ゲージュツ的しつけ

フェレットのしつけが書いたゲージツ的なしつけ術の数々。メール→fererere25@gmail.com

製品化されてない自我で大丈夫。

 欲しいのは金。金だけ。

 強権発動を望むリベラルたち、戦後はそろそろ終わる。戦前なんて知らないけれど。

 戦後がもう立ち行かなくなった1998年、バブル崩壊後、熱の冷めた世界に残る熱の余波の中に僕は生まれた。桜が舞っていた四月だったらしい。

 小さな頃から女の子が好きだった。幼稚園に新しく転校?転園?してきた女の子には必ず近づいて、どきどきしながら拒否されていた。

 その頃から何か嫌なことがあるとすぐお腹が痛くなって逃げることを覚えた。ツツジの蜜を吸ったってお腹を壊さないのに、転校した次の日学校に行こうとするとお腹が痛くなった。

 モテたいと思った昨日の、その日の夜にはお腹が痛くなった。幼稚園から持っていたモテたい衝動と小学校から持っていたお腹の痛みという逃げ場が衝突して行き場をなくした痛みの中にいる。

 日本人は管理を求めるのだろうか。教育実習が後期に移るらしいから、僕はごくごく身勝手な立場からものを言えば自粛には賛成だけど、強権を使うなとか危険だとか一ヶ月前に言っていた人たちが今は閉鎖を求める。その姿はちょっと怖い。

 当たり前なのだろうか、状況が変わったのだから。政府がやるのに渋々したがって、抵抗を起こすとかならいいのだが、自ら進んで強権発動を望んでいるのは、単純にヤバいのではないかと思う。

 お腹が痛い時は、お腹に従って行動すればいいので考える必要はない。むしろ考えると痛くなるのでできるだけ思考を止めるほうがいい。これは自我を止めるとかそういうことに近い。はずだと思う。自我を止めたい。

 たとえば昨日書いたモテを語ってるテキストを読むとお腹が痛くなる。それはテキストが悪いわけではなくて今の身体、今日の身体と相性が悪いだけだ。

 坂口恭平の日記を読んだ瞬間にお腹の痛みが引いた。鎮痛作用があるコンテンツが世界にいくつかある。坂口恭平の日記、志磨遼平の歌、H.D.ソーローのテキスト。身体にあってる。

 とりあえず上機嫌に生きていきたい。人前では。ここは人前と個人空間の微妙な境界線上、ミックスダウンの途中で混ざるノイズみたいな自意識を混ぜながら、製品化されていない自我で生きている。

 製品化されていない自我で大丈夫だ。よそ行きに少しだけ整える必要とか自己矛盾とか、考えていたらお腹が痛くなったからもう身体に任せて喋る、歌う、イライラしないで生きていくのは決めたことだ。そして人には出来るだけ上機嫌を見せる。

 僕は家にいて良いって承認されてるみたいで嬉しいよ。世界ありがとう。コメと味噌と豆腐があれば生きていける。世界ありがとう。僕は基本的に嬉しいの人だ。今なら、自分がなにを必要としているかがはっきり分かる。いらないものは求めなくて良いってはっきりわかる。だから腹痛だって嫌いじゃない。身体に無理をさせすぎると、身体の声を聞かなすぎるとすぐに調子は悪くなるけど必要なことだろう。病は休みのサインだ。社会全体が病に向かうということは社会全体が一旦休みを提案したいってことじゃないのか。必要なものははっきりしている。それがなくなりゃ死ぬ気で手に入れようとするし、それでもダメならその時だ。今は幸せだ。