ゲージュツ的しつけ

フェレットのしつけが書いたゲージツ的なしつけ術の数々。メール→fererere25@gmail.com

植物の森、どうぶつの森。

 自分がやるだいたいの活動はゲームで、キャラクターとパラメーターとゴールを設定して、キャラクターがゴールに向かうためにはどのパラメーターを上げればいいのか考えればうまくいくはずで、うまくいかないことは向いてないゲームなんだから辞めればいいと思える。

 そういう世界認識というか、やり方というか、そういうのはすごく納得できるのだけど、例えば類型的な話があって共感したりはあまりできないのではないかとも思う。それはみんなと違う自分が良いとか悪いとかじゃなくて、良いとか悪いとかそれがもうゲームちっくな考え方な気もするけど、そういうことじゃない。ただ、自分には分からない部分とか分かれないことがあって、きっと他の人とか、動物とか植物も分かったり分からない部分があってそれは個体ごとに異なっているんだろうと考えると楽しい。 

 動物は個体っていうのが一目である程度わかるけど、例えば節がついていてある一部を切り離しても生存できる植物、ツタとかドクダミとかそういう植物はいったいどこからどこまでが個体なのだろうか。

 僕らは花の一本一本が個体のような気がしているけど、それだってチューリップみたいに個別の根があるものから、木に咲く花みたいに、桜とか梅みたいなものがあったり、アジサイはたくさんの花の集合体だけどある程度の集合で個体とみなされたり、それは学術的な話ではなくなんとなくの感覚しかわからないけど、どこまでが個体なのか分からない植物は多い。

 そもそも根を張ってネットワークを作り地面に埋まることで地面が強くなったりする植物の生き方って人間よりよっぽど進んでいるんじゃないか。生殖だって遠隔操作でやるし、一切自分は頑張らない。頑張ってる植物を見たことがない。頑張ってる動物は見たことがあるけど、植物はそんなふうに見えない。

 今になってテレワークがどうとか言い始めている僕らのことを街路樹はどう見ていたのだろうか。彼らはすべてがテレワークだから、生きるか死ぬか、その場で生えているしかなくて、たぶん死んだって個体の死はそんなに大きな事柄じゃないのか、それとも、植物も、細胞が集合してきたある段階で自我のようなものが芽生えて、性格とかあるのか、そんなふうに思う。植物に学ぶことはいくつもあるだろう。今後の生き方は植物的になるんじゃないか、その場で動かず、養分を摂取して、後はなにかと繋がっているから生きていけるみたいな。これから生き残るのは待つ人なのかもしれないと、怠惰な自分は希望を持っている。

 がさつな男の肉体と振る舞いに嫌悪感を持ちながらも、その嫌悪感ゆえに惹きつけられていく、という類型的な昼ドラの構成がある。

 これはなんかゲームじゃない気がする。これはなんなのだろう。エンタメの不思議な部分だ。これを見てどこが面白いのだろうか。こういうドラマを、ぼくは面白いと思う。自分がなにを面白がっているのか分からないけど、これが共感なのだろうか。なぜテレビの人は共感させるやり方を知っているのだろうか。植物という感じじゃないけど、動物とか共感するんだろうか。

 パラメーターもゴールもなく。パラメーターがあってゴールがないのがソシャゲだなと思った。どうぶつの森も、面白い。あれってなぜ面白いんだろう。ソシャゲはあまり面白くない。ゴールないけど、ゴールがないから面白いのだと思うのだけど、だから、どうぶつの森はすごく好きな人とすごく苦手な人がいる。ぼくはコレクションとかに気がいってしまって、あまりコミュニケーションをとらないでプレイしてた気がする。気にいった子がいても、実在感を感じられない。目の前にいたらたぶん怖いし。それでも実在感というか、そのキャラをけっこうまじめに愛せる人がいて、目の前にいたら、とか想像しないのか、想像しても受け入れられる人がいて、なんだか面白いなと思う。どうぶつの森実況を見るときは、住民にたくさん手紙を送る人が好きだ。