ゲージュツ的しつけ

フェレットのしつけが書いたゲージツ的なしつけ術の数々。メール→fererere25@gmail.com

読み終わりに日の暮れる

 小説を読むと、死というのを意識する。いま、これを読んでいるこの瞬間にも次々と時間が経過して、死に近づいている、感じがする。

 それはたぶん、読み終わりを意識しているからだろう。読み終わるまで何ページというのが、左手に乗っかっている本の厚みでわかる。何ページということは、何文字で、だいたい何時間くらいで読み終わるという計算を常に頭の中でしているから、これを読むということは、これだけの時間を費やすということであり、それはつまりその時間の分だけ生き終わるということだ。

 非常にみみっちい話だ。休日の一つや二つくれてやる覚悟じゃないと小説は読めない。しかし、それが惜しいと思うときがある。これは、小説に限っての話じゃなくて、演劇や映画でもそうかもしれない。でも小説が一番顕著だ。エッセイで時間を感じたことはない。評論や実用書でもない。

 読み終わりたいのか読み終わりたくないのかわからない。これを読み終わったあと、現実の世界では日がくれているだろうと思いながら目で文章を追っていると、なんとも心許ない気持ちになってくる。これは親に対する愛着にも似ている感覚だ。一生その小説の世界に閉じ込めてくれるなら、あるいはこの身体を捨ててその小説の中に飛び込み、寝食を物理的に忘れていられるなら、もしくはこれを読み終わる前に死んでしまえるなら、ぼくは読み終わった後に来る日暮なんて怖くないだろう。

 でも小説はあるタイミングでポンとぼくを投げ出してしまう。それは唐突に訪れる。いつか終わる。映画ならスタッフロールがある。演劇ならカーテンコールがある。しかし小説にはない。文庫版あとがきとか、解説とかはあるけど、それはなんだか少しちがう。何がちがうのかわからないけどちがう。ぼくは投げ出されるのが嫌なのかもしれない。だから、読み終わりたくないのだ。経験したことを巻き戻すなんて残酷なことはできないから、読み返すのも苦手だ。

 ぼくは彼らの行く末を知ってる。それなのに読み返したとき、彼らは自分の顛末を知らない。そんなの、ぼくにとっても彼らにとっても残酷じゃないか。ぼくは、彼らの気持ちを追体験しなくてはいけないし。彼らは、何度も同じことを繰り返される。嬉しいことも悲しいことも。小説は虚構だ。そんなのわかってる。わかっていても、それでもぼくは時を戻すことはできない。いや、やればできるのだけど、やろうとはしない。

 だからたぶん小説は結局、読んでいるときの時間にしか存在しなくて、それはあらゆる文章がそうなのだけど、それはたぶんきっと音楽的なものなんだと思う。音楽は繰り返し聴くけど、小説は繰り返し読まないのはなぜだろう。別れのスパンが早いからだろうか。音楽は所有できる感じがする。それは錯覚だとしても。小説はどうしても自分の一部になり得ない。自分の一部になり得ない小説をきっと良い小説と言うのだろうけど、読み終わった瞬間に来る別れや、世界の崩壊を余儀なくされる感じに耐えられないほど切ない。ぼくは。

 それはたぶん死のメタファーというか、名残惜しい感情とはつまり死の前体験なんだと思った。読み終わりが死なのだとしたら、読み終わるまでのページ数がわかるというのは、余命宣告を受けているようなものだろう。

 もちろん完全な読み終わりなんて存在しない。小説は読んでいる時間にしかないというなら、それぞれの時間において読書体験は絶対的だし新しいはずだから、好きに読み返せばいいのだという理屈もわかる。非常にもっともだ。

 読み返しに成功した試しはない。なんでだろう。まあぐだぐだ言っててもしょうがない。とにかく、小説を読むには覚悟が必要だ。生きる覚悟、死ぬ覚悟。ぼくは死んでもいい覚悟じゃないと小説が読めない。たぶん。身を預け、自分を消す。すべて覚悟の中にいる。怖れずいこうと思う。