ゲージュツ的しつけ

フェレットのしつけが書いたゲージツ的なしつけ術の数々。メール→fererere25@gmail.com

快楽から見放された男たち

 俺のライフワークとするテーマは「恋愛」「快感」「システム」「欲望」「物語」「精神病」の六つある。そこに付随して、戦争やセックスやコミュニケーションや宗教の問題がある。そして表現法法として、音楽や小説がある。

  俺は快楽を得たい。そのために制度の外へ行かなきゃならない。制度に絡め取られたままじゃ死ねない。

 昨日は完全に負けた。負けたと言うのは、制度に絡め取られたということだ。俺は人間には負けない。人間相手に勝ち負けはない。制度には負けてしまう。制度が人間を動かしてるのではないかと思うくらい、世の中の人間は制度的だ。システムと言い換えてもいい。規範と言い換えてもいい。快楽は、そこを飛び越えた瞬間にしか存在しない。快楽を得ない方向に話が進んでしまうというのは、制度への屈服なのだ。

 現代はシステムが人間を動かし、システムが人間を支配している。恋愛は、時折システムを超えることもあるが、結婚はシステムのなかで生きるということだ。

 家族というのもそうだ。抑圧や支配を受け入れることによって恩恵を得られる。

 システムの外に出られるものだけが尊いんだ。音楽はそうだ。物語もそうだ。宗教もそうだ。精神病もまたそのひとつだ。それらは、快楽と繋がってる。だから、音楽は快楽的じゃないと意味がない。下手くそな音楽家は最悪だ。アカデミックなのも面白くない。システムから逃れるためにある音楽が、システムを補強してしまっているからだ。

 システムは快楽を抑圧する。しかし、快楽は決してシステムに支配されない。大事だから何度でもいうけど、快楽的なものだけが、システムを飛び越えることができる。それは、女性は特によくわかってる。

 現代の多くの人間は快楽に見放されてしまっている。それどころか、快楽を得ようという欲望自体を持たないのかもしれない。

欲望が苦しみの原因であるのは確かだ。 ラーマーヤナにも、「宝石の満ちる大地、黄金、家畜、婦女があっても、一人の男を満たすのには及ばない」とある。

 古代インドでは、満たされることがない故に無欲は徳であるという思想が発達した。

 ゴータマ・ブッダは人間の渇愛はつねに不満を伴うということを悟った。

 不快なものを経験すると、その不快なものを取り除くことを渇愛し、快いものを経験すると、その快さが持続し、強まることを渇愛する。だから、心はいつも満足することを知らず、落ち着かない。

 渇愛とは、欲望のことだ。人間は必ず満たされない。だから、欲望は必ず叶えられない。何かを欲しても、どこかで必ず挫折するということだ。欲望は断念を求められる。断念は苦しい。

 欲望のレベルを下げるか、欲望そのものを消してしまえば苦しみは軽減されるだろう。それは快楽を諦めるということだ。快楽を求めるのは苦しい。それでも俺は快楽を諦めたくはない。

快楽を得るためには、制度から抜け出す必要がある。それはリスクを取るということだ。命をかけるとか、実存をかけるとか、生活をかけるとか。何でもいいけど何かをベットする必要がある。

 欲望するには覚悟が必要だ。リスクを払う覚悟、戦う覚悟、そして苦しみを得る覚悟だ。それを経て、快楽へとたどり着ける。制度のなかで生きるのは楽だが、快楽から見放されてしまう。

 千葉雅也は『メイキング・オブ・勉強の哲学』の第四章『欠如のページをめくること』のなかで、ラカンの不安論を紹介している。

 (ラカンによれば)何かが失われるから人は不安になるのではなく、何かに近づきすぎて「欠如がなくなる」から不安になる、というのです。

(中略)

 欠如があるということは、いま自分の置かれている状況の、さらにその先があることを意味しています。いま自分が置かれている状況であっぷあっぷなのではなくて、まだその先に余地がある。その余地に向けて、新たなことを継ぎ足したくなる。ラカン的には、それが「欲望」なのです。(中略)欠如がなくなるというのは、欲望できなくなることと同義であり、それが不安なのです。

(千葉雅也著 『メイキング・オブ・勉強の哲学』 文藝春秋)

 何かに近づき過ぎて欠如がなくなるから不安になる。では、欠如とは何か。近づき過ぎて失われるもの、それは距離だ。つまり欠如とは自分が置かれている状況と対象との距離だ。

 わかりやすく言えば、理想の自分と現状の自分との距離、と言い換えられるかもしれない。

 理想の自分と現状の自分との間に距離がないと、理想に辿り着くために何をしたらいいかがわからなくなってしまう。現状、即理想というような考えを持つ人は意外にも多い。

 そんな考えはありえないと言うかもしれない。なので例を出そう。何かをやっていて、うまく行かなくてすぐに辞めてしまった経験はないだろうか。あれは、現状と理想との間に距離が取れず、そのギャップによって心が折れてし待っている状態だ。現状の自分が理想的であるはずだ、という幻想を持っている状態。それをラカンは「不安」と言ったのだろう。

 現状と理想の間に距離が取れていれば、理想にたどり着くためにいろいろと試行錯誤をする。行動のプランが立てられる。それが「欲望」であり、余地に向けて新たなことを継ぎ足す、ということだろう。

 理想という喩えを用いたが、これは文章でも、音楽でも、食事でも、全てにおいて言えることだ。距離をとり、自分との間に生まれた空白を埋めようと、新たなことを継ぎ足していくこと。それが欲望するということだ。

 システムのなかにいる間は、余地がない。よって、欲望することができず、快楽を得ることもできない。だから、多くの男は快楽から見放されている。

 いま自分が置かれている状況の先がないのだ。それを知っているから、将来に希望も持てない。システムの存続だけを願うようになる。その成れの果てが、ヤフコメやTwitterに見られる地獄のようなクソリプ合戦だろう。

 あれこそ、快楽に見放された人間たちだ。システムの内部にある一般的な善悪の基準で他人を裁くことで、快楽を得ようとしている。しかしそれはシステムによって動かされているに過ぎないため、不満が残る。先がないのだ。欲望する余地が残っていない。

 そこから抜け出すためには、善悪の基準を抜け出したところに快感を見出すしかない。変態になれと言ってるわけじゃない。犯罪を犯せと言っているわけじゃない。自分の規範を少しだけ逸脱してみるのが快楽に繋がっていると言いたいだけだ。

 システムには、意味がない。快楽を得ようと思ったら、リスクを取ってシステムの外に出るしかないのだ。