ゲージュツ的しつけ

フェレットのしつけが書いたゲージツ的なしつけ術の数々。メール→fererere25@gmail.com

聖なる動物、野蛮な人間。

 システム、理屈、これは社会の病気だって断定してしまって文句のある人はあんまりいないだろう。コンピューターの処理能力によって拡大された社会の運営コストは僕らの労働力や時間で、それを埋め合わせる為に働かなきゃいけないのだから。コンピューターとはネットワークのつながりであり人間社会であり、それはシステムだ。カフカの小説はコンピューターの出現を予期していた。

 システムや理屈の根本は言葉だ。ネットワークの根本も言葉だ。例えばリンゴをリンゴと言ったとき、複数の人間がいたら、頭の中にあるリンゴは一人一人違うのに、一言、リンゴで通じる。青いリンゴを思い浮かべる人もいれば赤いリンゴもいる。夕焼けのようなリンゴもあれば海のようなリンゴもあるはずだ。海とか夕焼けとかも人によって場所が違えばイメージも違う。それなのにリンゴと言えば同じものになる。同じものを共有してることになる。言語は究極の抽象化とその果てに共通認識を打ち立ててしまった。

 人間は動物である。人間以外の動物を単なる機械だとするなら、それは本能や反射で生きているからという程度の認識だけど、人間は複雑な機械なのか。人間は動物と明らかに違う。これは人類至上主義というわけではなく明らかに違う。言葉に触れることができるからだ。人間と動物を分かつ一番の要素は言葉だ。思考や感情の複雑さではない。それは違いではあるけど原因じゃない。思考や感情を複雑にしているのは言葉だ。人間を人間たらしめているのは言葉の方だ。

 動物としての認識はもっと言葉とか抽象に寄らないはずだ。日本人とドイツ人では、もっと言うと東京人と大阪人では暮らしている環境が違うのだから、意思の疎通はできても、共通の認識ができるはずがない。これはもう広さの問題ではない。同じ空間に属している動物にしか共有できない感覚があるはずだ。これは動物の原理のほうだ。言葉は不可能を可能にしてしまった。人間の認識に大きな変化をもたらした。つまり見えるもの全てが共有可能であるという不可能を可能にした。そして個人的な感覚や、とある集団での感覚、ある一定で限界が来るはずの繋がった感覚を無限に広げてしまった。その結果世界は一つになった。それは凄まじいことだ。いいことかどうかはわからない。いや、その共有可能な感覚と個人の感覚の混合物が芸術だから、いいことだったと言えるだろう。とてつもなく面白いことだ。僕らは言葉があるときに生まれてきてラッキーだった。

 システムの穴を利用して芸術は生まれ、広まった。システムの側からしたら本当は芸術なんて生まれてはいけなかった。ルール違反だからだ。

 動物の原理とシステムの原理、言葉の原理つまり人間の原理と両方の世界を僕らはまたいで生きている。今はシステム全盛の時代で、すべての物事は通じると思われていて、事実あるコードの中では共通の認識を得ることができる。しかしそれではこぼれ落ちる意味の世界がある。認識の世界が、身体感覚の世界がある。芸術は人間を野生に還す。野生の世界とはひどく合理的な世界だ。野蛮じゃない。聖なる世界だ。野蛮さはむしろ理性のほうにある。

 聖なるものと野蛮なもののバランスがこれから問題になってくるだろう。そしてそのバランスを考える行為が芸術と呼ばれている。これからの世界は芸術が示している。そして過去の芸術は今を映している。僕にはカフカが予言者に見える。