ゲージュツ的しつけ

フェレットのしつけが書いたゲージツ的なしつけ術の数々。メール→fererere25@gmail.com

日記をはじめたから、『ゲバラ日記』を読んで、日記について考えてみた

 昨日から『ケーカク的しつけ』というタイトルで日記をつけはじめました。https://fererere25.hatenadiary.jp

 目標は、毎日つづけること。そしていずれ書く長い文章、小説、詩、エッセイを書く土壌をつくること。ぼくは将来、歌手になるつもりでいます。

 

 『ゲバラ日記』を読んでいると、「異常のない1日だった」という記述がとても頻繁にでてくる。異常のない1日、なにも起きなかったということだけど、この場合、異常がないのは良いことなのだろう。

 ぼくはここに日記の本質というか、特性のようなものがあるように思っていて、それはつまり、日記とは一定の日常という個人的な規範やサイクルと、それに対する差異としての種々のできごとの両方を記述するためのフォーマットだということだ。

 「異常がなかった」と言うためには、通常が定義されていないといけない。異常とは通常と比べたときの相対的な判断だから。つまり異常とは差異のことだとわかる。日記とは、差異の記述の一方式だ。

 とまあ、むずかしいことを言っておきながら、ちゃんとわかってないからむずかしい言い方しかできないわけで、わかる範囲のことを簡単にいうと、『ゲバラ日記』は面白い。革命に生きた男の人生の記録を面白いと言って消費してしまうのは良くない気がするけど、面白い。

 『ゲバラ日記』の面白さは、彼の生活が革命や闘いというひとつの目標に向かっていることが前提としてあるからだと思う。

 彼が異常がない、と言えばそれは革命にとって障害ではない、という意味になり、彼が、明日は〇〇をしなくてはならない。と言えば、革命のための行動なのだなと納得できる。彼のすべての行動や言動、そしてその記録の底には革命がひとつの基準として、目標として鳴り響いているから、昨日と今日で革命に近づいたのかどうかがなんとなく手触りとして生々しく感じられるような気がするし、つまりは日記の連続性が保たれているように感じる。

 ゲバラとおなじ大きな目標を、ぼくはこれを読んでいる瞬間だけ、非常に勝手ながら、共有したような意識が生まれる。実際にはちがう。ちがって当たり前だし、他人の人生と自分の人生の接地面を実際以上に拡大して考えるのは失礼だし危険だ。だから共有なんてことはあり得ないのだけど、意識の上で共有したような感覚を一瞬ながら感じることができる。

 ここから自分が日記を書くときに応用できるのは、大きな目標を読者と共有する/したつもりになること、つまりは目標を書くということだ。私はこういう夢や目標を持っていて、こういうことをするためにこの行動をしました。ということが明確に示せれば、日記はひとつの連続性を内包することになり、ひどく打算的に言えば、面白くなるのではないかと思う。

 前提としての目標の提示と、そのためにしている行動の記述、それが人生のサイクルや通常状態を生み出し、そうして初めて通常状態と比べてなにかが起こったときに、異常が起きた、と記述できる。

 そうした記述ができたとき、差異の記述の一方式である、日記というフォーマットが生命を帯びるのだと思う。日記についてすこし考えてみた。おしまいです。