ゲージュツ的しつけ

フェレットのしつけが書いたゲージツ的なしつけ術の数々。メール→fererere25@gmail.com

言葉の外へ

 自分の本体を言葉だと思ってしまうときがある。言葉で捉えられる自分が自分なのだ、という感じだ。こういう名前で、こういう特徴があって、こういう職業で...。でも、それはあくまで言葉であって、自分ではない。

 言葉にしてしまうと、自分というものはいくらか言葉の網の目からこぼれ落ちてしまう。少なくとも、身体は置いてきぼりにされる。それを身体性がない、などと言ったりするんだろうけど、身体性を回復しろ、という言葉はむなしい。よく見かけるのが、スポーツや音楽による身体性の再発見というスローガンだけど、スポーツや音楽はそれだけでは身体性を再発見すること、つまり言葉の外側に出ることができないんじゃないか、と思う。普通にやったらスポーツや音楽は言葉の代替物だからだ。

 自分は言葉でもなく、思考でもない。自我というと、自分の考えのように思えるのだけど、心はたぶん身体とか思考とか魂とかそういう全存在的なものなんじゃないか、とか思うのはたぶんみんな同じで、当たり前すぎて誰も言わないんだろう。

 こんなふうに言葉と自分について考えていると、自分が否定することしかできないのに気づいた。言葉の外側に出たい、出るための方法を考えている。けれど、その方法は見つからない。これはちがう、これはちがう、と言っていくことしかできない。

 ドーナツの穴が存在しているのだろうか、というのは哲学上の大きなテーマらしい。ドーナツを外側から食べていくと、穴は消え去ってしまう。ドーナツ生地に囲まれた空間はあったのだろうか、なかったのだろうか。視覚的に考えると、その空間はあったように思える。囲いがあった。規定されていた。

 地面があって、その地面のまわりに囲いをつくって「俺の土地だ!」と主張したとき、その地面と他の地面とはどういう違いがあるんだろうか。言葉が付加されただけなんだろうか。よく、書類だけの問題で実際は土地を所有することなんてできない、とか言ったりするけど、その場合地面に違いはなく、あるのは付加された言葉だけということになるから、まわりに作られた囲いは、契約書の代替物になるんじゃないか。つまり囲いは言葉である。囲いと言葉は同等の意味を持っている?しかし現実的にそうじゃない。囲いは囲いで、言葉は言葉で、契約書は契約書だから。

 ドーナツの穴も同じようなもので、穴が存在する、と言えばドーナツの生地は言葉と同等の意味を持つ?結局は言葉の問題なんだろうか。囲いやドーナツの生地、僕の身体や全存在、そうしたものは言葉によって規定されているだけなんだろうか。であれば、ぼくらは言葉によって動かされる、言葉の奴隷のような存在なんだろうか。

 そんなことはない。

 そんなことはないはずだ。

 自分の本体はきっと言葉ではない。

 と思うのだけど、その主張を肯定する言葉が出てこない。否定する言葉と、否定を否定する言葉が出てくるだけだ。

 


 何故こんなことを考えたかというと、生きているのが辛くて苦しいから。

 現実のぼくの身体はベッドの上に座っているわけだから、苦しくない。頭はこれだけ旺盛に動いて言葉を生産し続けているんだから、不調はない。であればこの苦しみは心とか感情とか言われるものの苦しみだということになる。

 ここには無理やりな論理の飛躍があって、人間は心、頭、身体の三分割ができるような存在である、という前提で話をしてしまってる。だけど今回は許してほしい。魂を知覚することはできなかったし、この三つ以外を自分は感じることができなかった、

 ぼくには不安がある。「歌がうまく歌えるだろうか」とか、「このままで将来生きていけるだろうか」とか、「教育実習うまくいくだろうか」とか。これらに共通するのは徹底した未来志向だ。現在のことは一切考えていない。不安とは未来に帰属する感情らしい。

 ぼくには後悔や恥ずかしさがある。「あのとき何であんなことを」とか、「もっとこうしていれば」とか、「悪く思われていないだろうか」とか。これらに共通するのは徹底した過去志向で、これも現在のこととは関係がない。後悔や恥ずかしさとは過去に帰属する感情らしい。

 恐怖は未来だし、怒りは過去だ。このように感情は未来や過去のことを思ったときに発生していることがわかる。いや、細かく分類すればきっともっと細かい定義があるのだろうけど、今感じられる範囲だとそうだ。

 これを踏まえると、感情が苦しいというのは、どうやら感情が未来や過去のことを考えているということらしい。

 感情が不安な未来を予測すると、そうならないように行動しろと身体を急かす。いくら感情がわめいても、実際に行動するのは身体だからだ。

 けれども身体は面倒なことをやりたくないので「それは嫌だ」とつっぱねる。

 とはいえ不安な未来は無限に多種多様にあるので、どれだけつっぱねられても感情は「歌の練習をしつつ女の子と連絡をとって授業の計画を立てて料理をつくって将来のために勉強をして先輩に媚を売れ」くらいの要求はしてくるものだ。

 ご存知のように今のところ人間は身体をひとつしか持てないため、身体は「そんなの無理だよ」と言って無気力になる。疲れる。当たり前だ。無理な要求に対して無理を表明しているだけだから。

 なのに感情はそれを許さない。「不安な未来に対して行動できない自分はなんてダメなやつなんだろう」と自分を責め始める。こうなるともう苦しみの連鎖は止まらない。

 この、未来や過去を生きる感情と現在を生きる身体の矛盾が苦しみを作り出しているのではないかと思った。

 解決策のひとつは、身体の声を積極的に聴くことだ。感情はいつも大きな声でまくし立ててくるから、わざわざ意識しなくても耳に入る。それがあらゆる行動のエネルギー源になっているのだから、普段は感謝しなきゃいけないんだけどやり過ぎると矛盾を起こしてしまう。

 そうなったとき身体は無理な要求に疲弊してる。寝たい、疲れた、しんどい、マッサージを受けたい、など抽象的なものから具体的なものまでさまざまな声を発している。けれどその声は小さいから感情にかき消されてうまく聴けない。だから、意識的に耳を澄ませて身体の声を聴いてあげる必要がある。それに従って行動すれば、現在の自分が求めることはしてあげることができ、気分も少しは良くなるんじゃないだろうか。

 もう一つあるなら、感情を止めるという方だろう。これはマインドフルネスや禅やアウェアネスレーニングといったメディテーションの分野になるんだろう。心地良いセックスや自慰行為もここに入ってきそうな気がする。その瞬間何かに集中したり耽溺することで、未来や過去の駆動を止める、そういうやり方。

 でもこれは対症療法でしかない、というのもわかる。なんとなく辛い。なんとなく苦しい。その苦しみはいつか終わるのだろうか。自分や自分をとりまく言葉に感情が動かされず、泰然自若としていられるようなそんな人生を願っているけど、この要求もまた感情が未来に託す幸せなイメージであり、自分の苦しみを広げているのかもしれない。言葉の外へ。言葉の外へ。