスはヴィパッサナー瞑想によく似ていることがわかった。ヴィパッサナー瞑想とは、止観瞑想とも言われる瞑想の方法で、インドの原始的な瞑想法のことだ。

 止観瞑想という名前の通り、止まっている自分を観る瞑想法で、例えばじっとしながら呼吸に集中したり、自分を引っ張る重力の力を感じたりする。

 じっと自分の内部感覚や、外部から与えられる刺激を観察していると、さまざまな力が自分に向けて発せられたり、自分が発したりしていることに気づく。太陽が自分を焼いて、アスファルトが空間を蒸していく。風が通り抜ける。潮の匂いがする。鳥が鳴いている。今、ここに集中する。すると、悩みが消えていく。

 『世界のエリートがやっている休息法』は、この、悩みが消えていくメカニズムが脳科学によって解説されている。

 多くの人が知りたいのはここだろう。「そんなことやってホントに悩みが消えるの?」消えます。消えるというか、意識しなくなります。

 しかし、落ち着くのが果たして幸福なのかというのは、考えなくてはいけないかもしれない。人間の脳は、感情的にギャップがあると快感を感じるようになっているらしい。

 さめざめ泣いたり、手玉に取られたり、かと思えば喜ばされたり、振り回されることが楽しいみたいだ。小悪魔女子がモテるのはそういうことらしい。小悪魔女子ですら脳科学で説明がつく時代というのは、とってもわかりやすいし助かるのだけど、手品のタネをバラされた感じもある。これだけクリティカルでわかりやすい情報が多い世界だから、知識量がモノを言うようになってしまったんだろう。

 落ち着いてしまえば、感情が振り回されることもなくなる。論理的思考はできるようになるし、決断力も上がるけど、快感の量は減る。仕方のないことだ。悲しみがあれば喜びもある。悲しみがなくなれば喜びもなくなる。

 瞑想は、歩きながらでもできる。歩いてるときに感じることに集中すればいい。呼吸、太陽の光、足がアスファルトを蹴っている感覚、汗が吹き出る瞬間の感覚。それらを感じていると、起こっていることと感情がリンクしなくなる。

 例えば、今日はとても暑かったのだけど、暑いという感覚に集中すると、暑いことと、イヤだという感覚の二つが切り離されて、暑くてもイヤだと思わなくなる。それどころか、体に当たる風にも敏感になって気分が少し良くなったりする。いいことが多い。疲れたときにやると、目が覚めたり、疲れを感じなくなったりする。結果的に、無限に歩くことができる。

 そんな風にして歩いていたら、夕方に近いこともあって、犬を散歩させている人をよく見かけた。犬を見ていたら、飼い主さんに「触りますか?」と声をかけられる。二人から声をかけられた。二匹触った。チワワとプードル。

 僕は知らない人と話すとき、異常に愛想が良い。お店のひととか、道端のひととか、居酒屋のひととか。それは、相手に良く見られたいからだ。僕のパーソナリティが明るかったりオープンな訳じゃない。

 しかし、動機は問わず、笑顔で対応したり、進んで話を聞いたり、親切な行動を取るひとは明るくオープンなパーソナリティである、ということになる。

 であれば、人格とは、どう見られたいかの集積なのではないか、という仮説を立てて、歩きながら考えていた。

 僕は知らないひとと話すとき、明るい自分を演じている。それは非常に自然な演技だから、演技だとは思われない。自分でも演技だとは思っていない。あとで思い返すと、ああ、あのとき演技をしていたな、と思うだけだ。

 つまり、演技には、相手にどう思われたいかが反映される。それはほぼ自動的に起こる心の機能で、であれば演技は何をするかではなくどう見られるかが大事になってくる。

 お芝居をするなら、人間関係の中で自分の役が人にどう見られたいと思っているかを考えれば、そこから逆算してパーソナリティが浮かび上がってくるのではないかと思った。

 パーソナリティとは、どう見られたいかの集積である、という命題を立てた。

 16:00ごろに帰る。フルーツを食べると眠くなったので6時間くらい寝る。そして今これを書いている。一日は長い。書くのも長い。明日は日記を書いてるのだろうか。とりあえず眠ろう。今日も、こうして見ると色々なことを考えたものだなあ。

