ゲージュツ的しつけ

フェレットのしつけが書いたゲージツ的なしつけ術の数々。メール→fererere25@gmail.com

言葉と身体かんかく

 アフリカ人の踊りを見ていると、そこに言葉はなく、なんらかの伝達作用はあるけど言語としての理解じゃなくてスッと感情が伝わったりする。もしくは何かの感情を呼び起こしたりする。

 そうした経験は誰にでもあるはずで、この音楽を聴いていると、言葉がないのに、あるいは言葉がわからないのに何か感情が伝わってきたりする。外国の優れた歌手の歌を聴くと、意味なんてわからないけどなんか感情が湧いてくる。そういう経験だ。

 村上龍中上健次の対談を読んで、そこでは音楽と文章について話していて、そこでも、身体感覚と言葉の話をしていた。

 


 『村上「だって最初の物語作家というのは、たぶんみんなに言ってたんだ、夜が怖いから寝れないってときに、火を焚いてみんなに物語を話したんだ。そうするとやっぱり、声が悪かったりリズム感がなかったりしたら、そんなのは絶対できない。当たり前だよ。音楽家だったんだ。」

中上「それよりも少し下って、たとえば王朝の時代、シーザーの時代でも、やっぱり管弦というのはすぐそばにあって、管弦を無視してはなにもできないという時代があった。

 音楽も言葉も、みんな同時に一緒にあるみたいな、そういうもんだよ。そういう瞬間を俺は生きちゃう。俺も偶然生きたし、龍も偶然生きたし、たぶん龍一も偶然生きてる。要するに、音と言葉が遠くない時代がかつてあった。いま偶然何かでできちゃったってことはあるんだよ。」

村上「いい話だ、それ。絶対そうですよ。」

中上「何人かしかいないんだ」』

(村上龍坂本龍一『EV.cafe 超進化論』講談社文庫)

 


 何を言ってるかわからないけど、言葉と音が、つまり言葉と身体感覚が、とパラフレーズしてしまって良いのかわからないので言葉と音が、とするけど、昔は言葉と音が結びついていて、今はその結びつきが弱まっている。ということだろう。

 単純に言葉のリズムとかそういう話だけど、そこには身体感覚が含まれているように思う。

 というかリズムというのも身体感覚だ。僕らは言葉を身体感覚で捉えることができる。

 軽い文体とか重い文体とか、熱いスピーチとか、冷たい言葉とか言ったりする。

 脳の言語を認識する部分と、身体感覚は繋がっていて、たとえばデイヴィッド・J・リンデンという神経学者によると、熱いコーヒーを持っている人は初対面の人間に対して親しみを覚えやすくなるらしい。

 言語と皮膚感覚はこんなにも密接に結びついているのだから、音楽的な感覚と言語は結びついていておかしくないし、ほかの感覚とも結びついているはずだ。甘い文章とか、刺激的な言葉とか、突き刺さるような文体とか、そんな感じで。

 しかし僕は、言葉と身体が互いに影響し合うのは、言葉と身体が結びついているからではなく、むしろ明確に分かれているからだと思う。

 分かれているというか、独立している。言葉と身体感覚は独立しながら、お互いに影響しあっている。

 言葉だけでも感情を伝えられるし、身体表現だけでも感情を伝えられる、それぞれの独立性が保たれていることがその証拠だ。

 つまり言葉には言葉の世界があり、身体には身体の世界があるということだ。お互いに翻訳することはできるけど、正確な交換は不可能だ。

 身体感覚を言葉で翻訳するのは時にナンセンスになる。ダンスを言葉で的確に表現するのはきっととてつもなく難しい。

 言葉と身体感覚はもともと分かれていて、分かれているからそれぞれを切り離して同時に使うのが一番効率の良いやり方なのだと思う。言葉に集中しつつ踊るみたいな。インドのラーマーヤナインドネシアのケチャはその最たる例だろう。神話的なストーリーを意識しつつ、身体を動かすことで集団的に凄まじい集中力を発揮する。アフリカのダンスも、戦いの前に行われる儀式が発祥だという説もある。戦いに向かうというストーリーと身体感覚がそれぞれ分かれている。ストーリーと身体感覚は両方を極限まで駆使した方が人間のパフォーマンスが上がるのだと思う。そのためには意識的に両方を分けて考える必要があるように思う。