ゲージュツ的しつけ

フェレットのしつけが書いたゲージツ的なしつけ術の数々。メール→fererere25@gmail.com

共感と暴力と、小説の会話

 「なんで川?」

 「海だとちょっとかっこよすぎるでしょ。かっこよすぎて、かっこわるすぎでしょ」

 「どっちにしても水なんだ」

 「いや、そういうわけでも」


 という会話が出てきて、うまい。というか、しっかりしている。最近、若い人同士の会話を多用する小説が多いけれど、ほとんど誰もこのレベルに達していない。たぶん。

 「なんで川なの?」

「うーん、海だとちょっとかっこよすぎるっていうか」

 「かっこよすぎ?」

 「かっこよすぎると、かっこわるくなるじゃない」

 「かっこわるくねえ...」

 という感じで、同じ単語が二度三度とやりとりされて、

 「どっちにしろ水なんだ」

 という“転”が出てこない。つまり、一つのイメージのまわりを二人が回っていて、本当のところは二人ではなくて作者一人がそこにいるだけということなのだが、この小説の会話では二人が違うものを見たりイメージしたりしていることが明快に示される。

(引用元:保坂和志著『小説の自由』 中公文庫)

 最初の会話は佐藤弘の『全ては優しさの中へ消えていく』の中に出てくる会話だ。あとの方の「悪い例」はきっと保坂和志の考えた改編だろう。

 「悪い例」を読んで私は、この会話はまるで下手なカウンセリングのような会話だと思った。

 カウンセリングの技術のなかに、相手が言ったことを繰り返すテクニックがある。

 正しい名前は知らない。きっと何か英語で名前がついてるはずだ。でも僕はよく知らないから”繰り返すテクニック“としか言えていない。

 聞き手は、相手の言ったことを繰り返す。すると、話し手は「そう、それでね〜」といったふうに話を続けやすくなる。

 こういうテクニックだ。このテクニックを知った僕はここ数日間、いろんな人を相手にやってみた。「そんなにうまく行くものかな〜」といった気持ちだ。いつも半信半疑で会話を始める。

 すると、おおむね問題なく話が進む。おお、と思う。その間にも相手は話してくれる。うまく行かないこともあるけど、話し手は違和感を感じても、続きを促されると話してしまうものらしい。

 このテクニックを応用して、昨日、一連の会話を書いた。書いたというか、仮想的に聞き手を想像して、自分で思考を深めていったというかそういう感じだったのだけど、今こうして保坂和志が書いた「悪い例」を見ると、自分が書いた会話によく似ているなあと思う。

 保坂和志は、「悪い例」を”本当のところは二人ではなくて作者一人がそこにいるだけということ“だと言う。

 安易に納得していいかわからないけど、納得した。ここで安易に納得していいかわからない、と書いたのは、わたしは安易に納得するような思慮の浅い人間ではないということをアピールするための防衛的な言葉の使い方だ。

 「私は納得したけれど、安易に納得したわけではなく、これから納得を翻意にする可能性もあるが一時的に納得という体裁を取っているだけです。」

 というポーズだろうと思う。無思考のバカだと思われるのが嫌だったのだろう。しかし予防線を貼るのもみっともない気がする。僕は納得したんだ。確かに納得した。とはいえ書いてしまったものは撤回できないから、続ける。

 安易に納得していいかわからないけど、なるほど納得した。

 「悪い例」の聞き手(?)の話し方は、相手に共感して、相手の言葉を繰り返している状態であり、自分の感覚とか意見とかそういうものがない。

 昨日の会話で私が仮想的に作り上げた聞き手のような無個性な人格だ。それは話し手の言葉を繰り返す機械のようであり、受容や共感以外のアクションを持たない。聞き手がこうした態度のとき、会話の実感のようなものは話し手の中か或いは作者の中にしか存在しない。

