ゲージュツ的しつけ

フェレットのしつけが書いたゲージツ的なしつけ術の数々。メール→fererere25@gmail.com

ひどく空虚な風見鶏

 言葉とは、言葉だけでは、小さく語られた夢の断片でしかない。

 この比喩の上では、書きたいこととは、夢そのものに相当する。書かれた言葉とは、語られた夢の断片だ。

 読者はそれを読み解いて夢のおおきな世界とか空間とか雰囲気とか、そういったものを拡大していく。だから、文章を書いたり読んだりすることは占いにとても良く似ている。


 “言葉は、必要だけどそれ自体に価値があるわけじゃない、”

 “ミワコのような女が求めているのは、充実した時間でも、安定した精神状態でも、硬く勃起した男性器でも、すべてを許せる頼りがいのある男でも、豊かでスムーズな人間関係でもない。

 言葉だ。”

 “本当に女を探そうと思ったら、とケンジが考える。愛してるよ、という言い回しを、何百種類と持っていなくてはならないのだ。オレのように。”

 (引用元:村上龍 『音楽の海岸』講談社文庫)

 


 上のは村上龍の言葉だが、高校生の時にこれを読んで、ぼくはバカだから真面目になってやってみた。そしてなんとなく分かったのだけど、これはたぶん女性に限った話じゃない。

 男も、女も、老も若いもみんな、求めているのは言葉だ。少なくとも、自分はそうだ。

 清潔感のある服装、暖かな微笑、抽象的なものがたり。それだけあればひとまずは大丈夫。

 


 ひどく空虚、おおきな虚無のかたまり、あの人は大虚無そのものです。

 と、彼女は笑いながら言った。声によって世界を区切るように喋る女性だった。ハッキリした言葉を、吐き捨てるような調子で、しかし優しく話す。声は乾いていたけど、それは媚びがないというだけで、決して人を突き放すような喋り方ではなかった。

 三島由紀夫の担当編集者の女性が、上記のような調子で彼について語っていたのをテレビで見たことがある。

 僕はボーッと見ていただけだが、そこだけ、音として思い出せる。大虚無、ダイキョム。

 ダイキョム。僕には日本の空虚さなんて表面的なことしかわからない。話すとバカがバレるから話さないほうがいいのかもしれないけど、話したいことなので話す。正確な記述ができない。

 空虚な風見鶏だ。1945年8月15日。昨日まで天皇主義者だった人間たちが突然民主主義者に変わっていく瞬間。国粋主義者たちが、国粋など微塵も感じていなかったと気づいたときのむなしさ。僕には想像することしかできない。いや、想像することもできない。

  それは、それまで日本が抱えてきた虚無のわかりやすい形で現れた一例でしかない。そんな言葉でとりあえず片付けるしかない。日本は虚無を抱えているらしい。現政権を見ると、非常に虚無という感じがする。それをうまく言葉にはできない。

 そしてその虚無、欠落はあらゆる人が持っている。それは、人の言葉でしか説明できないのだけど、共通感覚の喪失とか、伝統の破壊とか、そういうことが原因だとされている。

 まあ、原因はどうでも良くて、どうでも良いというか分からないので今、自分にとって大事なのは、

①何か欠落があるということ。

②長いことその欠落は埋まっていないということ。

③経済ではそれを埋められなかったということ。

 

 その欠落は、誰もが持っている。だから、高級車を欲しがったり、良い社員証を欲しがったりする。そんなのでは全くもって埋まらないのに、ほんとうに欲しいものがわからないのだ。ほんとうに欲しいものは巧妙に隠されている。

 ある人は不安を持ったり、ある人は家族を求めたりする。ある人は暴力を振るう。ある人は音楽を求める。

 個別の求めるものや事態はたぶん問題ではなくその総体の中に何かがある、と言えば格好もいいけど、結局のところ僕はよくわからないで喋ってるだけだ。これは出まかせに過ぎない。

 ただ、自分は、言葉を求めているし、意味を求めている。

 意味とは理解できる何かそのものだ。

 言葉は、言葉だけでは価値がない。言葉は必要があったから生まれた。もしくは言葉として独立していた世界に人間が触れた。

 前者の場合は、人間が言葉を求めたのであり、後者の場合は、言葉の側も人間を求めたのだ。共犯関係。これはおとぎ話だ。

 だめだ。語るに落ちてる。

 僕が伝えたいことは、こういうことじゃなくてもっと焦ってないし多面的で、夢みたいに広がってる。頭で考えてもたぶんそこには到達できない。かなしい。とにかく今は焦っている。焦っている。