 


 2020 6/30

 朝、10:30ごろに起きる。いや、起きるというか、目が覚めるが、身体が起き上がらない。持ち上がらない。ぐだぐだとまばたきを繰り返し、11:00を迎える。頭が重く、何もする気が起きない...。こういう時は大抵の場合低気圧が原因ということにしているから(自分の中で決めてる。言い訳のために)気圧を調べる。今日は低気圧らしいと知って救われる。

 今日は12:40には家を出なくてはいけないので、なんとかベッドから這い出して、シャワーを浴びる。体は冷えていたみたいで、シャワーの熱が染み込む感じがする。じんじんと。頭に熱いシャワーを浴びると良いみたいだ。重さが少しだけ和らぐ。

 学校に行く。行く途中の1時間半で何をしたか全然覚えていなくて、怖い。時間が消失したみたいだ。移動時間の記憶は消えやすいから、こまる。移動時間が長いから、こまる。

 一日に三時間消失していることになる。でも、帰りの記憶はある。ドラマを見ていたから。

 しかし今はまだ学校についてないから、その記憶はその時の僕にはない。学校に着く。

 授業を一つ受ける。オペラ演習。歌えることが面白い。実際に歌うことが面白い。対面というのはやっぱり大変だけど価値がある。固有のものがある。とはいえ対面絶対主義みたいなことじゃなくて、レコードにもライブにもインスタライブにもそれぞれの固有のものがあり、その中の一つとして対面があるというだけだ。

 帰ろうとするが、歌い足りず、練習室へ行く。まだ提出してない書類のことを考えると、教務課に行きづらい。俺が悪い。

 帰る。ドラマを見る。家に着く。ドラマを見る。お風呂に入る。ドラマを見る。

 家に帰ってからも、あんまり何をしたでもなく、次の日が来てしまった。次の日なんてこなければいいのに、なんて思わなくなったから、暇は良いことだ。

 こうして日記を書いていると、日記という文学の形態について考える。カフカの日記、ミシェル・レリス日記、チェ・ゲバラ日記、ダライ・ラマの日記。これらの日記が読みたい。日記に正しい形はないけど、例えば非常に描写的に書く人もいるだろうし、僕のこれはまったくもって描写ではなく言葉の自動的な駆動に任せると言った感じで、読んでいて面白いのだろうか。

 自信がないのは人に好かれないけど、思ってしまったものはしょうがない。公開する前提で書いているのがおかしいのか。

 自分が読んだらきっと面白いだろう。俺が面白いと思うものはみんなにとって面白くないらしい。孤独であることに痛みを感じる。そういうタイプだ。心理学的にいえば。心理学的にいえば。心理学的にいえば。心理学かあ。メスを入れて勝手に名前がつけられていくみたいだ。「20200630、心、孤独を恐れる。」みたいなラベルを貼られて標本にされて、俺は科学的な記号になる。人間は記号じゃない。所有もできない筈だ。わかり得ない部分が大切だ。わかり得ない部分は、分かろうとするから現れる。分かろうとすることは大切だ。でも、でも、でも、でも、でも、、、でもなんだろう。科学に対して、素朴に、たぶん、素朴に、そんなことで分かった気になるな!と言いたい自分がいるのを無視することができないんだ、ぼくは。

 


 2020 7/1

 七月になってしまった。起き上がったのは11時。しかし眠い、というか重い。故に眠る。12:50に起きる。

 時系列的にはおかしいけど、いま電車のなかに、通勤電車にむしろ乗りたいっていうことをひたすら主張する男が耳障りな特徴的な声で喋っているのが聞こえる。スキマスイッチのボーカルのような声で、人によっては好きな声だろうと思う。僕は苦手だ。スキマスイッチは好きだ。

