ゲージュツ的しつけ

フェレットのしつけが書いたゲージツ的なしつけ術の数々。メール→fererere25@gmail.com

文字におぼれて、間違いをおそれる。

 頭の中に文字が生まれていく。無限に文字が生まれて、頭の中で誰かが音読している。だからぼくは思考が音声として流れていく。音声言語タイプと言うらしい。

 生まれた文字は時間の流れの中で次々と流れていき、消えていく。

 「ゆく川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。」

 と言ったような感じで、次から次へと流れていく。

 流れていく、というのは音声になるという意味だ。文字が生まれて(これは視覚的に見えるということではなく文字を文字として認識した段階の、言葉になる直前の予感のようなものだ)、それが次々に読まれていく。

 音声よりも文字の方が圧倒的に早く生み出されるため、未消化の文字が頭の中に生まれて、溜まっていく。

 音声は文字に追いつかず、追いつこうとしたら思考のスピードを上げるしかないのだけど、思考の、つまり読み上げのスピードを上げると頭がつかれてくる。頭がつかれると、読み上げは停止するか、停止したくなる。しかし文字はその瞬間にも生み出され続けているため、脳は処理しきれない文字に溺れてしまいそうになる。

 文字に溺れそうになった脳内は吐き出す先を求める。ぼくはそういう時にメモアプリを開き、文章を書いています。

 スマホの小さな画面なら、タイプする速度は読み上げと同じか時に読み上げより早い。だからはやいスピードを持って文字を、変な話だけど、文字として固着することができる。書いておけばその瞬間の思考が形となって残るため、後で読み返して少し面白がることだってできる。たいていはくだらないのだけど。

 僕は文字を音声として捉えてしまうため、黙読ができない。いや、文章を読むときは黙ってるから人が見たら黙読に見えるかもしれないのだけど、実際は脳内で音読している。

 そうじゃない人がいるらしいというのをどこかで見たことがある。文字を文字としてそのまま処理できるタイプの脳があるらしい。速読というのもそういう技術なんじゃないかと思う。パターン認識的に文字を処理できるということなのだろうか。

間違えないように書きたいけれど、人間は間違える。間違えて覚えてることもあるし、ふと自分でも理由のわからないミスをすることがある。

 なんでこんな話を突然するのかというと、途中まで書いたけど、これ曖昧に覚えてるなぁと思ってやめてしまった文章があったからだ。

 曖昧であることを恥ずかしく思ってしまい、また曖昧であることを曖昧であると書くことを恥ずかしがってしまった。そんな自分に気づいた。保坂和志のエッセイを読んでいて気づいた。保坂和志の『読書実録』という本を読んで気づいた。間違えた。これは小説であってエッセイではない。ないらしいけれど、読んだ時の手ごたえを僕はエッセイだと感じた。しかし小説のようにも感じた。

 この本に限らず、保坂和志の書く文章はよく間違える。なんで間違えたかわかるかというと、本人が間違えたって書いているからだ。曖昧なところもわかる。なんでわかるかというと、本人が曖昧だと書いているからだ。

 僕の記憶が正しければ〜とか、〜と書いたが、ずいぶん時間がたっているので正しい記憶じゃないかもしれない。とか、〜なんじゃないかというようなことを思った、みたいな感じの但し書きが多く書いてあって、その潔さを見て、わからないところはわからないと書いて良いんだなと思った。

 作者が、わからないけど多分こうなんだろう、と書いている限り、それは嘘にならない。確かめたい人は確かめれば良いし、そうじゃない人は好きにすれば良い。わからなくても書いてしまう、思い浮かんでしまう、ということの方が意味があるような気がする。つい、というやつだ。つい、うっかり。不用意なことは悪くなくて不用意を自覚していることが大事ナノダロウカ。ここでカタカナにしたのは、頭の中でカタカナだったからだ。うそぶくような口ぶりというか、そんな感じの音声だった。心がこもっていないってやつだ。「本気で思ってないでしょ!」っていうやつだ。

 間違いは恐れず、間違いの恐れがあるところは丁寧に書いていこうと思った次第です。

 保坂和志の文章は読んでいてとてもわかりやすい。丁寧で、説明がうまいからだと思う。異常なほどに丁寧だ。いちいち止まってディティールを書いていく。だから、疲れる。けれど疲れをいとわず文章と付き合えばとりあえずわかる。状況はわかる。真意とかそういうのはわからない。裏の意味とか、そういうのは苦手だ。わかるのが苦手だ。わからなくてもとりあえずわかるから面白いのかもしれない。

 彼の文章は客観的だ。自分のことも他人のように書く。また、彼の文章はすべてが小説だ。小説的という言葉があるのかどうかは知らないけど、小説的に、それはたぶん、意味合いとしては、描写的に書いている。

 エッセイだと思って読んだら小説だった!というようなことが起こる。小説だと思ったらエッセイだった!かもしれない。正確にはどちらでもないし、なにを持ってその二つを分けるのかも分からないし、僕は高校生の時小説と随筆の違いがわからなくて、わからなくても国語の問題には取り組めたから、たぶん読み解き方や出題の仕方は小説もエッセイも同じで、そうであるならジャンル分けとはあまり意味のないものかもしれない。