ゲージュツ的しつけ

フェレットのしつけが書いたゲージツ的なしつけ術の数々。メール→fererere25@gmail.com

ブッディスト・シンラン

 何をやるべきかわからないと言いつつ、常に何かをやっている。

 

 やっぱり考えることに意味なんかないんだ。というか、考えないで出てきたものにこそ価値があるんだ。

だから、出来るだけ考えないでつくる。物を作る時は。お金を稼いだり、スケッチしたりする時は違うけど、記憶を頼って作るわけだから、できるだけ考えないつくる。

 考えないではたらく。規則に従うということであり、規則に従わないということでもある。

 何一つ考えないでつくる。

 


 オペラのひとって本当はいちばん洗練されてなきゃいけないはずなのになぜかダサい。

 


 爆笑してる人間の声は泣いてるのに似ている。怒鳴ってる人間の声は泣いてるのに似ている。だから爆笑している人間も怒鳴ってる人間もみな一様に悲しいのだと思う。

 

「五月六日までの辛抱ですからね」

 と言った女の口ぶりは、まるで五月六日が来れば何もかもすべて綺麗に収まると言うようだった。

 


 自分の考えがむくむくと湧き上がってくるうちは小説にならないだろう。

 自分の目線と他者の目線のギリギリのところが粋なのだ。考えに埋没してはダメだし、客観的になりすぎてもダメだ。その微妙な距離の取り方が、キャラクターを作るという方法論なのかもしれない。

 自分がこうしたい、とか自分の考えがこうだって言い続けるのは野暮だ。

 人がこうだとか、人の考えばかり言うのも野暮だ。

 


 五月六日が来ても何にもならないだろう。そもそもの働きかたとか、学びかたとか、幸せを得る仕組みとか考え方とかそういうところから変わって行かなきゃいけないのに。元の生活なんて戻らなくていい。常に形が変わっていけばいいし、それでも残るものが本当にやるべきことだ。何かが変わって失ってしまうものは失ったままでいい。それが大切なものだったとしても。何かが変われば得るものだってあるのだから。

 変化は獲得であり、同時に喪失でもある。仕方のないことだ。人の世は諸行無常

驕れるものも久しからず、ただ春の夜の夢の如し。猛きものもついには亡びぬ。ひとえに風の前の塵に同じ。

 日本語が好きだ。鎌倉仏教もけっこう好きだ。浄土真宗がいちばん好きだ。他力に頼る。自力では無理だという考えは、資本主義とは合わないけど、好きだ。

 思えば意味をあまり求めず、偶然性を頼りに組み立てる考え方というか、好みの根本は浄土真宗にある気がする。昔から宗教が好きだった。母は宗教家だった。僕はキリスト教徒でも、神道の信仰者でもなく、やっぱりブッディストだ。ただ、僕の心の原風景はブッダにあるのではなく、親鸞にある。または、親鸞を通して見た法然にある。その師弟関係の憧れから、複数の師匠を求めているのかもしれない。少なくとも、一人の人間から見た世界の認識を、親鸞は誠実に伝えようとしている。