 主張している人の声はわかる。特徴的だ。話を聞いてる人の方が余裕があり落ち着いてるように見える。つまり、話を聞く側と話す側では立場的な変化が、その瞬間に起こるということだ。言わぬが花。それはある一つの真理であるようにも思う。

 人に話すのは相手の感情に寄り添うことが大事だ。相手が気分良く受け入れられる打診の仕方なら、失敗することは少ない。

 文章もきっと同じで、心理的に受け入れやすいパターンというのがあるんだろう。だから、そういう書き方を覚えたい。というか、どうにかして試行錯誤して身につけたい。

 起きてからシャワーを浴び、ご飯を食べ歌の練習をする。歌えば複数の問題は解決する。歌うことで健康になれる人間でよかったなぁ。

 だらだら過ごす。16:00ごろに一眠りして、17:00前に起きる。17:20に家を出ないと。間に合わない。

 友人と食事を食べる。この時期に新宿へ行った。無用心だと思う。友人も無用心だと思っていたらしい。様子と会話ですこしわかる。では、なぜ無用心をあえてやってしまうのだろう。合わないほうがいい、会うにしても、別の場所がいい。しかし、お互い無用心だとわかりながら無用心を進んで求めてしまう。死の欲動というやつだろうか。あえて、新宿に行く。新宿には相変わらず、ひとが多かった。

 中華料理を食べる。美味しい。いろいろな話をする。ぼくは、いろいろなことに気づく。例えば、ぼくは自分の感情ではなく他人の感情に、もっと言うと他人から自分へ向けられる感情に反応していること。

 ものごとの共通点と違いが気になること。

 外出自粛に我慢が必要な場合があること。

 自分の好きなものを人に伝える方法で悩んでいる人が多いこと。

 保護されたくないこと。放って置かれたくもないこと。

 気づいた。

 駅から家まで雨の中を歩いている。

 恋人はいま不安らしい。なんとかしてあげたいと思う。

 俺は、受け入れる人になるんだろう。

 自分が一番求めている母性を、自分が一番発揮する。

 受容。

 客体。

 客体として生きる。憧れられるところの人間。

 憎まれる人間。愛される人間。誰よりも嫌われる人間。受け入れよう。好きなものを俺に入れてくれ。

 なりたいあなたになってあげよう。そうしてぼくは全てを手に入れるんだと思う。

 中学二年生みたいで恥ずかしいな。

 


 2020 (7/3) 7/2

 いま、7/3の14:00ちょうど、学校への電車の中でこれを書いている。昨日は眠くて眠くて、とはいえ夜の二時に寝たのだけど、それから今日の12:00まで寝た。これは、本来なら今日の日記に書くことだ。

 全然眠れなかった。5時間くらいしか眠れず、11:00には家を出なくてはいけなかったので頑張って布団の外へ出る。晴れ。

 昨日までの雨が乾かないうちに空はもう透き通ると言った感じの青空で、体は焼かれる。焼かれる感じだ。下からアスファルトに照らされる。ホットサンド状態だ。

 『休息法』の本にある歩行マインドフルネス的なことをやると、暑さと感情がリンクしなくなるので、不快感はなくなる。便利だ。果たして禅のメソッドを便利と言ってしまって良いのかはわからない。(禅をメソッドと言ってしまって良いのかもわからない。)

 昼からピアノと合わせをする。合わせができるようになったのは嬉しい。しかしうまくはいかない。うまくいかないなりに頑張ろうと思う。それは、いつもそう思う。

 できないからやる。挫折するからやる。いつもそうだ。自分に出来損ないだって感覚を感じているから、少しでも欠損が埋められるように頑張る。それでも天才にかなわないこともある。できることもある。そういうもんだろう。

