ゲージュツ的しつけ

フェレットのしつけが書いたゲージツ的なしつけ術の数々。メール→fererere25@gmail.com

幼児の記憶を書く

 書くことがないなどと思っていたのだけど、書けばいいんだ。幼い頃のことを。自分の幼児だった時を想わない詩人はいないと、『人間の建設』という本の中に書いてあった。ぼくは詩人じゃないから、幼児のことは特に思い出さなかったけど、古い記憶はある。

 いちばん古い記憶。おそらく二歳くらいの頃、テレビがついていて、両親が何かを言い合ってる。部屋のなかは明るい電気に照らされて、おそらく当時のことだから白い蛍光灯だろうと思う。白い蛍光灯は部屋を真っ白に染めるから、外が朝か夜かはわからない。母親が泣く、父親が大きな声を出す。お皿が割れる。ぼくは笑顔だった。笑うしかないから。

 幼児の記憶というのは、ぼくにはこれしかない。あとは、保育園のすべり台をすべり降りる女児の下に運悪く通りがかったがためにスカートを覗いたと難癖つけられて、親にまで報告されてしまったこと。小児喘息の診察に行った病院の脇にあった公園でブランコを漕いでいたら後ろ向きに転倒して頭を打って、その日二回目の診察に行ったこととか、細かいエピソードが二、三あるだけだ。

 こうして見るとぼくの幼い頃は良いことに恵まれなかったようにも見えるけれど、ぼく自身は多くの幼児がそうであるように無条件に幸せだった。自他の区別もなく、時間の区切りもはっきりしないからこそ味わえる永遠のような幸せ。食料は尽きないし、アニメやおもちゃの娯楽に取り囲まれて、生活は穏やかだった。2000年代前半の、のんびりとした豊かさのなかで育っている幸福な子供だった。

 書くことがないと言って始めた文章だったけど、テーマみたいなものはある。これだったら「幼児の頃の自分」というテーマだ。

 でも、文章はテーマに沿って書くものじゃない。こういうことを言うと、テーマに沿って作文をすることを強いられてきたぼくらは少し反発を覚えるのだけど、それ程ぼくらは、というかぼくはテーマ志向みたいだ。ただ、テーマ性みたいなこととは違うやり方を探すことが大事なんだとも思う。

 極端なことを言えばテーマを設定して書けるならテーマだけ読んでれば良い。「狂おしいほど好きなことをやる才能が自分にないことの悲しさ」について書きたいなら、「狂おしいほど好きなことがあるんだけど才能がないからできない」とだけ書けば良い。簡単に言葉に出来てしまうことならわざわざ書く必要なんてないんじゃないだろうか。

 文章をわざわざ書くとはきっと言葉にならないことを言葉にしていく矛盾めいた作業なんだろう。そこには厳密さが求められる。りんごをりんごと書いてしまえば、りんごの三文字でしかないけど、色や形や匂いやその場にいるときの佇まいやりんごとの関わり方やそれら全て、いま目の前にある一つのりんごについて厳密に伝えようと思ったら、三文字よりも字数が必要だ。

 言葉はひどく曖昧なもので、曖昧だから人に通じるのだけど、その分だけ意味が正確に伝わらない。

 ぼくが自分の気持ちを「やるせない」と表現する。するとぼくの、本当は五文字に収まらないはずの感情がほかの「やるせない」と同一のものとして流通する。ぼくの複雑な感情の総体は誰かの「やるせない」フォルダのなかに入ってさまざまなモノや出来事や感情と関連づけられる。それらは似ているけど違う。しかし分類するほどでもないくらいの違いだ。結果的にそれらはすべて「やるせない」という一つの意味に回収されて、個別のディティールがはがれ落ちる。

 言葉は持つこうした作用はとっても便利だ。これがないと文章は読めないし書けない。表現だって成立しない。だから、この基本的な作用に乗っかった上で、ぼくはテーマに回収されないような、言葉で書けないような言葉を書きたいと思ってるんだろう。

 知性とは、複雑なものを複雑なままに捉える力だと誰かが定義していた。複雑なものを複雑なままに、という言葉にぼくはひどく共感した。ぼくが追い求めているのは知性なんだろうか。複雑なものを複雑なままに、素直に、誠実に、正直に表現したい。それができたらどんなに素晴らしいだろうと、素直に感じてる。