ゲージュツ的しつけ

フェレットのしつけが書いたゲージツ的なしつけ術の数々。メール→fererere25@gmail.com

「書けてしまう人」である村上春樹の文章のつくり方。『納屋を焼く』を読んで。

 彼女とは知り合いの結婚パーティーで顔を合わせ、仲良くなった。三年前のことだ。僕と彼女はひとまわり近く歳が離れていた。彼女は二十歳で、僕は三十一歳だった。でもそれはべつにたいした問題ではなかった。僕はちょうどその頃頭を悩まさなければならないことが他にいっぱいあったし、正直なところ歳のことなんていちいち考えている暇もなかった。彼女はそもそも最初から歳のことなんて考えもしなかった。僕は結婚していたが、それも問題にならなかった。彼女は年齢とか家庭とか収入とかいったものは足のサイズや声の高低や爪の形なんかと同じで純粋に先天的なものだと思い込んでるようだった。要するに考えてどうにかなるという種類のものではないのだ。そう言われてみれば、それはまあそうだ。

 彼女はなんとかという有名な先生についてパントマイムの勉強をしながら、生活のために広告モデルの仕事をしていた。とはいっても彼女は面倒臭がって、エージェントからまわってくる仕事の話をしょっちゅう断っていたので、その収入は本当にささやかなものだった。収入の足りない部分は主に彼女の何人かのボーイ・フレンドたちの好意で補われているようだった。もちろんはっきりしたことはわからない。彼女のことばのはしばしから、たぶんそんな風なんじゃないかと想像してみただけだ。

 とは言っても僕は、彼女がお金のために男と寝るとか、そういうことを言っているわけではない。たぶんもっと、ずっと単純なことなのだ。そしてそれはあまり単純すぎるので、いろんな人間が自分のふだん抱いているぼんやりとした感情をいくつかの明確な形にーーたとえば「好意」とか「愛情」とか「あきらめ」とかいったものにーー反射的に、自分でもよくわからないうちに、転換させてしまうのだ。うまく説明できないけど、要するにそういうことだと思う。

 もちろんそんな作用がいつまでもいつまでも続くというものではない。そんなものが永遠に続くとしたら、宇宙のしくみそのものがひっくりかえってしまう。それが起こりうるのは、ある特定の場所で、ある特定の時期だけだ。それは「蜜柑むき」と同じことなのだ。

 「蜜柑むき」の話をしよう。

(村上春樹 著『螢・納屋を焼くその他短編』新潮文庫)

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 「書けてしまう人」というのはこの世界に存在する。とりあえずどんな形でも、形になってなくても、白紙に文章を生み出し続ける力がある人。そこにテーマがなくても、無限に言葉を固着させ続けることができる人間。それは紙の上に新しいシミを作ってるだけなんだけど、いろんな形のシミがあるから、見る人が見れば意味があるようにも見える。書けてしまうとは、その程度の才能だ。

 僕も、「書けてしまう人」の一人だ。黙って文章を書いていろと言われれば、一日に一万文字でも二万文字でも書ける。二万文字以上は、時間の都合で難しそうだけど。それでも、素晴らしいものが書けるわけじゃない。たくさん書けることと、良いものが書けることは、当たり前だけど関係がないから。村上春樹はたくさん、良いものが書けるみたいだ。それはきっと素晴らしいことだと思う。

 村上春樹は、「書けてしまう人」なんだろうとおもう。文章を見ればわかる。整理とか、構造とか、そういったものがないのだ。特に、彼の初期の作品にはない。秩序とか理路とかがーー彼なりのそれはもちろんあり、それがあるから小説になっているのだけどーー他の小説家と比べて、いや、さまざまなブログやツイッターの文章と比べても、ない。

 だから、パラグラフの最後が、「それはまあそうだ」とか「そんなふうに想像してみただけだ」みたいな、曖昧な言葉で終わってる。着地点を見つけてから書き出す人は、こんなふうには書かないだろう。「書けてしまう人」は、先を考えない人だ。だから、知性はあんまり働かせてない。

 「書けてしまう人」は自分の考えを書くのは得意だけど、ストーリーを展開させるのが苦手だったりする。先を考えていないから、物語を構築できないのだ。理論や物語を構築しないとまとまった文章は書けない。

 ではそんな人は文章をどんなふうに書くか、最初に引用した文章が、お手本になる。村上春樹の初期の短編『納屋を焼く』の冒頭部分だ。

 最初の段落が長い。「私」と「彼女」と、その関係性や考え方について書いているのだけど、話題が横滑りしていって、必要のない情報まで書いてる上に、収拾がつかなくなって、それはまあそうだ、で終わらせてる。これは文句じゃなくて、面白い文章だってことだ。

 その後も、長い段落が続いていく。そしてある程度書いたら「たぶんそんな風なんじゃないかと想像してみただけだ」、「うまく説明できないけど、要するにそういうことだと思う」と、少し投げやりに終わらせる。そして、飽きるまで次の話題について書くのだ。煮詰まったら、終わらせる。何度も言うけど、文句を言ってるわけじゃない。「うまく説明できないけど」と言って文章を終わらせることは、とてつもなく誠実なことだ。彼が批判されるとしたら、その誠実さゆえなんだろう。

 そして脱線しながらも、ある程度彼女と自分の紹介が終わったら、唐突に「蜜柑むき」の話しが出てきて、話は展開されていく。

 「蜜柑むき」の話をしよう。

 という転換は素晴らしい。そして凄まじい。有無を言わせない迫力がある。こういう文章を書きたい。

 こうやって、先の見えないままに見えないことを力に変えて彼は書いてる。だからきっとその執筆過程は冒険になるんだろう。ある程度書いて、煮詰まったら唐突な転換が起こり、お話のなかに外部から何かが持ち込まれる。この後、「彼女」は北アフリカで出会った恋人を連れて「私」の前に現れるのだけど、それが外部から何かが持ち込まれる、ということだ。

 村上春樹の描く主人公は人格がないようにも思えるが、そんなことはない。かれらはただ見ているだけの存在なのだ。そして、ずっと考え、ずっと書き続けてる。だから行き詰まる。だから転換を要求する。世界は、その要求に応えて彼の外部から「お話」を持ってくる。そうやって世界は動いてる。

 村上春樹の描く主人公は世界の中心だから、少なくともその小説の、描かれている部分においては中心だから、何もしていない、無力な、人格のない人間に思えるんだろう。

 しかし彼は行き詰まる。行き詰まるから、世界は展開していくのだ。きっとそういう感じだ。僕らの生活や人生だって本当はたぶんそんな感じだ。何ひとつわからない、決まってないなかで外部から何かが持ち込まれ、奪われる。それで何かが変わったり、変わらなかったりする。だから幸せで、だから楽しい。村上春樹の小説は面白い。ぼくはいつだって、文章をポジティブに終わらせたい。