ゲージュツ的しつけ

フェレットのしつけが書いたゲージツ的なしつけ術の数々。メール→fererere25@gmail.com

喋ることすべてが物語になってしまう人へ

 田中小実昌が『寝台の穴』という短編に書いている意味を借りて言うなら、ぼくの書くことやはなすことはぜんぶ物語に他ならない。ぼくだけじゃない。あらゆる人がはなすことや書くことはほとんどが物語だ。

 ぼくの誕生日について、母が話したことは物語だけど、ニンゲン、いつも物語をしゃべってるわけではあるまい、とおもうだろうが、物語をしゃべってる者は、物語しかしゃべれないようだ。

 それも、ほんとは、物語ではないものが、自分にはあるんだが、口にでると、物語になってしまう、というものでもあるまい。物語をはなす者は、もうすっかり、なにもかも物語なのだ。

 (中略)

 軍隊はなんでも命令だから、というのも物語だ。ぼくは命令というものをうけたことは、一度もない。命令がくだった、というはなしはきいたことがある。れいの敗戦の放送のあと、総攻撃の命令がくだった、という噂もあった。どこを、どう総攻撃するのかはしらないが、そういう噂はあった。

 しかし、命令をうけた兵隊はたくさんいただろう。命令というものをうけたことは一度もない兵隊は、ぼくぐらいかもしれない。だけど、命令をうけたことのあるほかの兵隊ならともかく、そんなぼくが、軍隊はなんでも命令だから、などとは言えない。言えないのに、言うのは、やはり物語だ。

 (引用元:田中小実昌著『ポロポロ』中公文庫)

 文学への無限の愛と哀しみを、簡単なヒューマニスティックや物語として還元せずに描き出そうと、作者は苦闘している。その痕跡が、こうした言葉や、「物語」という概念のなかにあらわれている。

 と、こう書くと、たちまちのうちに田中小実昌の作品は物語のなかに回収されてしまう。「無限の愛と哀しみ」なんてものがあるかどうかはわからない。そもそも愛や哀しみをはかる手段はない。ない上に、わからないのだから、それをさも存在するかのように書いてしまうのは、インチキだ。言えないのに言うのは、やはり物語だ。

 ただ、現実を生きていると、人に通じることばはほとんどがインチキだと気づく。

 この間も「人間関係はぶつかり合いなんだから、すこし喧嘩したくらいで別れるなんて言っちゃダメだよ」というようなことばを発した。こんなのはインチキの最たるものだ。

 いま、小室直樹の『日本人のための宗教原論』を読んでいて、そのなかに、カトリック教会はキリスト教の本来の教義をゆがめ、聖書に書かれていないはずの天国や地獄といった概念や宗教的儀式を巧妙に創作し、人びとにわかりやすく布教した、ということが書かれている。

 キリスト教は啓典宗教であり、つまり神のことばである聖書がすべてなのだから、そこに書かれていない種々の賛美歌やサクラメント(キリスト教の儀式)といったようなものは逸脱であり、それは聖書からの逸脱でありつまりキリスト教からの逸脱であり、魔術であり、非合理であり、神のもたらす救いとはなんら関係がない、というようなはなしだ。

 これを読んで、びっくりしてしまったが、賛美歌やサクラメントもまた物語の一種だろう。これをやれば神が救ってくださる、という物語を創作し、その物語に人びとを引き込んだのだ。

 (人びとにわかりやすく布教した、とか、人びとを引き込んだ、とか、そういうふうに書くのもまた物語に他ならない。どれだけメタ的になろうと結局すべては物語になってしまうのだ。それを田中小実昌はむなしく思ったのだろうか?これはぼくの思考であり、これをもし、田中小実昌はむなしく思ったためにそこから逃れるための創作を繰り返した、と書いたら、物語になってしまう。)


 ぼくはひと抱えの野菜を、冷蔵庫のいちばん下にある野菜室に入れながら、さいきん、坂口恭平が野菜をつくっていることを思い出した。

 坂口恭平は、爪のあいだに土が入って、黒くなっている写真をツイッターに上げていた。