ゲージュツ的しつけ

フェレットのしつけが書いたゲージツ的なしつけ術の数々。メール→fererere25@gmail.com

分けて、決めて、配置することーー永井 希 著『積読こそ完全な読書術である』を読んで。

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 永田希著『積読こそ完全な読書術である』を読んだ。

 僕は一昨日、これを読みながら寝ずに本の配置をしなおした。


 とても面白かった。簡単に言えば、現代社会の情報過多への抵抗の仕方について書かれた本だ。

  現代人は、あらゆるメディアで作られ、過剰供給される情報に押し流されて、様々なコンテンツを脳内の「あとで見る」フォルダーの中に積んでいく。

 見ようと思っている映画、聴こうと思ってる音楽、勉強しようと思った外国語。

 人生を全て使ったってまるで足りない量のコンテンツが日夜生産され、蓄積され続けている。

 著者はこのような、あらゆるメディアで情報が鑑賞されることなく氾濫し、蓄積され続けていく状況を「情報の濁流」と呼び、「情報の濁流」の中で未消化のものが積み上がっていく環境を「積読環境」と呼んでいる。

 僕たちは自分の意思に反して、あるいは無意識的にコンテンツを積んでしまう。それは、社会そのものが巨大な「積読環境」を形成しているからだ。

 著者は、情報の濁流の中を押し流されて無秩序に積読するのではなく、積読の後ろめたさに耐えつつ、自律的な積読環境=「ビオトープ積読環境」を作れと僕らの背中を押してくれる。

 ビオトープとは生き物が暮らす環境を意味する言葉で、知識の有機的なつながりのことを比喩的に言っているのだろう。

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 著者はピエール・バイヤールの『読んでいない本について堂々と語る方法』と、モーティマー・J・アドラーの『本を読む本』の読書論を紹介する中で、このように述べている。

バイヤールは、「鉄道交通の責任者」が「列車間の関係」に注意しなければならないように、「本と本との関係(つまり大きな文脈の中での本の位置づけ)」に注意を払うべきだ、と述べています。

(78ページ)

 

あなたがこれから何かの知識を得たい、あるいは何かの書物を楽しく読みたいと思ったときには、自分が何をテーマにするのかを決めることが重要です。

 大事なのは、テーマをとにもかくにもひとまず「決める」ということです。(117ページ)

 

テーマを決めるのは適当でいいし、適当に決めたテーマを、さらに適当に変化させるのもいいのですが、「自分が今何をテーマにしているのか」を見失うことだけは避けなければなりません。(124ページ)


 (イーストプレス 永田 希 著『積読こそ完全な読書術である』より)

 

この二つの意見を取り入れた上で、著者は、とりあえずテーマを決めてしまい、そのテーマの中でそれぞれの本がどのように位置しているかを整理することで、自律的な一つの「ビオトープ積読環境」を作ることができると述べている。

 自分の「ビオトープ積読環境」は、単なる知識の整理術にとどまらず、巨大な「積読環境」である現代社会の「情報の濁流」から身を守るシェルターとしても機能する。

 「ビオトープ積読環境」は「知識の生態系」でありダムやプールじゃないので、定期的に手を入れてやれば新陳代謝を繰り返し、生態系はさらに豊かになっていく。

 ビオトープの維持には手間がかかる。干上がったり決壊してしまう恐れもある。

 それでも「情報の濁流」にこれ以上ただ黙って飲み込まれているわけにもいかないのだ。

 

  一昨日、僕の部屋には本が積み上がり始めていた。僕は小さな頃からずっと「情報の濁流」に飲み込まれ、もがいている。

 最近はそのもがきも虚しく、濁流は胸のところまで押し寄せてきて、部屋は決壊寸前、自分は窒息しかかっていた。

 だから、できるだけ早く、いつ決壊するかわからないとしても、それでもここに、この部屋に「ビオトープ積読環境」を作らなくてはいけない。そうしないと部屋の方が決壊してしまう。

 そのために、とりあえずテーマを決めて本を分類し、本棚の整理をやり直すことにしたのだ。

 テーマに沿って本を分類して、本棚に配置していくことで僕の「ビオトープ的な積読環境」は可視化することができるようになる。

 自分の知識を構造物として本棚の中に立体的に配置していくことーーそこにはレゴブロックのような快感があるように感じた。

 あるいは、シルバニアファミリーのおうちの中でお人形遊びをしている時のような喜び。

 分けて、決めて、配置することの快感。

 千葉雅也は、諸要素の関係性と配置こそが芸術の問題である、と言う。

 大きな文脈の上でのそれぞれの本の関係性が大事だと主張するバイヤールの言葉を思い出した。

tomo-dati.jugem.jp

 意味の非意味的享受。

 小笠原鳥類の文章を読むと、言葉は、どういう関係性の中に配置されるかによって意味や感触を大きく変えるのだということがわかる。

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 村上龍は、複数ある情報を組み立てて小説を書いていると言っている。

 この情報という概念が何なのかよく分からなかったし、今でもわからないのだけど、意味をそのまま受け取るなら、ここでもまた諸要素の配置が問題になってくる。

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「『配置こそが美徳』なんて」

 この歌詞は、芸術について語っているのか、それともシステムについて語っているのか。

 システムと芸術は、どちらも配置を重要視する。

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 組み合わせて、別の存在を作ることの快感。元あった形を無理やり組み合わせ、全体像を変えてしまう改造の快感。

 コネクトの快感。ディティールによりフレームが変化することの面白さを僕はずっと感じ続けている。

 細部として分裂していくアメーバの集まりというモチーフは多分ここから来ている。

 

 コネクトする快感とは一体なんなのだろう。

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 弁証法の根本には、コネクトの快感がある。

 破壊、混ぜ合わせ、ぶつかり。

 「人と会う時間は、自分と他人がぶつかる時間でもある」という話を友人とした。

 外出自粛を要請されているため、最近は人と会う機会がないっていう話題の時だったと記憶している。

 人と話していて楽しいのは、他者とぶつかる中で、お互いが構成要素にするすると分解されていき、相手の意見や、空間のようなその場の何かと組みあわさって混ぜ合わされて別の何かになる、変身していく、改造されていくことの快感なのかなと思った。

 何かとぶつかることは自分を改造し、相手をも改造していこうとする試みなのかもしれない。

 その試みは必ず失敗に終わる。

 自分の思いどおりに行かなくて怒ったり悲しんだりする人間の精神は、僕の中にもあるけど、相手を改造しようとして失敗することの虚しさから来るのかもしれない。

 相手の改造なんて絶対に叶わない願いだ。だから、力と力の戦いは虚しい。自分の力に、相手の改造を期待したら、殺すしか無くなってしまう。

 コネクトの快感とは、自分が崩れる快感だ。相手を崩す快感ではない。たぶん。お互いに崩れあい、ズブズブになって変身していく過程の中に快感がある。その様はアメーバに似ている。