 聞き手に人格がない。そこにある世界を感じているのは話し手だけになってしまう。話し手と聞き手が一心同体になってしまうような、そういう感じだ。

 このあとで詳しく話すけれど、話し手と聞き手が一心同体になっているような文章は、保坂和志の言うとおり、しっかりしていない。

 同じように、話し手と一心同体になってしまうカウンセラーはあんまりいいカウンセラーではない。「自分と相手は違う人間であり、違う考えを持っている」という事実を無視してしまっているからだ。

  「相手のことは相手のこと」という態度のことを、カウンセリングの言葉では自他を切り離す、とか、自他を区別する、と言うらしい。


 例えば、相談者が突然「男なんて嘘つきばかりだ!」と言ってきたとしよう。

 これに対して、「なんだと!」と怒ってしまったらカウンセラーにはなれない。逆に「全くもってその通りだ!男なんて嘘しか言わないんだ!」となってしまうのもダメだ。

 前者は相手の怒りを自分に向けられた攻撃だと解釈しているし、後者は相手の怒りを自分のものにしている。

 どちらも、相手のことは相手のことであり、自分のこととは違っている、という態度を取れていない。

 会社から帰ってきたとたん、あなたの奥さまが、隣の奥さんがいかにたいへんか、わがままか、を話しだしました。

 「今日も自分の家の生ゴミを、うちの家のほうに掃き出していたのよ。うちで出したゴミをそっと開けて調べているし、私の悪口を近所で言いふらしているし.......」と、とどまるところを知りません。そんなとき、玄関のチャイムが鳴り、うわさをしていた隣の奥さんが入ってきました。

 「明日、いっしょにデパートのバーゲンに行かない?」という誘いです。あなたは、奥さまがあれだけ悪口を言っていたのだから当然断ると思っていると、なんと奥さまはニコニコして「行くわ」と言うのです。それでいながら、隣の奥さんが帰ったらすぐにまた悪口がつづきます。こんなとき?あなたは冷静に奥さまの話を続けて聞けますか?

(引用元:東山紘久著『プロカウンセラーの聞く技術』 創元社)

 僕だったら無理だ。「そんなに嫌いなら行かなきゃいいじゃん」とか、「結局行くんなら悪口言わなければいいのに...」とか言ってしまいそうです。言わなくても確実に思うだろう。

 これは僕だけではないと思う。多くの人がそうだと思っている。

 逆に、自分がそんなふうに複雑な状況の愚痴を言ってるときはだいたい「そんなに嫌ならやめればいいじゃないか」とか「それでもやるって言うなら文句を言ってないで手を動かせ」とか言われてしまう。

 「嫌ならやめろ」理論だ。むかし流行った「嫌なら見るな」という言葉を思い出した。「そんなに嫌なら日本を出て行け」とか。お分かりのとおり、これらは全て暴力的だ。これを言う人は「相手のことは相手のこと」という構えを取れず、「相手のことは自分のこと」であり、もっと言うと「対立する相手を自分の思い通りにしたい」という感情が見える。

 さて、「相手のことは相手のこと」と考えられるようになりますと、この会話はずいぶん変わってきます。あなたが会社から帰って来たとたんに、奥さまが隣の奥さんの悪口を言いだしたとしましょう。

 奥さまの話を素直に聞いていると、隣の奥さんはたいへんな人であることがわかります。ここで「妻の話は妻のこと」が生きてくるのです。

 もしこの指標が生きていないと、奥さまの話を聞いてあなた自身が隣の奥さんに腹を立ててしまいます。あなたは間接者であったはずなのに、いつのまにか腹立ちの主体に変化しているというわけです。

 しかし、奥さまの腹立ちに共感してあげる必要はありますが、あなたが腹を立てるいわれはないのです。(中略)これではあなたは妻と自分の自他の区別が、あまりついていないことになります。

 “あなたは間接者であったはずなのに、いつのまにか腹立ちの主体に変化しているというわけです。”

