ゲージュツ的しつけ

フェレットのしつけが書いたゲージツ的なしつけ術の数々。メール→fererere25@gmail.com

文章の中を満たす「私」の濃度。

 濃度の濃いものは身体にこたえる。

 塩も醤油もかけすぎるとダメだし、味噌は濃度が濃すぎると溶けない。

 料理たとえをしてしまったけど、文章もまた料理と同じように複数の素材や味から構成されているはずで、その中でも「わたし」の濃度が濃すぎると、面白いけど、疲れる文章になる。

 俺は、俺は...。毎日、私は一人称を繰り返し繰り返し唱えて生活している。アメリカの電話会社が過去に行った調査によると、一日の通話の最中に一番使われる言葉が「私(大文字のI)」らしい。

 人間は一日に何度も私を唱えてる。私は特に多い人だ。我が強い。会話で、文章で、思考で、絶え間なく俺、俺、、、と言い続けてる。

 一人称の生活。一人称の人生。

 そこで生きていると、私はどうにも「俺」という言葉が鬱陶しくなってくる。

 他人に興味を持たず、自分のことだけを語り、感覚の中に閉じこもり、世界を思い通りに支配したい欲求が、絶え間ない「俺」に表れてるんじゃないかと思う。

 「自我」というやつだ。

 「SNSにより肥大した現代人の自我」といった文脈で使われる言葉だ。あんまりいいイメージはない。自我が強い人、と言われたら付き合いづらそうだし、自我ときたら、押し通すか、抑えるかのどちらかなのだ。あると邪魔なもの、極力小さくしたいもの、といった扱いを受けているみたいだ。

 その一方で、「自我をしっかりと確立する」というような、「確固たる自分」という意味でも使われる。精神にとって非常に重要なものとして扱われる概念であり、この場合「自我」は少しプラスの意味を帯びる。

 プラスにせよマイナスにせよ、「自我」は確固たるもので、重く、存在感が強い。私にとってはそんなイメージがある。そして「俺」という言葉は「自我」を連想させるので、確固たるものであり、重く、存在感が強い。それだけに、たくさん使っているとちょっと疲れる。

 みうらじゅんは、「自分探し」ではなくて「自分なくし」の考え方の方が気楽だと言っていた。それはきっと仏教に由来する考え方だろうと思う。

 自我は硬いから壊れやすい。壊れやすいのに、重いのでつい手荒に扱うことになってしまう。

 「俺はすごい」と思う一方で「俺はなんてダメなんだろう」と思ったりする。時には同時に思ったりする。「俺」とはいったい何なんだろう...と思いつつも、雪だるまのように色々な情報を取り込みながら「俺」は肥大し、硬くなっていく。

 気づけばこの文章も、省略されているのも含めてほとんどの主語が「俺」になっている。

 一人称の文章だ。だから、ちょっとこの一人称から脱却したいなあと思ってる。 

 三人称の小説が書ける人はすごいなあと、思う。かなり心から思う。文章の中にある自我の濃度をできるだけ少なくしたい。めちゃくちゃ多い人間だからこそ、そう思う。

 つぎは「私は」という主語を一切使わないで文章を書いてみようと思います。