ゲージュツ的しつけ

フェレットのしつけが書いたゲージツ的なしつけ術の数々。メール→fererere25@gmail.com

いまここじゃない世界に触れるとき、いまここにいるぼくはどこへ行くんだろう。

 小説を読むときの、僕とはいったい誰なんだろう。小説を読むとき、とても心細くなる。これはどうしてだろうか。お芝居を見るときや、はじめての音楽を聴く時も同じような気持ちになるけど、小説の場合はひとしおだ。心許ないような気持ち。

 小説の主人公になり変わって読んでいるから、彼のたどる、世界の中での悲喜に引きずられてしまうからなのではないか、つまり、感情移入の問題なのだと、そう言ってしまえれば楽なのだけど、そう単純な話でもないように思う。

 茂木健一郎の本を読んだ時、科学の発見は暗闇を手探りで歩くのに似ている、と書いてあった。もし明るい場所であったら、その景色をパッと見てしまえば、どこに何があるかわかる。しかし、暗闇だったら、体でぶつからない限りはどこに何があるかわからない。右手をあと10センチ伸ばせば金塊が見つかるかもしれない。それでも僕は気づかずに左へ進んでいくかもしれない。

 小説を読むのも同じようなことなのではないかと思った。小説の中には、ここじゃないどこかが広がっている。それは世界なのだけど、1ページ目を開いた時、その世界のどこに何があって、どんな形をしているのか決してわからない。あらすじを読んだってわからない。語られているストーリーがどのような語られ方をしているかで、感じる世界が変わってきてしまうからだ。

 だから、小説を読み進める僕の視点は暗闇だ。主人公や、登場人物が感じたことや、書かれていることを頼りに、暗闇の中にイメージを描き出し、その中に入って行く。その中で僕は手を伸ばしてみる。すると、何かにぶつかることがある。そこに書かれていないものが見える。しかし、それは僕が感じていることではない。僕が暗闇の中に描き出したイメージの中で生きているのは僕じゃなくて登場人物だ。それじゃあ一体、このぼくはどこへ行くんだろう。

 小説を読むときに感じる心許なさは、このぼくが感じている心許なさだ。たぶん。小説を読むときに、数行読んだとき、暗闇の中に立ち上がるイメージの中で生きているのはぼくじゃない。けれど、そのイメージを立ち上げているのはぼくで、ぼくじゃない身体を使って、手探りしたり目を凝らしたりする。それを見ているのは登場人物だ。ぼくはこのとき世界を作り、世界を照らし、世界の中で動いている。しかしそれはぼくじゃなく、それを促している、もしくは、というか本来の作者はもちろん著者だ。ぼくは自分の中に暗闇を用意して、著者の言葉通りに照らしている。

 このぼくは、その時いない。いなくなった方が小説を快感にすることができる。それを人は没入と言うのかもしれない。ここじゃないどこかに完全に行きたいけど、完全に行ってしまったらぼくは消えてしまうのではないかという恐怖。その恐怖が、小説を読むときに感じる心細さなんだろうか。

 ぼくは消えた方がいい。しかし消えたくはない。しかし消えないと小説は、単純に面白くない。ぼくの声は、例えば、読みにくいよとか、そんなことあるまいよ、みたいな、そんな声は嫉妬や疲れや色々なエゴから来るのだから、そんなのはいらない。

 読む小説はもう手放しで面白いことが決まっているくらい、沢山ある。それらは実際素晴らしい。ぼくが、このぼくが変なツッコミを入れずに、小説の中に怖れなく入り込めたら。

 どうしても怖い。ドキドキする。暗闇だからか?自分がどこにいるのかわからなくなる。それは怖いけど快感だ。ぼくは誰なんだろう。ぼくは一人称のぼくではないし、母でもレイ子でもKでもないはずだ。今は、田中小実昌さんの『ポロポロ』を読んでます。