 挫折感のようなものを感じる。昼食を食べ、恋人とサイクリングに出かける。自転車を借りられるサービスが最近、やけに充実していて、東京都内ならどこの自治体もやってる。川沿いを走る。いい気分だ。

 帰宅。寝る。何もしなかった。風呂に入った。しかし記憶がない。寝た記憶しかない。疲れていたらしい。これを書いている今でも、その疲労感は残ってる。

 


 2020 7/4

 起きる。11時。寝る。起きる。12:30。

 睡眠時間がまたおかしくなっているけど、これもきっと周期的なものだろうと思う。本を読み、食事をする。

 体癖論の勉強をしようと、昨日考えていたんだった。明日は都知事選の投票日。でも、今日投票しに行こうと思う。

 母親と話をして、それから期日前投票と本の調達に出かける。

 投票するためのカードのようなやつ、住民の情報が書いているアレ、名前を知らないアレには、投票所が小学校だと書いてあったから、小学校に行ったけど何もやっていない。おかしい。グルグル回る、一周回ったけど投票をやっている気配がない。時間が過ぎたか?

 もう一回投票用紙を見る。確かにここだ。この時はわかっていなかったけど、本当は区役所だった。

 期日前投票を終えて、区役所を出る。図書館へ向かう。最近、細かく順序立てて書くのが面倒くさい。最近、いろいろなことが面倒くさい。

 図書館では、整体の本と心理学の本を読む。どちらも体癖論に関わるやつだ。ツールが欲しい。人間を理解するためのツールが。MBTI、ストレスタイプ、そして体癖。この三つで相手を理解し、コールドリーディングをしつつニーズを探っていくことができるようになれば、後は相手の自己重要感と、相手から見た自分の重要感を上げていけば人間関係はうまくいく。理論上は。

 図書館で読んだ二冊はあまり役に立ちそうになかった。やっぱり原典に当たらなくちゃならない。自転車を走らせ、書店まで行く。

 野口晴哉著『体癖』を買う。700円くらい。野口晴哉の著作を読むのはこれで四冊目だ。気づかないうちに何故か読んでいる。自分の行くところに現れるのだから仕方がない。読んでいく。

 また、『体癖』という本には第二巻が存在するらしい。なので、借りに行く。第一巻は貸出中だったけど、第二巻まで読む人は少ないらしい。まだ読んでいない。読む予定だ。

 家に帰る。食事をする。歌う。お風呂に入る。ウイイレをやる。そんな感じ。そうして気づけば次の日が来ている。一日が短く感じるのは、起きるのが遅いからだ。夜がぼくの主な活動時間になる。マインドフルネスの本を読む。寝る前に10分くらいやる習慣にしちゃおうかな。続くかな。

 


 2020 7/5

 友人と東京を歩く日。歩きながらいろいろなことを話した。民主主義や、文学や、カラーコーンについて。美しいものを見た。夕焼けや焼けることについて話した。数時間前のことだ。

 東京都知事選についても話した。話さざるを得なかった。理性について話した。感情とか、人間を分ける三分法について話した。

 記憶はあるが整理が追いつかない。本はあるけど読むのが追いつかないみたいだ。本を多冊読む話をした。多冊の響きに他殺を感じた。いまも感じる。読むのは殺すのに似ている。嘘だ。そんなこと思ってない。しかし、殺すためには明らかにする必要がある。相手の居場所や、弱点について。読み、明らかにすることは殺すことの第一歩になるかもしれない。

 空目した言葉について話した。線路のそばを歩いた。美しいものを見た。

 今は歩いている。線路の下を歩いて、家に帰っている。日記とは本来ねるまえに書くものだろうから、これは日記のフォーマットに従ってないかもしれない。いいこともあったしわるいこともあった。悪いことばかりではない。生きていると面白いことがある。一日の間でもいくつかある。悪いことばかりじゃないって話をした。児玉まりあとスペシャルについて話した。