 この一文が僕の言いたいことです。

 聞き手が話し手に一体化しすぎると、感情の主体が入れ替わってしまう現象が起こるみたいだ。

 保坂和志が示した「悪い例」のような会話や、昨日の僕が書いた「下手なカウンセラーの聞き方」みたいな会話は、二人の人間がいたらそれぞれ違う人間であり、お互いのことはお互いのことである、という客観的な事実が保たれない。

 保坂和志の言うところの”転”が出てこない会話になってしまう。“転”とは、違いとか、別の視点とか、新たな考えとか、話し手と聞き手の間に違う現実があることに根差している。

 “転”のある会話は、会話の中にお互いの主観が混じる。違った視点や考えが導入される。のだと思う。僕は保坂和志に納得してしまったので、それは、僕なりの言葉のシステムみたいなものの中に勝手に取り込んでしまったということなので、こういう風に結論づけてしまうしかない。

 会話で“転”を作り出すことができる、保坂和志に言わせると「うまい」作家の一人が村上龍だと思った。

 「おい、向こうで保健所にいたって本当か?」

 ヘロインを包むアルミ箱を開きながら僕はオキナワに聞いた。

 「ああ、オヤジにな、入れられたんだ。アメちゃんの保健所だよ、俺がぱくられたのはMPだったからさ、まず米軍の施設で直してからあ、こっちに送り返されることになったわけだな、リュウ、やっぱりアメリカって国は進んでるよ、俺ホントにそう思ったぜ。」

 ドアーズのレコードジャケットを見ていたレイ子が横から口をはさむ。

 「ねえリュウ、毎日モルヒネ打ってもらえるんだってよ、いいと思わない?レイ子もアメちゃんの保健所入りたいなあ」

(引用元:村上龍著 『限りなく透明に近いブルー講談社文庫)

 こういう会話は、かっこいい。憧れる。“転”がある。

 このレイ子の会話が“転”だと思った。こういう当てはめ行為に意味があるかわからないけど、やってみる。

 レイ子はオキナワの話を繰り返していない。オキナワはこの会話の中では一度も「毎日モルヒネ打ってもらえる」なんて言ってない。

 これはレイ子の中から出てきた言葉だ。オキナワの話を聞きながら、レイ子の中で思考が回り、記憶とか感情が言葉になった。それを口に出した。そういう感じがする。

人が数人いたら、一つの言葉に対する人数分のイメージがある。今のところ、人間同士で完全なイメージの共有できない。共有できないから、違うことを言ったりわからないことを言ったりする。それが“転”になるんじゃないか。あるリアリティをもつんじゃないか。と思う。

  村上龍は、何かの作品のなかで「結局、人が他人に影響を与えるなんて不可能なんだ」というようなことを言っていた。これは、ちょっと悲観的にも見えるけれど、自他の区別をするということにつながる。つながらないという人もいるかもしれない。けれど僕はつながると思う。

 一つのイメージを二人が共有することは、まだできない。同じスマホの画面を見ている恋人同士だって、違う印象を抱く。

 だから、カウンセリングちっくな会話は一つの嘘なのかもしれない。共感とは、優しい嘘か、自他の区別がない暴力のどちらかなのかもしれない。いや、そんなことはない。しかし、安易な共感や納得に僕がこだわるのは、そういった何か不穏なものを感じているからだとも思う。

 人間は結局自分で治るしかない。心が辛いときは、吐き出し、自己治癒力で治る。それには他人が必要だ。だから、村上龍には反するけど、自他の区別を持った上で話を聞くことができれば、相手に影響を及ぼしたり、自分に影響を及ぼす助けになれるかもしれない。

 そういうのを本当の意味で、共感と呼ぶのかもしれない。ここでいう本当とは、理想的な、という意味だ。

 かもしれないトークで終わってしまったけど、共感は押し付けや暴力じゃない形で存在できる、そんな感じがする。この感じは、なんだかいい感じだ。